Californiaから見た日本-珍留学生活-

Community Collegeを卒業しUniversityに2008年秋から編入します。私の珍留学生活の記録です。

National Treasures(国の宝)-戦時中の日系人-

2008年05月17日 16時59分38秒 | 日記 in LA
とうとう行ってきました

日系人で編成されたアメリカの442戦闘部隊の生き残りの方の
お話を聞くことができたのです。

彼と会えたことだけでも、奇跡に近いことだと私は思うのです。

ここ、カリフォルニアに留学してたから、このようなことができたんだと思います。

442部隊に関しては、Social Science(社会科学)でリサーチペーパーを書き
授業でプレゼンをしました。

日本人として、人間として、あまりにも考えることが多かった442部隊。
詳しくはこの日記を読んでいただければ・・・

簡単に442部隊のことを話すと・・・

戦前から日本からアメリカの移住は盛んに行われていました。
特に、私が今住んでるカリフォルニアには多くの日本人が移住してきたのです。
その人たちを日系一世(Issei)、その子どもたちを日系二世(Nisei)と言います。
Niseiの多くは、アメリカ生まれでアメリカの教育を受けているので自分を
アメリカ人と信じて疑いません。でもNiseiは自分の両親や祖父母の祖国が
『日本』であることも理解しています。

現に、日系人博物館に行ってわかったことですが、Niseiの多くは日本語が
苦手なのにも関わらず、戦地からは日本語で手紙を両親宛に書いていました。

パールハーバー後、日本人はアメリカ政府いわく『保護』の目的で
収容所に送られました。でも、その収容所のほとんどは、砂漠や極寒の地にあって
ひどい環境だったそうです。

Niseiは、ショックを受けます。
自分の両親を、このひどい環境下から解放するためには・・・
そして、自分のアメリカへの忠誠心を示すためには・・・???
その結果、ルーズベルト、アメリカ大統領が下した勅令に従い日系人だけで
組織された442部隊に参加することが全ての解決法だとNiseiは判断し
442部隊に参加するのです。

でも、日記にも書きましたが442部隊は、過酷な戦地に送られ
300%の死傷率でテキサス部隊を救ったり、アメリカの陸軍史上
ありえない戦果を残します。

『Go for broke!!』(日本語で言えば『バンザイ!!』)をモットーに
彼らは、ありえない功績を残し、様々な勲章を手にしています。


その中の、生き残りの方にお会いできたのです

2人、お話されました。

そのうちの一人の方は、戦争にアメリカ人として行って442部隊で戦った方。



戦時中にアメリカは、日系人に質問しました。
その中の27問目と28問目が日系人の運命を変えました。
Yes、Yesの人は戦争へ。
No、Noの人は刑務所へ。

はじめに話した彼はYes、Yes。
彼は、収容所も悪くなかった。三食食べれるしね。と話してたけど
祖国と信じるアメリカの仕打ちを悪く言いたくないという気持ちをひしひしと感じた。
汚水が逆に流れることもあったり、医者も満足にいない環境下を
『悪くない』という彼の気持ち。考えてみてください。

その中で、彼は3秒後死んでもおかしくない戦場でアメリカのために
両親のために戦ったのです。

次に話した彼はNo、No。



彼は日本への忠誠を示したために、刑務所に入れられました。
彼の考えは、アメリカの憲法に基づき、どんなマイノリティの権利も守られる
べきはずだった・・・とのことでした。



2人も、すごい人です。




二人とも、違う意味で人生をかけて、命をかけて、戦った。
国のために戦った。

二つの祖国に挟まれ、でも果敢に戦った。


『戦争』全てが、ここから始まった悲劇。


その過ちを、彼らから痛いほど学んだ。

初めに話された方、時間がなくて話を中断された形で終わって残念だったけど
彼、最後に生徒が出て行く中、一人一人戦友の名前と、どんな風に彼らが
散っていったかを話し出しました・・・

『××大野、彼は銃弾が飛び交う中・・・』そんな感じで、話してらっしゃいました。

きっと、そんなふうに442部隊の功績を語り継ぐのが生き残った自分の役目だと
思ってらっしゃるような、そんな気がしました。

次の方も、自分たちが今後のアメリカにおいてのマイノリティ(少数民族)の
悪い見本として、必死で今も戦っていらっしゃいます。


この時間は、私の人生において本当に意義あるものだったなぁって
思います。うん、本当に。


Identity、国、正義、自由、権利、愛情・・・
いろんなことを教えてくれる貴重な時間でした