Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

「不登校」を語る難しさ

 

不登校。

いずれ僕が真剣に語りたいテーマの一つ。

けれど、この「不登校」の問題を語るのは、とにかく難しい。あまりにも難しいので、研究を断念したほど。このブログでも、不登校の問題はほとんど触れていない。触れたいけれど、なかなか触れるのが難しい。「不登校とは、かくかくしかじかだ!」というようなものが本当にないのである。


①まず、不登校を語る上で、「どうしたら学校に来させられるか」、というバイアスがかかっているので、不登校そのものの現象をとらえることが容易ではない。僕らの先入観の中に、「学校は行くべき場所」というものがあり、それに行かない、というのは、そもそもネガティブなものとしてとらえられてしまう。周りの人も、「どうして学校に行かないんだ」と言う。それは、最初から、「学校は行くべきところなのに、なぜ君は学校に行かないのか?」、と批難されることになる。不登校は最初から、「否定されるべき現象」として現れている。

②不登校の原因があまりにも多岐にわたるため、否、不登校の原因は本当に人それぞれなので、その原因について語ることができない。本当に、「それぞれ」としか言いようがなく、語りようがない。類型化したり、パターン化することもできるかもしれないが、それをしたところで、この問題の本質にたどり着くとは思えない。原因が語れない。それが不登校という現象を語ることの難しさである。

③「義務教育を受けない権利」は認められるのかどうか。「教育を受ける権利」は既に皆に理解されているが、教育を受けることを拒絶する子どもの正当性は担保され得るのかどうか。親は学校に行かせる義務をもつ。子どもには教育を受ける権利がある。けれど、子どもが「教育を受けたくない」と言った場合、それをどう考えればよいのか。その答えは明確に出ていない(はず)。これが「強制」となったら、もうそれこそ、学校=強制収容所になってしまう。「学校に行くことは幸せなこと」という共同幻想が崩れてしまえば、自ら学校を拒絶する子どもが増えるのはある意味で当り前のことで、それをどう解決するのか。難問である。

④不登校は、「いじめ」とセットで考えられやすい。けれど、いじめとは別の現象であるし、いじめがなくとも、不登校は起こり得る。僕らのバイアスの中に、「いじめ」→ゆえに「不登校」というロジックがあり、それを捨て去るのはとても難しい。また、子どもたちは、自らの不登校の原因を語ることが難しいので、彼らの陳述を当てにすることもできない。また、いじめられた側ではなく、いじめた側が、そのいじめゆえに、

⑤不登校=怠惰、という考え方もある。怠惰による不登校を見抜くことは難しい。また、怠惰をごまかす恐れもある。しかし、その怠惰ゆえに学校に行かない子どもを非難することもまた難しい。「めんどうくさいから、学校に行きたくない」、という子どもに対し、僕らは何かを言うことができるのか。恐らく、誰しもが困惑するだろう。「なまけるな!」と怒るか、あるいは「じゃ、いいんじゃない」と肯定するか。また、その「めんどうくささ」を僕らはどう考えればよいのか。

⑥不登校の子どもは、その後の「学び」に戻ることが極めて困難である。とりわけ数学や理科など、自然科学全般の学びの遅れの取り戻しは極めて難しい。けれど、その学びの遅れを取り戻すマンパワーは日本にはない。ドイツには「社会教育士」(あるいは「福祉教育士」?)なる専門家がいて、不登校の子のために家庭訪問し、自宅で教えてくれる。学びの遅れを取り戻すことは容易ではない。

⑦事実上、不登校の子どもでも、義務教育を卒業することができてしまうことによる問題もある。学校に行かなくても、学校を卒業できてしまうことの問題について、僕らはどう考えればよいのか。厳しくいえば、小学校・中学校の勉強を全くしていなくとも、その卒業証書をもらえてしまうのだ。それを認めてよいのかどうか。この答えも(恐らく)誰にも出せていないように思う。(*今はどうなんだろう? 中学を卒業できない不登校生っているのかな?)

…等々。

この上のことを念頭に置いて、ウィキペディアの文章を読むと、不登校を語ることがどれほど難しいかが分かるだろう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%99%BB%E6%A0%A1


こうしたことを踏まえながら、不登校の子どもの経験に目を向けたい。

①不登校の子どもは、「昼夜逆転する」、とよく言われる。その背後には、「学校にいけないことの申し訳なさを免れるために、昼に寝て、夜に生活するようになる」、ということがある。昼に起きているのは辛すぎる。不登校の子も、自分が学校に行かなければならない、ということは分かっている。でも、行けない・行きたくない。そのことを免責するために、昼夜逆転する。夜ならば、その申し訳なさはなくなるので、安心して生活できる。

②不登校の子どもは、まずもって、「描いていた未来が断たれる」、という経験をする。というよりも、「これからどうなっちゃうんだろう?!」という不安を抱えることになる。不登校は、いわゆる「普通の世界」から道を外れる、ということだ。ゆえに、自分の未来が絶たれ、何をどうしてよいのかが全く見えなくなる。宇宙の中で孤立している、そんな感じだろうか。「天涯孤独」に近い感情だろうか。とにかく「道から外れる」、という経験をすることになる。その世界は、もうぽっかりという言葉が一番しっくりくるかもしれない。「ぽっかり感」というか。

③不安以上に強いのが、孤独感だろう。学校の中で独りぼっちというのは、「孤立」である。孤立は、群の中で一人になる経験を言う。不登校の場合は、そうではない。不登校の子どもは、群の外に立つ経験をしている。まさに一人だけの世界に立たされることになる。皆が学校に行っている間、その子どもは、まさにその外にいることになる。いるべき場所におらず、誰もいない、まさに「不在の世界」を生きる。それは、孤立のように辛い世界ではないが、途方のない世界ではある。そういう世界を生きることは、苦しさではない。もっと深淵なるものだと思われる。しかも、その世界は、本人にも自覚されないような世界、なのかもしれない。

④不登校の子が陥るのが「アパシー」(無気力=虚無)である。何もする気がしない。ぼーっとするだけ。何にも興味が持てない。そういうことで苦しむ不登校の子は多い。でも、本当にそれがアパシーなのかどうかは要検討であろう。不安と孤独に押しつぶされて、虚無状態になっていると考えれば、虚無が問題なのではなく、不安と孤独が問題なのではないか。不登校の子どもは、未来が見えない、そして、そばに誰もいない、という状況を生きている。そうした不安や孤独をしっかりと誰かに受け止めてもらわないと、後々にもっと深刻な状況になってしまうだろう。

⑤不登校にも、ポジティブな側面はある。「完全に世界が変わる」、という経験だ。「みんな」という群から離れるわけで、それはそれで「人間形成」において大きな大転換期にもなり得る。いわゆる「identitiyの確立」を果たしてくれる要素ももっている。強い自我・強い自意識を手にする可能性ももつ。不登校は、ある意味で、「再生」をも意味する。生まれ変わる経験、と言ってもよい。あるいは、常識の向こう側に立つ、と言ってもよい。不登校の子の世界は、これまでの世界と全く違った世界に入り込むことでもある。不登校は、「挫折」でもあるが、同時に「超越」でもある。

…等々。


最後に。

僕もまた不登校経験者であり、がゆえに、僕は他の不登校の子の経験に向き合うことができない。どうしても自分の経験に当てはめてしまうからだ。だから、僕は不登校を語ることをやめた。よく、「当事者じゃないと分からない」と言われるが、僕はそれを否定する。当事者だからこそ、分からないのだ。当事者だからこそ、その問題をありのままに受け止められない。どうしても自分の経験にダブらせてしまう。

かといって、自分の不登校経験も紛れもなく不登校の経験であるから、それなりに理解の地平はもち備えているとも思う。けれど、それを一般化させることはできない。ゆえに、語れなくなる。不登校の子どもの背景は、本当に「それぞれ」すぎて、どうにも語れない。

ただ、体験者だからこそ、不登校に陥ることによって引き起こされるもの、たとえば不安や孤独といったものについては、主張したくなる。けれど、そういう不安や孤独を感じていない不登校の子どももいる(ように見える)。

一つだけ言えることは、その不登校の子どもにとっては、誰か特定の他者がどうしても必要である、ということだ。一人で解決することはまずできないと思う。また、親にもそういう他者が必要である。特に、不登校の子どもの支援の場合、親を支援することが、実際のところ、子どもの支援にとって重要になってくる。不登校は、子どものみならず、親をも苦しめる。

「学校にいかせるかどうか」ではなく、「今後どうするか」を一緒に考えるパートナーが必要なのである。それは先生であっても、先生でなくてもよい。一番怖いのは、不登校の子どもとその親が孤立してしまうことだ。

 

…と、思うままに、つれづれに書いてみました。

ご意見等、お聞かせ願えれば、と思います。

コメント一覧

kei
時雨Tさん

ご無沙汰しております(苦笑)。ふらっとね(笑)。

「なんとも不思議な時間」、まったくその通りだと僕も思います。この不思議な時間をどう言葉にしたらいいか、ちょっと悩んでいたりもしたり。

フリースクールでのボランティア?! いつか話を聴かせてほしいかな、と。

kumadaさん

おー。まだ見てくれてたんだ(笑)。不登校の辛さに、「社会からのメッセージに答えられない」っていうのはあるだろうね。僕もそう思います。社会といっても小さな社会だけど、でも、親だけじゃなくて、いろんな圧力を感じていたりするんだよね。

不登校問題は今、「いじめ問題」の背後にひそんでいる気がします。是非考えてもらいたいテーマです。
kumada momoko
はじめてのコメント
前期の教育過程論でお世話になりました熊田です。とても興味深い記事でしたので、コメントをしてみました。というのも、私も小学校6年のとき一年くらい学校に行ってなかったからです。不登校はとても辛かったです。なぜなら、「学校に行くべき」という社会のメッセージに応えられなかったからです。応えたくても(心で思っていても)応えられない(身体が拒否する)矛盾が苦しかったです。今は、身体の感じるままに行動しよう!としているので、そんなことはないのですが、、。
孤独感もありましたし、自分は特別なのでは?という想いもありました。先生の記事を読んで、忘れていた感情を思い出して、もう一度不登校について考えてみようかな?と思いました。ありがとうございます。
時雨T
お久しぶりです。

最近フリースクールでのボランティアも始めて、不登校についても考えていた最中だったので、思わず記事を食い入るように読んでしまいました。
不登校は僕も経験したことがあるのですが、あれはなんとも不思議な感覚の時間でした。皆が学校に行ってる間、自分だけの時間ができるわけですから。でも不登校だからこそ楽しめることもあると思うんですよね。僕の場合はギターでしたけど…
まず学校は行かなくては行けない場所なのかと考えると難しい問題ですね(・・;)

では、またふらっと現れます!!
あ、800万アクセスおめでとうございましたー
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「教育と保育と福祉」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事