カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

ぽとりと。

2011-07-31 15:40:15 | Weblog

 ベランダでいまタバコを一本吸った。

 ぽとりとしおれた朝顔が落ちてきた。

 その朝顔は朝は青色だった。

 いまはピンク色に近い紫色になり、しぼみ始め、その一番最初に咲いたであろうと朝顔がぽとりと自分の前に落ちたのだろう。

 時の流れを知らせるように。

 昨日は佐賀からりかちゃんが遊びに来てくれた。

 あんは案の定大喜び。

 そして、りかちゃんの食べ物を狙っていた。

 自分は絶対に何もくれないと分かっているのだ。

 八時には新宿で待ち合わせているコウ君に会いに行くために家を出なくてはならなかった。

 がしかし、その前に酔って、二人ともしばらく寝ていた。

 それをずっと待っていた者がいた。

 あんである。

 あんは二人がうたた寝をするまで、ずっと待っていたのだった。

 獲物を捕るまで執念深く待つ野性をあんは忘れていなかった。

 つまみをほとんど食べ、片付けていたが、ピーナッツがあり、それを食べていた。

 そこに自分の野生の感が応戦した。

 あんが何かしているとすぐに目が覚めたのだった。

 気が付いた時にはピーナッツの入った皿のなかを舐めていた。

 「ダメ!」と言ってすぐにあんを放した。

 たぶん、舐めただけであろうと思っていたが、さっき散歩に行くとあんのうんちのなかにはピーナッツが何個かあった。

 やはり食べていたのだった。

 それでも、そのまま出てきて良かった。

 下痢もしていなければ、アレルギーもないようだった。

 細心の注意を払っていたにも関わらず、芋焼酎に負け、その自分に注意を払っていなかった。

 そんな愚かな自分のまえにぽとりとしおれた朝顔が落ちた。

 何か笑えた。

 昨日はたくさんカルカッタのこと、マザーのことを話した。

 仕事で予定よりは遅れてしまったが、久しぶりにコウ君にも会えて良かった。

 人それぞれ、日々いろいろとあるだろうが、それを乗り越えていく力は必ず備わっているものである。

 時にしおれ、色を変え、落ちる時もあるだろうが、決して、それがすべてではない。

 瞬間であり、一部である。

 全体から見れば、それは必要な一部でもありえるものである。
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久しぶりのお休み。

2011-07-30 13:39:31 | Weblog

 今日はカルカッタから帰ってきてからの初めての土曜日のお休みである。

 朝、小雨のなか、あんの散歩にも行けた。

 それから、また少し寝て起き、二時間ぐらい大掃除をしていた。 

 普段することのないところまでの掃除をするととても気持ちが良い。

 あんは退屈そうに寝そべって見ていただけ、終いには一人のボール遊びをしていた。

 そうしたら、少し青空も見えてきた。

 緑のカーテンの下は気分がとても良い。

 ビールを飲みたい気持ちになるが、友達が来るまであともう少し待とう。

 お好み焼きでも作って、ビールを飲もうかな。

 あんはお客さんが来ると大喜びするだろう。

 お好み焼きをきっと狙うと思うので細心の注意も必要になるだろう。

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言葉。

2011-07-29 12:20:22 | Weblog

 もうかなり前に友人から聞いた話である。

 ある牧師が自殺を図った。

 緊急搬送されて、命はどうにか守られた。

 だが、そこで意識を取り戻した牧師はナースにこう言われた。

 「牧師が自殺をしてどうするの!」

 その彼はその言葉に激しく傷付いた。

 「自殺をするよりも、その言葉があまりに苦しかった・・・」と話したそうである。

 正しいことを言えば良いと言うわけでは決してない。

 常識を言うと言うことは、相手を見下し何かを伝えると言うことになりやすい。

 そして、その者はその責任など考える余地はない。

 なぜなら、常識であると言う正義の仮面を付けているからだ。

 だが、常識を言う者も、自分の感情や心を大切に扱われずに常識を叩きつけられながら育ってきた過程と家庭があるのだろう。

 深い思いやりと愛とは遠く、常識を言う者の思い通りになるように育てられて来てしまったかもしれない。

 思い通りに生きれなかった恨みをそのナースのように他人に晴らしてしまうことになりかねない。

 そこに自分はなく、他人からの評価などに縛られながらあり続けてしまう生きづらさを拭えないのかもしれない。

 そして、自分を苦しめ続けてしまう。

 悲しい負の連鎖を断ち切る勇気と生きる力を育てるようにあってほしい。

 怒りの人のそばにいるより、誰もが愛ある人のそばに居たいと望むのではないだろうか。

 それに答えていくのは自分の自由な選択でもある。

 満たされない思いを人はどのように満たしていくのか、そのなかに自己防衛があるのかどうなのか、それはその人の本人しか分からず、注意深く慎重に見る必要があるだろう。

 自分と向き合うことをせずに、実は目の前の人と向き合うことなど不可能かもしれない。

 マザーは言う。

 「自己認識があってこそである」と。

 自分は願う。

 誰もが他の誰とも比べるものではない「自分になる」と言うことを。

 
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夜の散歩。

2011-07-28 12:53:00 | Weblog

 散歩に出かけると、そこでいろいろな出会いが生まれる。

 この前もまっちゃん{同級生}とリキ{甲斐犬}とクゥー{柴犬}に会った。

 あんは大喜び、耳を平らにして、尻尾をフリフリしていた。

 まっちゃんにはあんが大丈夫で良かったと言われた。

 あんが車にぶつかり居なくなってしまったことはいろんな人が知っていた。

 この前はあいちゃん{雑種犬}のおかぁーさんにも「あんちゃん、無事で良かったね!」と何度も言われた。

 あいちゃんも二度多摩川で行方不明になったが、家に戻ってきたと言う。

 それをおかぁーさんは奇跡だったと言っていた。

 あんちゃんにも奇跡が起きたんだねとほんとうにあんの無事を喜んでくれた。

 ちゅらさん{トイプードル}のお父さんにも、あんが車にぶつかったことを話すと、それはほんとうに泣きますね、と親身になって痛みを分かち合ってくれた。

 ケンタ{柴犬}のお父さんのテルちゃんは、ケンタも穴澤天神で離れていなくなり、二時間必死になって探したことがあると言って、慰めてくれた。

 いろんな人たちがあんの心配をしてくれた、それはほんとうにほんとうに有り難いことである。


 さて、夜の散歩の出会いについて、話を戻すが、まっちゃんも良くタヌキを見るらしい。

 やはり天神山を寝床にするタヌキが結構居るようだ。

 またの再会を楽しみにしている。

 この頃、夜の散歩でちょっと楽しみにしている出会いがある。

 それはカブト虫に出会えることである。

 いくつなってもカブト虫を捕まえると、とても楽し嬉しになる。

 子供の頃に帰ると言うか、小さな男の子がおもてに出てくると言うのか、楽しい思い出を引き連れて、その場に現れる。

 昨夜もカブト虫のいるポイントまで行くと、カブト虫には会えなかったが、セミの幼虫に会えた。

 久しぶりに手のひらに乗せ、あんにも見せた。

 あんはキョトンして興味を示さなかった。

 たぶん、食べれるものではないと判断したのかもしれない。

 子供の頃はそのセミの幼虫を家に持って帰ってきて、カーテンを上らせ、脱皮するのを観察して楽しんだ。

 一瞬そうしようかとも思ったが、やはりこのまま木に登らせてあげた方が良いと思い、その木に帰してあげた。

 自分のなかの小さな男の子も少し成長して、それを望んだようだった。

 こうした夏の夜の出会いは楽しいものである。

 自分のなかの小さな男の子にも出会えるのである。

 
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よーい、どん!

2011-07-27 12:54:14 | Weblog

 今はもうあんとかけっこをしても、まず勝てないが、まだあんがほんとうに小さい頃には勝てたことがある。

 昨日、犬とかけっこをしている男の子たちを見た。

 まだ子犬を連れた小学三年生くらいの子とその友達であろう子が道路の端でかけっこをしていた。

 犬を連れた一人の子は両手を地面につけ、もう一人の子は走るポーズを取り、子犬は何が始まるのか、その子供の行動に注目していた。

 聞こえなかったが、きっと「よーい、どん!」とでも言って走ったのだろう。

 子供は子犬にあまり気にせず、ただ一生懸命に走っていた。

 子犬は足にリードが絡まっていたが、それでも、一緒に走っていた。

 15メートルぐらい走って止まり、大笑いして、また「よーい、どん!」して走り出した。

 後姿だけしか見えなかったがきっと笑って走っていたのだろう。

 とても楽しそうだった。

 たぶん、リードなく、子犬が本気で走れば、子供たちは追いつけないだろうが、子犬は一緒に走ることが楽しそうであった。

 その楽しさは自分の目に映り、心にも移った。

 自分はきっとあの子たちと同じくらい頃を思い重ね眺めていたのだろう。
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休肝日開け。

2011-07-26 12:47:13 | Weblog

 昨日は休肝日だったので、ネットで腰痛のストレッチなどを見ながら、実際に身体を動かしていた。

 このまま無理せず、うまく腰痛克服をしたいものである。

 さすがに休肝日開けはいつもより身体が少し軽く、今朝はホームセンターに行ってきた。

 買いたいものは見るだけになったが、あんの新しい伸びるリードを買ってきた。

 今度のはあんの赤い首輪に合わせて、赤いのにした。

 なかなか可愛くて気に入っている。

 あんにも見せたが、あんはキョトンとしていた。

 まぁ、良いだろう、新しい赤いのは可愛い。

 それから、ベランダで育てていたミニトマトを畑に植え替えてみた。

 どうも肥やしが良くないのか、他の同じ種類のミニトマトの花も咲いた後に落ちていた。

 違う種類のミニトマトはどうにか大丈夫そうだったが、しばらく様子を見てみよう。

 晩酌のミニトマトを楽しみにしているのだが、もう少し時間が必要なようだ。

 それから、もう八年目になるシークァーサーがあるのだが、なかなか花を咲かせてくれない。

 なので、久しぶりにせん定をしてみた。

 何気にずっと前からせん定をしてみたかった。

 何もしていなかったので畑のなかでモコモコに育っていた。

 風が木全体に行き通るように、かっこ良くせん定してみた。

 やり始めると止まらない。

 危うく自分と同じような坊主になりそうになったが、そこはグッと堪え、形を整えた。

 畑には蚊がたくさんいて、六箇所以上は刺されたが、それでも途中で辞めることはせず、最後までやると達成感があった。

 だが、せん定はなかなか難しい。

 この頃植木屋さんの入った庭や通りの木のせん定の枝とかを良く観察しているが、これがほんとうにうまい、感心させられる。

 次に育つ枝を考え、せん定し、それが毎年うまく行くのである。

 そんな木々を見ながら、この技術が欲しいとぼんやり思う。

 そうすれば、きっともっと木々と仲良くできる。

 そんなことを考えれば、どの木を見ても楽しくなる。

 それから、玄関に水をまき、たわしでゴシゴシと洗った。

 久しぶりにこんなことをすると気持ち良いものである。

 その気持ち良さは必ず今夜の晩酌に繋がっていく。

 今から楽しみである。

 そして、今も楽しい。

 夜香木も今夜も良く香るだろう。

 
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夜香木開花。

2011-07-25 12:26:44 | Weblog

 昨夜、夜香木が開花した。

 まだ一分咲きと言った感じではあったが、部屋のなかに入れ、その香りを堪能しながら晩酌を楽しんだ。

 花見のような香り見とでも言うのか、お酒が進んだ。

 今朝目が覚めると、まるで一夜の夢のようにその香りはどこへ行ってしまっていた。

 追いつけない場所まで行ってしまったのか、また夜になったら戻ってきてくれるのか、不思議である。

 開いていた花も日中の今はまたつぼみになっている。

 夜まで寝ているのか、それはどうなのか、ちょっとした神秘でもある。

 緑のカーテンも気持ちよく出来上がってきている。

 うまくカーテンになるように伸びた朝顔の先をネットに巻く作業もなかなか楽しいものである。

 だがミニトマトはちょっと失敗したかもしれない。

 余っていたガーデニングの土を使用したため、栄養がありすぎ、実に栄養が行かず、その前に葉の方だけに行ってしまっているようだ。

 困った。

 さて、どうのなのか、まぁ、それでも、のんびり見ていようと思う。

 これからしばらくの間、毎晩夜香木の香り見が出来るのは嬉しい限りである。


 今日は北九州市でエミコさんのお別れ会が行われる。

 平服で香典なし、エミコさんの遺志だそうだ。

 ほんとうにエミコさんらしい。

 何か微笑ましい。

 遠い空の下から、なるべく心を寄せて祈ります。

 
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ダニエル神父。

2011-07-24 11:57:19 | Weblog

 いま山谷のMCにはザビエル会のイタリア人のダニエル神父がいる。

 彼は見るからにほんとうに優しい感じのする優しい男である。

 話す声は少し小さいが、それに自分もだんだんとこの頃慣れてきた。


 昨日の白髭橋の炊き出しには580人ぐらいのおじさんが来た。

 いつもカレーを配る場所は首都高の高架補強のために工事中のため立ち入り禁止になっているために、少しだけいつもより隅田川下降のところにおじさんたちには並んでもらった。

 カレーは30個ほど足らずにパンを渡すだけになってしまった。

 さすがに月末になるとおじんさちは多く来た。

 彼らに新たに増えた土曜日の炊き出しの休みを伝えた。

 土曜日の炊き出しは8月27日まで休みになった。

 随分長い休みになってしまうが、これも仕方がない。

 火曜日の炊き出しは休まないことも伝え、どうにか受け容れてもらえるように話しをした。

 
 カレーを配り終え、一番最後までダニエル神父はおじさんたちと話していた。

 彼はカレーを与えるだけではない、心を与えている人である。

 彼が自転車を置いた場所でずっと一人で待っていると、彼は「待っていてくれてありがとう」と微笑みながら近づいてきてくれた。

 彼の愛あるおじさんたちへの態度は美しいものである。

 そうしたものを見れるのも嬉しいことである。

 彼と二人でMCに戻る途中、一人のおじさんに声をかけた。

 そのおじさんはたまにカレーを食べに来るが、ここ最近は大通りの決まった場所で集めたアルミ缶を潰しているのでカレーを食べには来ていない。

 丸まった背中ながら、いつも一生懸命にひたすら仕事をしている。

 いつも自分たちの挨拶に穏やかな柔らかい笑顔を見せ答えている。

 自分はダニエル神父に言った。

 「彼のような人こそ、聖人である」。

 「うん、ほんとうに、ほんとうにそうですね」。

 彼は深いところから、そう言葉を出していた。


 ダニエル神父の修道会には貧しい人のために働くと言うカリスマがないが、彼は山谷での仕事をとても愛している。

 彼の上司である神父がイタリアにある本部に行き、彼の意向が受け容れられれば、彼はこの先も山谷での活動を出来る。

 そのことを祈っていてくださいと彼は言う。

 自分は迷いなく祈る。

 それは彼のためと、彼の心の受け入れられるおじさんたちのためである。

 
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別れの時は、空を見て。

2011-07-22 13:12:11 | Weblog

 昨日あさみちゃんがメールでエミコさんが亡くなったことを教えてくれた。

 あさみちゃんはナオコちゃんがメールで知らせてくれたとのことだった。

 2008年1月だったと思う、カルカッタでナオコちゃんとエミコさんの旦那さんのダールさんのところに行き、日本でC型肝炎の治療にしていたエミコさんに電話をしたことがあった。

 相変わらずの元気そうな口調で話をしたことを思い出した。

 それから、2009年3月にはライオンの旅の医大生とすみこさんと一緒にカルカッタに帰ってきていたエミコさんに会いに行った。

 その時は身体のいろいろなところは衰え始めていたが、それでも、豪快と言うか、ゴッドばぁーちゃんみたいなところは相変わらずでいろいろと冗談を交わして楽しい時を過ごした。

 それがエミコさんと会った最後だった。

 彼女とはカルカッタの日本領事館の新年会で会ったのが初めてだった。

 ベンガル語を流暢に話すサリーを着た身体の大きいおばちゃんはあまり日本人には見えないところもあった。

 それから、2000年、彼女がゲストハウスを作り、たぶん初めてのお客さんだったと思う、そのお客さんを空港まで向かえ着ていた時に、ちょうど自分のそのお客さんと一緒の便でダムダム空港に着いたので、自分の泊まるゲストハウスまで送ってくれてから、カルカッタ滞在の時には何度かエミコさんの家に遊びに行くようになっていた。

 今年のカルカッタではすみこさんにエミコさんのことを聞くと、日本で治療をしているのでもうカルカッタには帰って来れないのではないかと聞いていた。

 涼しい夏の日、エミコさんを偲ぶ。

 空を見ると、空が今一番自分と彼女の間が近いような感じがしてならない。

 「お疲れ様でした」とぽつり、彼女を想い、祈りを空に捧げる。

 
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山谷の夏休み。

2011-07-21 12:34:11 | Weblog

 7月30日と8月6日は白髭橋でのカレーの炊き出しはお休みになります。

 その場所を地域の夏祭りに使用することで休みを取ることになります。

 地域の人との折り合い、そして、話し合いにも、いまの委員長のノアスはしっかりと関わってくれる。

 それは有り難いことである。

 正しいことをしていると過度に思うものは、それを武器にし戦ってしまう。

 そこに愛がなく、憎しみや恨みを生んでしまうことに気が付かずにそうしてしまう。

 そのものは愛から遠くなり、その影に呑み込まれる。

 マザーは言う。

 柔和な心、謙虚な心が大切なのだと。

 だが、それをどう身に付けるのかは、なかなか見出せなく難しいものである。

 それは自身のなかにある影とそれを認める勇気がいつか師となってくれるのではないかと思う。

 そこを注意深く慎重に見る必要がある。

 そこに祈りを合わせれば、深い思いやりも生まれ育っていくのではないかと思う。

 山谷ではほとんどのおじさんが毎日二食、そして、一日一食の人も少なくはない。

 その人たちの空腹を忘れる訳ではなく、ただ出来る限り分かってもらえるようにお話しをする必要があるだろう。

 空腹を知らぬものには、その資格がないのかもしれないが、それでも、せめてお話しをさせてもらいたいと望む。

 この夏をどうにか乗り切ってほしいと祈りを込めて。

 彼らとお話しをさせてもらう。

 
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