今日はマザーの誕生日である。
ちょうど天草に行ったので隠れキリシタンのことを書こうとも思ったのだが、少し呟くようにマザーのことを書こう。
マザーはほんとうに厳しいことを言う。
「自分の感情を乗り越える」そのことをマザーはよく言っていた。
その思いの祈りの一つがこれである。
「自分より他人を」
主よ、私が空腹を覚えるとき、パンを分ける相手を出会わさせてください。
のどが渇くとき、飲み物を分ける相手を出会えますように。
寒さを感じるとき、暖めてあげる相手に出会わさせてください。
不愉快になるとき、喜ばせる相手に出会えますように。
私の十字架が重く感じられるとき、だれかの重荷を背負ってあげられますように。
貧しくなるとき、貧しい人に出会わさせてください。
暇がなくなるとき、時間を割いてあげる相手に出会えますように。
私が侮辱を味わうとき、だれかを褒めてあげられますように。
気が滅入るとき、だれかを力づけてあげられますように。
理解してもらいたいとき、理解してあげる相手に出会えますように。
かまってもらいたいとき、かまってあげる相手に出会わさせてください。
私が自分のことしか頭にないとき、私の関心が他人にも向きますように。
空腹と貧困のなかに生き、そして死んでいく世の兄弟姉妹に
奉仕するに値する者となれますように。
主よ、私をお助けください。
祈らなくては自分を乗り越えることなど出来ないのであろう。
祈らなくては自分に気付くことなど出来ないのだろう。
祈らなくては自分を認めることなど出来ないのであろう。
祈らなくては怒りに操られ、呑み込まれてしまう。
祈らなくては・・・。
ほんとうにあの方は自分の弱さを教え続けてくれる。
たまに参るくらいである。
まったく思いやり深い人である。
今日もあの方を想う。
感謝の想いもお供えして。