カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

Tough love。その2。

2015-06-30 12:42:23 | Weblog

 翌日、私はまずその患者に会いに行ったが、患者は私たちが明日10時半に病院に連れて行く手はずを整えたことを伝えてから、4時間後、日中40度は超したであろう路上ですでに亡くなっていた。

 患者のことを心配して、私にどうか病院に彼を連れて行ってほしいと哀願した麻薬中毒者たちはただ悲嘆にくれていた。

 しかし、彼らは私のことを何一つ責め立てることはなかった。

 私はやろうと思えば昨日のうちに患者を運べることも可能だったのに、それをしなかったこと・・・、悔やんだところでどうしようもないが悔やまずにはいられなかった。

 私は足に力が入らなくなり、しゃがみこんだ。

 いっその事、私を責めて欲しいと思った。

 私の判断ミスだったことは間違えなかった。

 ボランティアのなかでベンガル語を話せ、麻薬中毒者たちと話せるのは私しか居なかったし、彼らとのやり取りはすべて私だけが関わっていたのだ。

 難しいケースだとは分かっていたが、そこに向き合う勇気と愛が私には足らなかったことは私が一番良く分かっていた。

 抜け殻のようになりながらも駅の仕事を終え、シアルダーのディスペンサリーのティータイムで私は他のところを回っていたみんなにその患者の死を伝えた。

 その場は一瞬にして通夜のようになり、誰も何も話さず、沈黙と哀しみだけが漂った。
 
 「私は彼に優しくなかった」と私がつぶやくと、カナダ人のチャッドは「私もだ」と言い、私の肩に手を置いた。

 しばらくしてから、私たちはディスペンサリーを離れた。

 私は祈りたかった。

 祈りにすがりたかった。

 そうでもしなければ、私が壊れそうな気がしていた。

 私は泣きたかった。

 私は私を責めたかった。

 彼が苦しんだように私は苦しむ必要があると感じずには居られなかった。

 私の心は乱れるままに乱れ、生気を失い、しかし、救いを求め、とにかくセント・ジョンのチャペルに逃げ込むような思いで重い身体を引きずるようにして向かった。

 目には変わらない雑踏が映っていたが、耳には何も聞こえていないような気がしていた。

 私はチャペルまでの道を一心にして、他のすべてを遮断していた、そうせざるを得なかったのだ。

 {つづく}


 
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Tough love。

2015-06-29 12:43:42 | Weblog

 この言葉は私が今年のカルカッタの滞在中一番苦しかった時にシスターニルマラから教えてもらった言葉である。

 シスターニルマラとはマザーが1965年2月一番最初インド外のベネズエラに施設を作るために責任者として派遣したしたシスターであり、1976年に作られた観想会の最初の責任者でもあり、そして、マザーの次の総長になったシスターである。

 マザーがシスターニルマラをどれだけ信頼していたかが容易に想像できるだろう。

 現在彼女はシアルダーにあるセント・ジョン教会のなかにある観想会で祈りの生活をしている。

 体調が良い時には庭を付き添いのシスターに手を引かれ散歩をしているが、そうでない時はベッドにいることが多い毎日を過ごしている。

 私は彼女に聞きたいことがあった。

 それはマザーはカルカッタの路上でどうしても手助けが出来ない人たちをたくさん見て来ただろう、手助けしたくても出来ない、そんな時シスターたちに何を話していたかを知りたかった。

 祈ることはもちろんであるし、マザーがよく言っていたことは「目の前の一人のなかのイエスに接すること、それは一対一であり、そして一人ひとりであること」ではあるが、カルカッタの路上では不条理な現状に苦しむ者は絶えないのであり、否応なしに目の前の一人の他に目に映る苦しむ者が間違えなくあったであろう。

 時にその人から怒涛のように「どうか助けてください」と懇願されながらも、それに応えられなかったことも幾度となくあったであろう。

 その時に受ける激しい胸の痛みをどうシスターたちに克服するように語っていたかが知りたかった。

 私はシアルダーの仕事の後にシスターニルマラの姿を見れればと思い、何度かセント・ジョン教会に行ったがそのチャンスはなく、いつも教会内にある墓地に眠っているシスターアグネス{マザーの仕事に一番最初に参加したシスター}やシスターデイミア{アフリカに初めてMCを作った時の責任者のシスター。私はこの二人のシスターの葬式のミサに参加した}、他のMCシスターのお墓参りをしてからチャペルで心を整えるように少し祈り帰宅することがあった。

 疲れ切った身体と心をこの場所は外部の雑踏から切り離し、しばしの非現実の空間のようにあり、安らぎの沈黙を私に与えてくれた。

 帰国をまじかになった時、私は大きなミスを犯した。

 私の判断の甘さ、いや、まったくの愛の無さで路上で患者を亡くしてしまった。

 それはその前日に麻薬中毒者からある患者を助けてほしいと言われたが、私はその患者がすぐに亡くならないだろうと判断した。

 患者は国の病院から何らかの理由で出された患者であった。

 そうした患者の場合、MCの施設には運ぶことが出来ないケースである、喉元にあったガーゼには膿があったが過度の悪臭はなく、患者は激しく苦しんでいたが歩くことも可能であった、まだ危険な状態ではないだろう、と私は思った。

 私たちは駅の仕事を終えてディスペンサリーで集まった時に何度かアイルランドのNGO「Hope」の病院のケースワーカーに電話もしたが日曜日だったこともあり出なかったので時間を置いて連絡を付け、翌日その患者を病院に搬送することを決めたのだった。

 {つづく}


 
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シスターニルマラからの言葉。

2015-06-26 12:34:58 | Weblog

 きっと私だけはない多くの人たちがシスターニルマラの冥福を祈り、天国でのマザーとの再会を願っていることであろう。

 マザーとシスターニルマラの関係は絶対的なる信頼があるように思われる。

 マザーは1965年インドの国外、最初の施設をベネズエラに作ることになるのだが、この時、マザーは激しくマスコミから避難の声を浴びせられた。

 「インドの問題が何も解決していないのに、どうして海外に施設を作るのか」と。

 マザーは激しく悩んだ。

 そして、祈りに祈ったであろう、最終的にはマザーは「神さまにNOと言わない」確固たる姿勢を貫き、ベネズエラに1965年6月26日、施設を作った。

 このベネズエラの施設に院長としてマザーが行かせたのがシスターニルマラである。

 マザーはその何年か前にシスターニルマラともう一人のシスターをカルカッタ大学に通わせ、その必要性を感じ法律を学ばせている。

 一人のシスターは卒業は出来なかったが、シスターニルマラは卒業した。

 人間的な崇高さとそうした経緯もあり、マザーはシスターニルマラをベネゼイラを任せたように思われる。

 それから、1976年にMCシスターのContempaltive{観想会}をニューヨークに作った時もシスターニルマラを責任者としている。

 1997年にマザーはシスターニルマラをカルカッタのマザーハウスに呼び戻した。

 MCは六年に一度選挙によって総長が選ばれるのであるが、マザーだけは次の総長はシスターニルマラになることを知っていたように思われる。

 1997年3月13日、MCの二代目の総長シスターニルマラが生まれた。

 この時、私はカルカッタにいた。

 マザーが二階の御堂の前、中庭に向かって多くのシスターたちやボランティアが見守る中、シスターニルマラに祝福を与えていたこと、その時の二人の表情と辺りに響き渡った歓声と咲き乱れた笑顔が私は忘れられない。

 そして、昨年3月私は初めてシスターニルマラとシスターラファエル{MCに最初に入会した日本人シスター}とセント・ジョン教会の敷地内にあるMCの観想会の一室と話をすることが出来たことをほんとうに忘れらない。

 この時、私はシスターニルマラと深い愛のある人間性を感じたのであった。

 そのことは以前ブログで書いていたが、まだ書き終えていなかった。

 近いうちにその時のことを書き上げたいと思っている。

 

 片柳君もシスターニルマラの手紙をすぐにブログにアップしていた。

 彼のFBを見て、それを知った。

 私にはそうしたことは出来ないが、ただマザーが特別に愛したシスターニルマラというシスターのことを語りたいと思う。

 そして、どうかシスターニルマラのために祈って欲しいと思うである。
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天国へ。

2015-06-24 12:06:17 | Weblog

 昨夜フェイスブックを見て、マザーの後を受け継ぎ二代目の総長だったシスターニルマラの亡くなったことを知った。

 載っていたシスターニルマラの写真はシアルダーにあるセント・ジョン教会であった。

 セント・ジョン教会にはMCの観想会があり、彼女は晩年そこで祈りの生活をしていた。

 体調が良い時は教会内にある庭を付き添いのシスターに寄り添いながらゆっくりと散歩していた。

 パパイヤやマンゴーの木があり、リスが駆け回るその庭やチャペルの中は駅周辺の外界の騒々しさとは別世界のように霊的な静けさが漂っている。

 私はシアルダーでの仕事を終えると、その疲れを癒すため、どうにもならないことを祈るために、何度もこのチャペルで訪れ、またこの庭でぼんやりとしたり、MCのシスターたちが眠るお墓に花を手向けたりしたことを思い出す。

 昨年の3月の終わりにはこのシスターニルマラとここで話をしたことが忘れられない。 

 どうかマザーとゆっくりと微笑みの内に再会を果たしていることを祈らずにはいられない。
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のんびりと。

2015-06-22 12:27:15 | Weblog
 
 最近時間が経つのがとても早く思われる、一週間などあっという間に過ぎてしまう。

 子供の頃の長い一日はもう味わえないだろうか、とぼんやりと考えたりもする。

 しかし、植物を見ると、彼らの時間はあっという間ではないような気がする。

 もちろん、彼らは彼らの時間で生きているからであろうし、その動きは私には見えないからだ。

 緑のカーテンを今年も作っているのだが、一階からやっとヘブンリーブルーの西洋朝顔は二階にやって来たので昨日は雨上がりの夕方に二階のベランダにネットを張った。

 続いてもう一つ遅れて西洋朝顔が二階に上がってきている。

 そして、昨年は失敗したが今年は夕顔もどうにかネットをつたい上がってきている。

 彼らの成長は彼らの知らぬところでの失敗を乗り越えて息づいている、この事実を見るのがこの頃の私の日課の一つになっている。

 あんを抱きながら、「伸びろ!伸びろ!朝顔」と励ましの声を掛けているのだ。

 あんにはきっと関係ないことであろうが、私の楽しみの日課にそっと付き合わせている。

 朝顔のそれと同じように最近の私の楽しみの日課がもう一つある。

 それはメダカの赤ちゃんを見ることである。

 水槽の中のあったメダカの卵をグラスに入れて冷蔵庫の上に置いてある、冷蔵庫に私が近づく度に覗き込むのである。

 今まだ半透明の小さなメダカの赤ちゃんが三匹そこにはいる。

 か細く小さなものへの愛情は私の知らない私の失敗への克服と癒しを意味しているように思える。

 だから、きっと大切に大切にそれを見守っているのだろう。

 今日と言う一日もきっと早く過ぎてしまう、がしかし、そこには失敗を克服しようとする無意識が必ず働いているように思えてならない。

 それを私は感じやすいところで朝顔やメダカの赤ちゃんの中に見出しているのかも知れない。


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「夏の花・心願の国」を読み終えて。その2。

2015-06-19 12:43:45 | Weblog

 心配していた誰かが、その心配通り、その心配に以上になってしまった時、その後悔とは如何なるものなのであろうか。

 自らの非力さ、落ち度、愛情の無さを否応なしに感じ、奈落の底に落ち込んでいくようにつかまるものは何もなくなり、それでいてただじっとしていて、にもかかわらず瞬時に怒りの波に煽られ、また事実を否認し、あの時こうすれば良かったと変えられない過去を変えようと取り引きし、もがきにもがき、答えがないのに答えようとしながら疲れ果てるまで精神を苦しめ続ける、その苦しみがその人の苦しみに類似したと、したであろうとそれはマヤカシだと分かっていても、そう思えるまで、それでしか居られないような後悔の時を祈りながらも味わうのかもしれない。

 遠藤氏はフランス留学に旅立つ前に原氏のことを戦後の混乱の中を原氏がどうやって生きて行くのか、ひどく心配していたのである。

 そして、遠藤氏は遠く離れた異国の地で原氏の自殺という最悪の事実を知ることになったのである。

 その誰とも哀しみを分かち合えないその苦しみとはやはり到底想像出来るものではない。

 しかし、遠藤氏はバトンを受け取ったという魂の繋がりを感じ得たのである。

 そこには原氏の義弟への遺書の中の一文が原氏の遠藤氏の愛であり、励ましのように私にも感じられた。

 「 昨年、遠藤周作がフランスへ旅立った時の情景を僕は思い出します。マルセイユ号の甲板から彼はこちらを見下ろしていました。桟橋の方で僕と鈴木重雄とは冗談を言いながら、出帆前のざわめく甲板を見上げていたのです。と、僕にはどうも遠藤がこちら側にいて、やはり僕たちと同じように甲板を見上げているような気がしたものです。では、お元気で・・・」

 深読みかも知れないが、そう思うことでしか遠藤氏は救いを見い出せなかったように思える。

 「原さん、あなたの分も、私は必ず・・・」と決意を固めることで自らを生きさせたように思えてならない。

 遠藤氏は晩年の作品「死について考える」{この本は原民喜の遺書をフランスに送った大久保氏の勧めによってインタビュー形式で刊行された}の中で原氏のことをこう言っている。

 「・・・その死は、純粋のせいばかりでなく、世の中を渡るのに不器用だったし、弱さのせいだったかも知れません。私たちなら妥協するとか、ずるく立ちまわるところを、原さんはそれができない人でした。そういう原さんが心の中にあって、自分の行動を振り返るとき、こっちの胸がちくっと痛むのです・・・」

 遠藤氏は生涯原氏との会話を絶やさなかったことが伺える、原氏から受け取ったバトンは遠藤氏の指針の一つになり続けた。

 遠藤氏の原氏への想い、原氏の遠藤氏への想い、祈りのうちにこの胸に感じてみたい、もっともっと感じてみたい。

 優しい慰めの衣擦れを感じれるまでに。
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「夏の花・心願の国」を読み終えて。

2015-06-18 12:47:23 | Weblog

 今朝、原民喜氏の「夏の花・心願の国」を読み終えた。

 最後は義弟の佐々木氏に贈られた遺書と以前も書いたが遠藤氏と一緒に多摩川の登戸でボートを女性Uへに宛てた悲歌であった。

 まず、その悲歌を載せてみる。

 「 濠端の柳にははや緑さしぐみ 雨靄につつまれて微笑む空の下 水ははっきりとたたずまい 私のなかに悲歌をもとめる

 すべての別離がさりげなくとりかわされ すべての悲痛がさりげなくぬぐわれ 祝福がまだ ほのぼのと向こうに見えているように

 私は歩み去ろう 今こそ消え去って行きたいのだ 透明のなかに 永遠のかなたに 」

 原氏に自殺する数か月前にまた広島に帰っている。

 生活費を兄に借りるためと、やはりその時すでに死を覚悟し、もう一度亡き妻や生まれ故郷、家族との永遠の別離をしようとしていたように思えてならない。

 そこにはその女性Uの写真も持ち合わせて行ったのである。

 そのことは「永遠のみどり」と言う短編のなかで書いている。

 その短編のなかには遠藤氏が年少の友人Eとして登場する。

 遠藤氏はフランス・リヨンで原氏の遺書と上記の悲歌を知り合いだった編集者の大久保氏から原氏の自殺13日後、3月26日に受け取る。

 この事は遠藤氏の「作家の日記」に書いてある。

 ちなみにこの「作家の日記」の中に原氏の名前は7回ほど登場する。

 その中で一番長い文章はこうである。

 「 原民喜が、その作品の中で描いている、ぼくの像を見ると、彼がぼくに考えていた事がはっきりとわかるのだ。 つまり、ぼくは彼にとって、{みどりの季節}の人間であり、荒涼たる冬を経た彼からバトンを引き受けるべき人間であったに違いないのである。 それを思うと、ぼくは、彼が今日まで自殺を延ばしていたら、ぼくが恐らく今日彼に宛てたであろう手紙が、あと二年なり、三年なり、彼を生き延ばしたに違いないと確信するのである 」10月25日。

 これは遠藤氏がリヨンに送られた原氏の「永遠のみどり」を読んで感じたものであることが推測できると同時に遠藤氏は原氏の自殺を知って以来、7ヶ月間未だ否認と後悔と取り引きの苦悩の精神状態であったことが伺える。

 しかし、また原氏の命を引き継ぐこと、その覚悟を物語り始めていることにより、刻み込まれた不安定な浮き沈みはまだまだあるだろうが受容の兆し、願いの達成、自己の哀しみのその先に行こうとしている渇愛が私には肌身に感じられるほどである。

 {つづく}
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病室で。

2015-06-17 12:32:21 | Weblog

 アサダが亡くなる数日前だった。

 私は午後三時頃だったと思う、一人でアサダの病室に入ると、アサダは寝ていた。

 私は静かに椅子に腰を降ろし、アサダの寝顔を見ていた。

 すでに薬の副作用で膨れ上がり赤黒くなったアサダの顔を。

 その時私はどんな顔をしていたのだろうか、寝ていたアサダはその私をどう見ていたのだろうか。

 沈黙だけが病室を極めて静かにしていた。

 私の心臓の音すら聞こえそうな静けさと睡眠時痛みからしばし解放されているアサダの休戦時間が固まった静けさを作り上げていた。

 私は腕を組み、ずっとアサダを見ていた。

 どのくらい経ったかは分からないが母親のミエコが来ると、アサダを起こした。

 私は起こさなくても良いのではないかと思ったが、ミエコはアサダと話しがしたかったのだろう、あとどのくらい息子の声、息子の話しを聞けるのかが分からなかったのである。

 一瞬でも一言でも、薬の副作用で膨れ上がった顔の瞳の辺りに一瞬の笑みでも見たかったのであろう。

 死は否応なしにそのベールを静かに降ろそうとしていた時だった。

 その時私はどんな顔をしていたのだろうか、起きたアサダはその私をどう見ていたのだろうか。

 アサダは重たい顔を苦しそうに少しだけあげると「よぅ、テツ兄ィ」と言った。

 ふと昨夜その時のことが脳裏に浮かんだ。

 何故だかは分からないが・・・。
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アサダの飲み会。

2015-06-16 12:46:55 | Weblog

 アサダは文化学院時代の私の弟のような親友だった。

 脳腫瘍でもう随分前に亡くなった。

 アサダが亡くなってから、アサダの命日ちかくの日にはアサダの飲み会と称するアサダのお墓参りをアサダの家族と友達と行っている。

 私は柄でもないがその幹事をずっとしている。

 年々このアサダの飲み会には新しい小さな仲間を増えていく。

 アサダの両親ツヨシ、ミエコもみんなとその新しい小さな仲間に逢えるのを楽しみにし、特にツヨシは集まった私たちを我が子としていつも大歓迎する。

 ツヨシは言う「私は息子を亡くしたけど、こんなにもたくさんの子供たちが出来たことが嬉しい。息子からの贈り物である」と。

 集まる私たちもそれぞれに楽しみにしている。

 集まれば、アサダが生きていたあの当時に私たちは飛んで帰っていくように当時のバカな話を昨日のことのように話し、腹を抱えて笑うのである。

 昨日ツヨシで電話で話した。

 「てっちゃん、元気にしていたかね?」と嬉しそうなツヨシの声に私は何か少しほっとしたような感じと照れとアサダを感じる。

 アサダももしかして歳を取ったら、ツヨシのような声になったものかと考えたりもするのだ。

 ツヨシはずっと嬉しそうな声で話し続ける。

 「あのね、てっちゃんがいてくれたから、こうして毎年みんなに逢える。てっちゃんがいなかったら、こうも毎年にみんなに会えなかっただろうとよく家では話しているんだよ」

 私は照れた「そうですかね」と。

 その時私の胸の底の底の方から疼くような寂しいものを顔を出したような気がした。

 アサダが生きていたら、こんな集まりはなかったとツヨシには口にできない、私もしたくない、思いがアサダの死から長い時間が経ったにも関わらずに、私の中にあるアサダとの消えることのない、決して変わることのない想い出たちが今もなお小さな子供のわがままのようにしてあることを思い知らされた。

 私はその私に「良いよ、寂しくて当たり前だよ。アサダは良い奴だったな・・・」と言ってやった。

 歳を重ねていくたびに私たちの容姿や大切にするものも変わっていくのだろう。

 だけど、決して変わらないものがある、それはかけがえのない想い出の過去に他ならない。

 それをどう大切にしていくか、アサダの愛の贈り物をどう受け取り続けるかは私次第である。

 しかし、私がどうそれを受け取ろうがに関わらず、その過去は決して無くならず、私を常に見守るようである。

 「なぁ、アサダよ。兄さんは未だ彼女もいず、結婚もしていない。お前はそんな兄さんをネタに、みんなをどう笑わそうと考えているんだろうな。じゃ、なければ、テツ兄ィは、今のままで良いよ。今もカッコ良いよ、と言ってくれるのだろうか・・・」

 私はアサダを想う、私の想うアサダは今どこで何をしているんだろうか。

 
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マザーの教え。

2015-06-15 12:09:25 | Weblog

 この世の中に間違えを起こさないものはいないであろう。

 感情的になり、責め立てられた相手を私たちはどう許せば良いのだろうか。

 誤解され、突き放された相手にどんな恨みを私たちは持つのだろうか。

 自己の内に流れるその詳細が分かるものがいるのだろうか。

 また他人を分かりきるものがいるのだろうか。

 自分自身でさえ分からないのにどうして人は誤解しえるのであろうか。

 またその詳細を分かるものもいないであろうに。

 しかし、救いはない訳ではないと私には思える。

 そう思えるのはマザーがそうしなさいと言ってくれているからである。

 Humility Mother Teresa

 There are a few ways we can practice humility.

 To speak as little as possible of oneself.

 To mind one`s own business.

 Not to want to manage other people`s affairs.

 To avoid curiosity.

 To accept contradiction and correction cheerfully.

 To pass over the mistakes of others.

 To accept insults and injuries.

 To accept being slighted, forgotten, and disliked.

 Not to seek to be specially loved and admired.

 To be kind and gentle even under provocation.

 Never to stand on one`s dignity.

 To yield in discussions, even though one is right.

 To choose always the hardest.

 上記のマザーの言葉は不可能に限りなく近いかも知れないが真理にも近いのである。

 私は何度も何度もこのマザーの言葉を読み、その度事に勇気をもらう。

 このマザーの言葉の奥にはイエスの姿が生きた形で現れるように私は思えてならない。

 そして、マザーはこうも私たちを励ます。

 「自分が弱いということを知っている限り、あなたは安全です」

 神さまは絶対にどんなあなたであれ見捨てたりしないと。


 
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