カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月の予定です。

天宿公園。

2011-11-30 12:42:16 | Weblog

 天宿公園はうちから歩いて3分くらいのところにある公園である。

 最近あんはこの天宿公園がお気に入りである。

 と言うのは、あんとこの公園で毎晩のように追いかけっこするのである。

 だから、寝ているところを起こされても、外に出て、ブルブルをして、おしっこをすると、その公園まで走って行ったりする。

 昨夜もあんはうちを出るとノリノリですぐに後ろを振り返り、軽く尻尾を振って、「走ろう、走ろう!」の合図をしたので、公園まで駆け足で向かった。

 昨夜は初めて靴を履いて行ったので、自分もノリノリだった。

 天宿公園は小さな公園だが、板張りのところ、グランド、草むらがあり、滑り台やベンチも何個かある可愛い公園である。

 昨夜は公園に行くと、ベンチに座っている男女がいたが、気にせず、あんと追いかけっこをした。

 公園に着くとあんはまず草むらにダッシュする、そこでいろいろな匂いをかいでいる。

 それが終わると追いかけっこになる。

 自分が逃げたり、あんが逃げたりして、また立ち止まって、「うぅ~、はぁ~」など言って戦ったりする。

 そして、自分はすぐに疲れる。

 疲れて休んでいるとあんには思わせておいて、また急にダッシュしてあんを追いかけたりする。

 昨夜はあんが逃げている時に自ら滑り台に頭をぶつけた。

 「おい、あん。大丈夫か。痛いな~痛いな~」とあんの頭を撫でてあげた。

 するとあんはしょげたのか、まだ来てそんなに経ってもいないのに公園を離れようとした。

 せっかく靴まで履いてきたのに、と思ったが、あんの気持ちを察して、昨夜はまた違うところを歩くことにした。

 あんはトコトコ歩き出すと、すぐに滑り台に頭をぶつけたショックから解放された。

 あんの痛みは静かな夜が優しく引き受けてくれた。

 
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最近良いこと。

2011-11-29 12:45:12 | Weblog

 来週の火曜はアピア40でライブなので、この一ヶ月間の夜は何かと忙しくなる。

 とは言っても、仕事から帰ってきて、あんの散歩、うたの練習、晩酌と言う順番である。

 この順番がうたの練習、あんの散歩、晩酌となる場合があるのだが、これだと晩酌開始時間が12時半くらいになってしまい、さすがに健康には良くないなと思うのである。

 だから、そうした遅く始まる晩酌の場合はその前に夕食軽く食べておく、そして、寂しいことだが、晩酌のつまみをいつもよりも少し減ったものを頂くことにしている。

 これでも、健康的とは言えないが、それでも、せめてもの願いを込めて、そうしている。

 うたの練習はヒロシのカラオケ屋にいつものように行っている。

 そこのバイトの山本君がこの前こんなことを聞いた。

 「Tetsuさん、最近何か良いことありましたか?」

 「うん、あんとの散歩かな」

 「・・・そうですか、それは良いですね」

 そう言って彼は笑っていた。

 あんとの散歩は自分にとって素晴らしく良いものである。

 普通良いこととか言えば、彼女が出来たとか、好きな人が出来たとかだろうが、今の自分には彼女も居ないので、あんとの関わりが何とも嬉しく楽しいものである。

 これは誰がそばに居ても、きっと変わらない、いや、もっと良くなるのかも、もっと楽しくなるのかもしれないが、まぁ、それは分からない。

 カルカッタにいた時も、誰かに聞かれたことがある。

 「日本に帰って何をしたいですか?」

 「愛犬のあんと散歩がしたい」

 顔を急に満面の笑みに変えて話しただろう自分を見て、その人は笑っていた。

 そのくらいあんと散歩したかったのだから、日々の散歩が自分にとって偽りなく良いことである。

 あと最近良いことがあった。

 水道のプラスティックの蛇口が良くカビてしまうので、カビキラーをかけたが、しかし、少しまだ何か残っていた。

 カビの上にカルキが付き、まだそれが取れなかった。

 こうしたカルキは酢で取ると良いとテレビで言ってたのを思い出し、とりあえず、仕事に行く前にこの蛇口を酢のなかにつけ置きした。

 この蛇口は伸びるので、その先をコップのなかに入れてみた。

 そして、仕事から帰ってきて、蛇口を見ると、まだ少し汚れは付いていたが軽く拭くだけで落ちた。

 これには嬉しかった。

 感心した。

 ちょっと感動するくらいだった。

 酢でカルキを取る、掃除する、それ自体小さなことであるが、生まれて初めての体験であったし、それを実感したその喜びは大きいなものである。

 これは間違えなく良いことであった。

 
 フランクルは言う。

 「幸せは求めれば求めるほど逃げていってしまうものである」

 自分たちはこの意味を深く理解することが必要ではないだろうか。

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言葉遣い。その2。

2011-11-28 12:38:04 | Weblog

 自分は自分の思考を疑い、もう一度考え直してみることをする。

 なぜのその思考に行き着いたか、またその他にはないのかを感じてみる。

 なぜならば、自分が唯一正しいものと勘違いしやすいからである。

 それと同時にその瞬間には謙虚さなど有り得ないからである。

 そんな時には必ずマザーのこの言葉を読み直す。

 Humility Mother Teresa
 There are a few ways we can practice humility.
 To speak as little as possible of oneself.
 To mind one`s own business.
 Not to want to manage other people`s affairs.
 To avoid curiosity.
 To accept contradiction and correction cheerfully.
 To pass over the mistakes of others.
 To accept insults and injuries.
 To accept being slighted, forgotten, and disliked.
 Not to seek to be specially loved and admired
 To be kind and gentle even under provocation.
 Never to stand on one`s dignity.
 To yield in discussions, even though one is right.
 To choose always the hardest.

 カルカッタから離れる二日前にマザーハウスでシスタークリスティーと話をしたときにこのHumilityの話をした。

 最初彼女はこれがマザーの言葉かどうかは分からないと話したが、この言葉はジムがステーションのボランティアの集まりの祈りの時に用意したものだと告げると、マザーの言葉であろうと彼女は受け容れてくれた。

 彼女に訳してもらい、一つひとつ話し合った。

 だが、こんなことは不可能に近いと言う。

 だからこそ、それこそ、神に願い、神に祈り、神に委ねると言うことに行き着くようであるとの話になった。

 この言葉のなかにマザーの神さまへの信頼、信仰の深さがにじみ出ているかもしれない。

 自分にとっては不可能に限りなく近い、この言葉であるが、不思議とこれを読むと勇気が湧いてくるのである。

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言葉遣い。

2011-11-27 11:43:59 | Weblog

 一度出た言葉はもう二度と無くすことは出来ない。

 どれほど相手を傷付けれたか、苦しめたか、破壊したか、たとえ罪あるものに罰を与えようとしたとしても、その行為に愛はなく、正義もない、正義の仮面をかぶった破壊心と悪のみである。

 だが、言葉を発する本人には決して分からない。

 感情的になっている者は、自分自身を冷静に捉えることのなど不可能な状態だからである。


 昨日の山谷は535人のおじさんたちが来た。

 彼は三人ほどに足らず、ビスケットを渡すことになった。

 カレーは足らなくなるもしものことを考えてビスケットを二箱用意していた。

 そのなかには40袋ぐらいのビスケットであったが、すでに二度目の列は150人以上は並んでいた。

 ビスケットを配っているところに一人のおじさんがタバコを吸いながら、列に並びことをせずにビスケットをもらおうとしていた。

 あるボランティアはそのおじさんに「タバコはそこで吸うなよ」と言うと、彼はタバコを投げ捨てた。

 そして、今度は「横入りはダメだよ。後ろに並ばないとダメだよ」かなり威圧的に彼に言うと、彼はしぶしぶ去って行った。

 その光景が自分にはとても辛く映った。

 最後まで吸いたかったろうとタバコも投げ捨てて、そして、悪者にされ、恥をかかされ、カレー一つでは今だ満たされない空腹のまま、彼は去って行った。

 彼の身体は100ぐらいはあるだろう体格をしていた。

 その服装からは路上生活者ではない感じはしたが、お腹がまだ空いていたことに違いはないだろう。

 マザーを愛するその働き手として、愛を渡そうとしている自分たちが激しく人を傷付けることがある。

 ボランティアの全員が真摯に愛をおじさんたちに渡そうと心使っていない事実もあるだろうが、自分がそこに染まる必要もない、いや、染まらない。

 マザーは言う「路上生活者はすでにほんとうに苦しんでいる。その彼らに対する言葉遣いはほんとうに気を付けなくてはならない」。

 苦しみ傷付いてきた彼らの傷口をまた大きくしてはならないと言うことである。

 だが、自分も傷付き去って行く彼の肩に手を乗せるようなことをしても良かったと思う。

 自分がすべてを許すことをせずに、彼の傷付きに同調していただけに過ぎなかった甘さを感じる。

 まだまだである。

 許すこと、その意味が深く問われている。

 何を答えて行こうか。

 愛のなかでである。

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膝の上に。

2011-11-25 12:50:55 | Weblog

 あんは晩酌の相手をいつもしてくれる。

 もちろん、お駄賃のリンゴがなければ、ずっと傍に居なく、すぐに寝てしまうが、リンゴがなくなるまではずっと傍にいる。

 お座りしたり、伏せしたりして、とても良い子でリンゴを待っている。

 あまりにも我慢させているのは、かえって自分が心苦しくなるので、「お手、おかわり、おいで」などを勉強しながら、リンゴを続けて、二個三個とあげたりする。

 あんは嬉しそうに美味しそうにシャリシャリと音を立ててて食べる。

 その姿もとても愛らしい。

 またしばらくすると、今度はあぐらをかいだ自分の左の膝の上にあんはあごをのせ、じっと自分を見る。

 「リンゴちょうだいよ~」のあんの見え見え甘えのサインである。

 であるが、これもまたとても愛らしい。

 とりあえず、リンゴはまだお預けにしておいて、「あんに良い子だね~」と言って撫でてあげる。

 あんはもしかすると、その時、「騙されないぞ」と思っているかもしれないが、これは単なる自分の投影に過ぎないかもしれない。

 あんはただただ食いしん坊である。

 それはあんの本能であり、あんの先祖から長い時間を経て、生きる知恵として、あんのDNAに組み込まれたものである。

 またあんの食いしん坊があるがゆえ、自分たちの間に信頼関係の一つも生まれてくるのである。

 左の膝のうえにちょこんとあごを乗せる技もどこで覚えたものでない、あんは誰の真似もしないでそうしていた。

 その姿は愛らしく、さすがにリンゴもあげるペースも速くなる。

 それはあんの本能の勝利かも知れない。

 そんなことをあんの寝顔を見ながら、ふと思う。
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フランクルの言葉。

2011-11-24 12:47:38 | Weblog

 最近ビクトール・フランクルに関する本を一つ読み終えた。

 そのなかにあったフランクルの言葉を一つ。

 「あたかも既に二度目の人生を生きているのかのように、そして、あたかも、あなたがいままさに誤まって行為をしてしまおうとしているのと同じ過ちを、一度目の人生において行ったかのように生きよ」。

 要するに、二度目の人生を送っているかのように生きなさい、前の人生の失敗を繰り返しているのではないか、絶えず想像しながら生きなさい、と言うことである。

 この言葉はあまりに深い。

 生きる自己を客観的にもう一つのところから捉えることをすすめている、そして、またもう一つのところ、そこから応援してもらい、支えるような感じさえ、自分にはするのである。

 そして、そのもう一つのところは大いなるものと繋がっているようにも思える。

 事実そうであろう。

 また自分で自分を奮いただせるものにし、現在という時を余す無く生きよと言うことにも繋がるのではないか。

 とても素敵なことである。

 あなたが今日二度目の人生を生きているとして、一度目の人生からのアドバイスは何か聞こえなかっただろうか。
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あんが嘔吐した。

2011-11-23 12:49:22 | Weblog

 昨夜は仕事を終えてから、うたの練習をしにギターを持ってカラオケ屋に行き、帰ってくると12時になっていた。

 それから、寝ているあんを起こして散歩に行った。

 この頃はきりっとした冷たさがあんには気持ち良いのだろう、夜の散歩は出掛けるとすぐにノリノリになる。

 このノリノリは見た感じに良く分かる。

 眠いときはまずおしっこしたら、すぐに家のある方向に向き、帰ろうとするのだが、ノリノリの時が違う、トコトコと歩き「さあ、行こう!」と言った感じの表情で自分を見るのである。

 ニコッと笑う感じもある。
 
 「おぅ、そうか、そうか」と自分も早足になって、ちょっぴりあんのノリノリに乗るのである。

 昨夜は最近良く行く公園であんとかなり走り回って遊んだ。

 昨日は休肝日だったので、あんも晩酌の友をしてくれるお駄賃のようなリンゴもお休み、帰ってからわりとすぐに寝た。

 深夜2時頃である。

 自分のベッドの上で寝ていたあんが「ゴホッ、ゴホッ」として吐きそうになっていた。
 
 すぐにあんの口元に近くあったバスタオルを当てると、あんが嘔吐した。

 滅多嘔吐などしない健康なあんが嘔吐すると心配であった。

 あんは気持ち悪いような表情して、ずっと自分を見ていた。

 「あんは大丈夫か?もうすっきりしたか?」そう言って背中をさすってあげた。

 嘔吐物を良く見てみると、黒のプラスチックの欠片が何個かあった。

 「あっ、これは・・・」と思った。

 それは夕方に母親が買い物に行くので、一人ぼっちにされ、すねたあんが母親が新しく買ったペンをかきむしった破片であろうことが分かった。

 新しいペンが使い物にならなくなったとは聞いていたが、あんが飲み込んでいたとは知らなかった。

 吐き出してくれて良かった。

 昨夜は心配したが、今はいつものように近くで日向ぼっこしながら、良い夢を見ている。

 あんはすねるとものに当る。

 ぬいぐるみをしとめるように当ってくれるのであれば良いのだが、口のなかに入れては危険なものは、自分たちが気を付けなければならない。

 あんがいけないのではない、環境をしっかりと整えていない自分たちが誤まったのである。

 それにあんには嘔吐のような嫌な思いをさせてしまった。

 申し訳ないことをした。

 それらを許してくれるような穏やかな陽射しが差し込むなかで、あんは気持ち良さそうに眠っている。

 何の不安もなく、ただ安心しきって眠ったあんの寝顔は自分をどれほど癒してくれているのだろう。

 愛するものの寝顔は、それだけで十分なほどの愛の贈り物に違いない。

 あなたはそう思わないだろうか。

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雨の山谷。

2011-11-22 12:30:26 | Weblog

 土曜日は雨のなか、おじさんたちはカレーをもらうために並んでいた。

 雨の日は首都高の高架下に並んでいる。

 それでも、雨にまったく濡れない場所ではない。

 さすがに雨の日はおじさんたちも少なく、そのため、二度カレーをもらえる可能性が高い。

 そのことを知っている体の動くおじさんたちには良い雨にもなっているのかも知れない。

 二度目のカレーの列に並ぼうと走り出す彼らに何度か声を掛けた。

 やはり転んで怪我してもらっては困るからである。

 雨だったからか、あのリーさんは来ていなかった。

 恩返しの彼もずっと来ていない。

 鳥に恩返しをして、また恵みを受けていてくれれば良いのだが、誰かに優しくされていることを願うばかりである。

 話は変わるが、今の山谷のブラザーたちはほんとうにおじさんたちのことを大切に思っている。

 委員長のブラザーノアスは必ず最後まで居る。
 
 一緒に車で来た人たちが用事があり、先に帰ってしまい、残されて歩いて帰らなくてはならなくても、笑顔で走って施設まで帰っていく。

 ブラザージョジョは自分の着ている服すら、脱いでおじさんにあげていたこともあった。

 何をしているか、何が大切か、を良く心得ている愛情深いブラザーたちである。

 いろんなことがあった山谷だが、今はとても良い状態である。

 以前はブラザーの態度や姿勢により、ボランティアが離れていくこともあった。

 だが、これには双方の問題があるように思える。

 そこで何をしているのか、何が大切なのか、を良く心得ていれば、問題が消えていくだろう。

 大切なのはおじさんたちに愛を届けることである。

 だが、表面的なことに囚われているものにとって、あるブラザーの態度は過度の期待を崩し、愛から遠のくのに満たした理由になったのだろう。

 こうしたことは山谷でもカルカッタでもたくさん見てきた。

 傷付いたボランティアの心にはその人が過去に味わった傷に通じるものになっているのかも知れない。

 ここには「乾き」はあるように思える。

 この「乾き」も触れられるようにありたいものである。

 平和の道具として。

 
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二度目の誕生日。

2011-11-21 12:18:37 | Weblog

 今日はあんがうちに来てくれてから、まる二年が経つ記念日である。

 言うなれば、二度目の誕生日である。

 あんがあんになった日である。

 今でも決して忘れない、ダンボール入ってうちに来たあんを一目見たときにその愛らしさ、可愛らしさに胸は打ち抜かれた。

 あれから二年になるその喜びをいま静かに感じている。

 般若心経の智慧には、誕生日は二回あると言う教えがある。

 これは自分が自分になると言うこと、自分はどこから来てどこへ向かうのか、またどういったものなのか、他者からの評価に恐れおののいているのではなく、また親からの期待に応えるだけの親の思い通りの人間になるのではなく、一個の人になると言うことである。

 大切なことは生まれ変わると言うことである。

 あんはうちに来て、「あん」になった。

 それはある意味生まれ変わったと言っても良いのではないか。

 あんが生まれ変わった二度目の誕生日を祝福しよう。

 
 自分の二度目の誕生日はたぶん初めてカルカッタに行き、生まれて初めてボランティアをし、マザーに会い、患者たちに会い、世界各国のボランティアたちにあったことにより、自分の知らなかった自分に出会えたことに純粋に感動した時であろう。

 自分の背格好、容姿、性格、悲しかったことも苦しかったことも、その今までにあった出会いすべてを肯定的に受け容れられた。

 そんなことは生まれて初めてだった。

 全身から滲み溢れ出して来るような感動に包まれ、見るものすべてが輝いて見えたその瞬間が、二度目の誕生日であったように思われる。

 あなたの二度目の誕生日はいつなのであろうか。

 きっと生まれ変われる。

 人生はそれを必ずあなたに与えることであろう。

 あなたがあなたになることが待ち望まれている。

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青空が気持ち良い。

2011-11-20 11:43:42 | Weblog

 雨上がりの青空があると呼吸するのが嬉しくなる。

 今朝は6時半に起き、あんと三沢川まで散歩に行った。

 天神山には白い霧が掛かってあり、それが美しく朝日を浴びていた。

 そして、ゆっくりとどこへ消えていくのを眺めながら、あんと散歩した。

 日曜日の朝だからなのか、たくさんの犬に会った。

 だが、あんはあまり興味がないらしく、相手を吠えてきても知らん顔でトコトコと歩いた。

 初めての道も二人で歩いた。

 あんは初めての道は喜んで歩く、きっと新鮮な匂いがあって、興味はそそられるのであろう。

 散歩中、最近あんに「右、左、まっすぐ」など言うようにしていると、あんはこれをちゃんと認識できているようになった。

 あんは確実に成長している、それに気付けると嬉しくて嬉しくて。

 今あんは日向ぼっこしている。

 きっと良い夢を見ている。

 寝ているが尻尾と足を微妙に動かしている。

 楽しい夢を見ているのだろう。

 さて、今日は天気予報が少し変わり、雨上がりの青空がある。

 暑いぐらいの日差しもある。

 とても気持ちが良い。

 布団を全部干し、座布団までも干した。

 あまねくこの陽射しの恩恵を受け取ろうではないか。

 今日を慈しみと喜びで満たそうではないか。

 
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