Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

エゴイズムと自己愛、そして利他性

 フロムの見解を敷衍すれば、haveの愛は、エゴイズム(egoism)に直結する。エゴイズムとは、通常「利己主義」、「自己中心主義」と訳され、そのほとんどの使用において否定的に扱われている。エゴイズムは、「自分だけが利益を得ること」、「最小限の努力で最大限の利益を得ること」を主義とすることである。エゴイズムの対概念は、博愛主義、利他主義(altruism)であり、愛や利他性と間逆の考え方として捉えられている。

 *これに似た言葉に、ピアジェの「自己中心性」(egocentrism)がある。この自己中心性は、子どもの(ある種本質的な)特性の一つで、これは批判されるべきエゴイズムとは異なり、むしろ積極的に理解されなければならないものかもしれない。子どもは、自分以外の視点で物事を捉えることができない。

 エゴイスト(利己主義者)は、自分だけの利益に固着する。自分の利益にならないことはしない。こうした考え方は、「自己責任論」とマッチングする。たとえば自分の給与が少ないのは、自分の努力が足りないからだ、もし高額の給与がほしければ、エゴイストとなり、自分の利益のためだけに追求すればよい、自分の利益を得るためならば、他人を利用してもよい、と考える人がいる。こうした発想の根底には、エゴイズムが潜んでおり、自分の利益を生む人を、自分のために、愛するということも起こりうるだろう。エゴイストも、人を愛する(求める)ことはする。だが、その愛は、すべて「自分のために」なのである。こういう人は、意外と多いのではないか。自分が偏差値の高い大学に入ることだけを人生の目標にした受験生、相手の外見や所得だけで恋人を作る人、誰よりも抜きん出たいと思うタレントや芸人、出世街道をひたすら走ろうとするサラリーマン、一円でも多く稼ごうとする経営者など。こういう人を直ちに否定することはできないが、こうした発想は、資本主義的、新自由主義的な発想であり、自己責任論を謳うエゴイズムに典型的なものである(ゆえに、フロムは資本主義とエゴイズムを否定する)。(ただし、僕的には、こういう人も必要な気もするんだけど…)

 エゴイストは、他者からの賞賛を期待する。他者から賞賛されないことには、意味が見出せない。他者に「すごいね」「羨ましい」といわれることで、満足する。エゴイストたちは、ありのままの自分(Be)をそのまま肯定することができない。常に、一歩先の自分を追いかける。エゴイストは、自分自身を愛していないのである。だから、他者に愛されること(賞賛されること)を必死に求めてしまう。だが、自分が自分を愛していない以上、どれだけ賞賛されても、それに満足することができない。どこまでも他者からの賞賛を求め、それに支配されていく。

 このエゴイズム(利己主義)を超えて、いかにして私は自分自身を愛することができるのか。それが「自己愛」(Self love)の問題である。

 自分を愛している人を考えてみよう。自己愛をもっている人は、「自分だけに利益があること」に囚われず、自分がどう存在していれば満足できるのか、自分がどのように生きることがよいことか、ということに注意を払う。「何をもっているか」「何を得るか」ではなくて、「どう存在しているか」、「どのように生きているか」ということに目を向ける。自分を大切にしている人は、自分のみならず、自分にとっての大切な人をも気遣う。自分を愛している人は、その人の周囲の人も幸せであってほしいと願うし、またそうでなければ、その人自身が悲しいのである。自分の人生には、自分以外の他者の存在が深く関与している。その自分に関与する他者が悲しみに沈み込んでいるときに、自分を愛する人は、嬉しい気持ちにはなれないのである。エゴイストは、きっと「ライバルが消えた」と喜ぶだろう(by BOOWY)。

 自分がどのように生きているのか、という視点は、自分がどのように死ぬか、どのように自分の死を迎えるか、という視点とも直結する。自分の生は、自分の死に向かって、流れている。生の終わり、つまり死もまた、自分の生の問題なのである。自分がどのような状態・存在(be)で死にたいか、どのような仕方で死を迎えたいか、そう考えて、自分の生を考える人は、どのようにして、どのような人間に看取られたいか、ということも考えている。もちろんどのように死ぬかは、生きている人間には分からない。ただ、死ぬとき、死ぬ瞬間、自分はどういう形で自分の生を終えたいのか、それならイメージできるはずである。そういうイメージをもっている人は、やはり自分を愛している。自分を大切にしている。自分を大切にしているからこそ、自分の死を気遣うのである。

 エゴイストが「自分だけ」という観点をもっているのに対して、自分を愛する人は、「自分の存在」、「自分の人生」を気遣っている。自分の存在や自分の人生には、必ず他人が関与している。他人を含めた自分たち(we)への愛が、自己愛にはあるのである。beの愛は、こうした自分たちという複数性をもっている。恋愛で言えば、相手を愛するのではなく、相手自身と、その相手と共にいる自分自身を愛しているのである。夫婦の不和も同じである。夫が自分のことしか考えておらず、妻の抱えている苦しみにまったく目を向けなければ、妻の孤立感は深くなる。夫は自分の成功話を妻にすることはあっても、妻の現在の苦しい状況には目を配らない。夫がエゴイストであれば、妻の苦しみなど眼中にないのである。もし、自分を愛する人であれば、妻が苦しそうな表情を浮かべていたり、妻の苦言に耳を傾けるだろう。たとえ自分が会社で成功したとしても、その喜びを抑え、妻の苦言を聞き、胸を痛めるだろう。そういうことができる人は、他者を含めて自分の人生を捉え、自分(と妻との)の人生を大切にするために、尽力することだろう。

 つまり、自己愛には、自ずと利他性・利他主義が入り込むのである。当然、人類すべてが自己の中に入り込むことは稀で、具体的な親密な他者、数人だけに制限されはするだろう。ただ、稀に、自分の国から数千キロ離れた国の人々のことを思って、愛そうとする人もいる。国境なき医師団や国際NGO団体の人々は、そうした自分の具体的な人生とは全く関わりあわない人のことを気遣うのである。そういう人は、自己愛に満ちているだろうし、また強い自尊心や使命感を感じているだろう。「相手のために、相手の幸福を願い、行動すること」(つまりフィリア)、このことに自分自らの幸せを感じるのである。

 こうして、次のことが理解されよう。すなわち、「己を愛さない人は人間を愛することはできない」、「人間を愛せない人は己も愛せない」、という愛の解釈学的循環である。この循環の根元を明らかにすることが、赤ちゃんポスト、社会的養護(ないしは、児童虐待、ネグレクト、児童遺棄)に潜む大きな課題となるだろう。つまり、親からの愛情を受けられなかった子どもたちは、どのようにして、この愛の解釈学的循環に正しく入り込むことができるのか、という課題である。

 エゴイズムが蔓延し、多くの人が自信を失い、自分を愛せずに苦しんでいる。自分を否定する人とはいくらでも出会えるのに、自分を心底肯定する人とはほとんど出会えない。自分を肯定できる人が少ない社会というのは、決して健全な社会ではないはずである。自分を肯定するための条件を考えることは、今の時代で最も優先されねばならない問題なのではないだろうか。

コメント一覧

kei
kumiさん

よかったよかった。持ち直したってことで、僕も安心しました。

愛することは難しいけど、その難しさゆえに、人間は愛することに魅力を感じるんだと思います。

感情的になることが愛することではないはずなので、kumiさんも愛することを問い続けてほしいです。

また、顔を見せに研究室にきてください☆
kumi
お返事ありがとうございます。
色々ありましたがこうやってコメントできる程度にまで、やっと持ち直しました。

言葉にすれば容易いことですが、人を愛する事って難しいですね!

今もまだ毎日の暮らしに追われていて
実家暮らしなのに、家へは寝る時間のみ帰っているような状態です。

またそのうち、研究室に顔出しに行きます( ^ω^ )
kei
kumiさん

こんにちは。元気にやってますか?!! コメントありがとうです。

>自分を肯定できない自分でもいいじゃないかって思います。
肯定しようと意識すればするほど、それだけ自己愛に走ってしまう気がするからです。

この「肯定できない自分でもいいじゃない」というのが、自己愛なんだと思うんですよね。人間、肯定できない部分は必ずあります。でも、それでOK、ありのままの自分でOK、これが自己愛なんだと思います(健全な意味で)。

だから、

>誰しも自信を失っていたとしても、そのなかで必死にもがくことができる人こそ輝けるのではないでしょうか。

というのも、自信を失ってももがける人は、その時点で十分に自分を愛している、といえるんです。自信を失うようなことは、誰にでも起こり得ます。そのときに、必死にもがける人と心折れて潰れてしまう人がでてきます。自己愛の人はそれでも頑張れます。ナルシストの人は、…どうなるんでしょうね。

人との出会いについては、全くその通りだと思います。

いい意味で自分を愛せる人間が増えることを祈るばかりです。
kumi
お久しぶりです
自分を肯定できない自分でもいいじゃないかって思います。
肯定しようと意識すればするほど、それだけ自己愛に走ってしまう気がするからです。

肯定できない現実を受け止めて、それでも自分にできることをひたすらやっていけばその中で気がつくこともあるでしょうし…

否定な感情があっても、その繰り返しの中で得たものが自分を信じる糧になってくれる気がします。

誰しも自信を失っていたとしても、そのなかで必死にもがくことができる人こそ輝けるのではないでしょうか。

それを支えるのは人との出会いです。
「この人なら」と思える相手がいれば苦しくても生きていけます。

しかしそれよりも重要なのは、自分が愛を与えられている立場だということに気がつく瞬間がいつなのか…、でしょうかね。

分かったように長々と失礼しました(._.)
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