翌日、私はまずその患者に会いに行ったが、患者は私たちが明日10時半に病院に連れて行く手はずを整えたことを伝えてから、4時間後、日中40度は超したであろう路上ですでに亡くなっていた。
患者のことを心配して、私にどうか病院に彼を連れて行ってほしいと哀願した麻薬中毒者たちはただ悲嘆にくれていた。
しかし、彼らは私のことを何一つ責め立てることはなかった。
私はやろうと思えば昨日のうちに患者を運べることも可能だったのに、それをしなかったこと・・・、悔やんだところでどうしようもないが悔やまずにはいられなかった。
私は足に力が入らなくなり、しゃがみこんだ。
いっその事、私を責めて欲しいと思った。
私の判断ミスだったことは間違えなかった。
ボランティアのなかでベンガル語を話せ、麻薬中毒者たちと話せるのは私しか居なかったし、彼らとのやり取りはすべて私だけが関わっていたのだ。
難しいケースだとは分かっていたが、そこに向き合う勇気と愛が私には足らなかったことは私が一番良く分かっていた。
抜け殻のようになりながらも駅の仕事を終え、シアルダーのディスペンサリーのティータイムで私は他のところを回っていたみんなにその患者の死を伝えた。
その場は一瞬にして通夜のようになり、誰も何も話さず、沈黙と哀しみだけが漂った。
「私は彼に優しくなかった」と私がつぶやくと、カナダ人のチャッドは「私もだ」と言い、私の肩に手を置いた。
しばらくしてから、私たちはディスペンサリーを離れた。
私は祈りたかった。
祈りにすがりたかった。
そうでもしなければ、私が壊れそうな気がしていた。
私は泣きたかった。
私は私を責めたかった。
彼が苦しんだように私は苦しむ必要があると感じずには居られなかった。
私の心は乱れるままに乱れ、生気を失い、しかし、救いを求め、とにかくセント・ジョンのチャペルに逃げ込むような思いで重い身体を引きずるようにして向かった。
目には変わらない雑踏が映っていたが、耳には何も聞こえていないような気がしていた。
私はチャペルまでの道を一心にして、他のすべてを遮断していた、そうせざるを得なかったのだ。
{つづく}