Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

代弁機能を失くした音楽の行方

今、音楽って何だろう、と最近よく考える。

僕らの頃は、音楽がまだ「神聖」なものだった。多くの若者が音楽に頼り、音楽に何かを期待していた。音楽に寄りかかり、音楽に助けを求め、音楽によりどころを求めていた。尾崎豊やBOOWYやブルーハーツ、X JAPANやLUNA SEA etc、どれも、若者の代弁者として一世風靡したし、絶大な支持を集めた。

ファンたちは、アーチストを「神聖化」して、自分たちの気持ちを代弁してくれることに、たくさんの喜びを得た。ライブを見ながら、涙し、震え、そして、叫んだ。僕ら団塊Jr世代は、音楽と自分の生き方が直結していて、多くの救いを音楽から得た。この音楽による若者の気持ちの代弁する作用を「音楽の代弁機能」と呼びたい。かつての音楽には、代弁機能があり、それゆえに、音楽は多くの若者を強く魅了し、多くの若者を救い、鼓舞し、支えてきた。

だが、時代は変わった。

今や、若者たちは音楽に救いを求めていない。音楽に代弁者を探さなくても、自分で自分の考えや思いをダイレクトに世の中に発信することができるようになった。HP、ブログ、mixi、SNS、Twitter etc. 色んなメディアで、PC一つで、世の中とつながれるようになった。代弁者がいなくても、自分の好みや嗜好に合った仲間を見つけることも簡単になった。代弁される必要はなく、自分の言葉で、自分の手で発言できるようになった。

それがよかったのか、悪かったのかは分からないが、代弁の必要性がなくなることで、「アーチストの神聖化」はもはやなくなったかのように見える。いわゆる「カリスマ的存在」は登場しなくなった。人気アーチストは今もいるけれど、若者の教祖的存在は出なくなった。今の時代では、尾崎豊的存在はもはや生じないのだ。せいぜいのところ、ファッションリーダーになるか、一曲当てるか、それくらいしかアーチストには残されていないのだ。

かつて、音楽には、とくにロックには、たしかに「一般大衆(おれたち、わたしたち)」の代弁的機能が備わっていた。自分の言いたいことや伝えたいことがうまく人に伝えられない時代には、時代に合った、共感を得やすいアーチストが時代の象徴となれた。尾崎が「ぼくたちは・・・」といえば、それでぐっと尾崎の世界に浸り、一つになることができた。XのTOSHIが叫べば、普段叫べずにふさぎこんだ若者たちが共に叫び、内なる思いを共に叫ぶことができた。

が、今は違う。代弁的機能は音楽からなくなり、ただただ音を楽しみ、音を消費するだけのメディアになった。アーチストは、神から物に変わってしまったのだ。これを「音楽のファッション化」と呼ぼう。そうすると、もはや神的な尊敬を受けるのは、テクニシャンしかいない。名プレイヤーといわれる演奏家のみが尊敬される対象となった。でも、そういう名プレイヤーは、若者の心の教祖ではない。あくまでも技術者としての尊敬を集めているにすぎない。ミュージシャンは、アーチストからプレイヤーへと転落してしまったのだ。(ミュージシャンたちも、そこは迷っていて、ファッションで極めるか、プレイで極めるかしか残されなくなった。技術に走る若いミュージシャンが実に増えた。)

音楽が売れなくなったこととも関係しているように思う。今の若者は、音楽に依存していないし、音楽に寄りかかろうとも思っていない。ファッションやアクセサリーの一つに過ぎないのだ。だから、飽きたらぽいっと捨てることもたやすい。今でも人気アーチストというのはいるけど、尊敬されるアーチストにはなっていない。ファッションとしてカッコいいアーチストはいても、心底惚れて、同一化しようとして、必死にそのアーチストを追いかけるようなことはしない。ほとんどの若者が音楽に頼っていないのだ。音楽の神聖さが失われた結果だと思う。

僕は、音楽に救われた経験をした。音楽に頼り、音楽に助けを求め、音楽によって自分自身が支えられた(音楽の美的経験と言ってもいいかもしれない)。けど、今の若者を見ていると、誰も音楽に助けられていない。音楽よりも、アーチストよりも、ネットの中、小さなコミュニティーの中に助けを求めている。そっちの方が健全なような気もするし、そうじゃない気もする。いずれにしても、今の若者たちは、音楽以上に頼れるものもあり、自分で発言することができる、そういう環境にいるのである。

音楽はかつての権威を失った。これは確かだと思う。生き方や人生だけじゃない。恋愛においても、音楽に共感を求めなくなった。昔は、よくカラオケで歌いながら泣いている女の子がいた。歌いながら、その世界にひたり、その世界に酔い、涙するのだ。歌の歌詞に、自分の心境を重ね、代弁されることで、救いを得ていた。だが、今の子たちは、それほどカラオケにも執着しないし、歌うことで発散しようとも思っていない。音楽=心の支えではないのだ(無論、支えになるときもあるとは思うが、かつてほどではない、という意味で)。

今の子たちは、PCやケータイで忙しい。音楽を聴いてほろりとする前に、文字を打ち、そして画面を見ている。きっと、そっちのほうが救いになっているのだろう。ブログやmixiやSNSの方が、具体的に人とつながれるし、悩みを打ち明ければ、すぐに返事が帰ってくる。手の届かないアーチストに手を差し伸べるよりも、身近で親しくてすぐにコミュニケートできる不特定多数の人の方が救いになるのだ。若者にとってのメディアが変わった、と言ってよいかもしれない。音楽メディアからPCメディアへ、と。まさにIT革命ゆえである。

代弁されなくても、自分で発言できる。これは素晴らしいことだと思うが、その一方で、音楽が衰退するのはとても悲しくも思う。今のバンドマンたち、アーチストたちを見ていても、とても切ないものを感じる。きっと彼らは音楽に救われたんだと思う。が、自分たちの音楽が他者の救いにならない、という悲しい事実。それがとにかくも切ないのだ。V系的に言えば、LUNA SEAまでは救いのミュージシャンだったが、ラルク、グレイは、救いのミュージシャンではなく、ファッションのミュージシャンであり、カジュアルなミュージシャンであった。その点、ディルアングレイは救いのミュージシャンとも言える。ガゼットやナイトメアもそういう救いを求めるファンの支持を集めている。ゆえに、強い。

今後、音楽に代弁機能が戻るとも思えないが、かといって、音楽がこのまま衰退するとも思えない。次世代の若者が音楽とどうかかわるのか、僕としてはとても気になるところである。(了)

コメント一覧

mitchy

keiさん、お返事頂きありがとうございます。
学校教育についての本なのですね。すごい本を書かれてるのですね~!変な質問ですけど、本を書かれるのってどの位かかるのですかー?またどうしてこういった本を書かれる事になったのですかー?私、全然アカデミックじゃないので、なんだかとんちんかんでスミマセン。
出版されたあかつきには、是非読ませて頂こうと思ってます!
それから、私の文章、「いい表現」なんて言って頂けるなんて、恐縮です
…。(でもスゴイ嬉しい!)
kei
mitchyさん

専門書というよりは学芸書、入門書って感じです。学校教育の過去~現在、特に80年代~90年代のゆとり教育が何だったのか?を、団塊ジュニア世代の執筆者が再検討して、21世紀の学校の役割を考える、というものです。是非amazonでお買い上げください(苦笑)

今の若者が別の何かに縛られているっていうのは、いい表現ですね。何に縛られているのか、気になりました。
mitchy
いろいろ
keiさん、ライブ前のお忙しい時に、お返事頂き恐縮です~。
夏に本を出されるとの事、是非読ませて頂きたいです。専門書ですか?私でも読めるかしら…?
keiさんの音楽への熱い思いはホント良く伝わってきますよー!!keiさんが音楽に興味を持たれたきっかけとか、今更で申し訳ないのですが、ジキル・祐さんを好きになられたきっかけとか、色々お話伺ってみたいです。
そうですね、今の若い方達は、私達の世代の音楽との関わり方と違う関わり方をしておられるんでしょうね。そして彼らはまた別の何かに縛られたりしているのでしょうか…。
keiさん、今日のライブ、素晴らしい時を祐さんと共に…!!
kei
mitchyさん

こんにちは!

翻訳本もいいですが、この夏に教育関係の本を出すので、そちらを是非読んでみてくださいませ☆☆

音楽への思い入れの強さは僕もあります。今の子たちはもっとさらっと聴いてます。楽しく聴いているっていうのかな。あんまり音楽に過度な期待をすることなく。。。

だから、僕ら世代と違って、音楽に変に縛られてないって気がしました!!
mitchy
ありがとうございます
keiさん、いつも拙い私のコメントに、お返事頂きありがとうございます。
今またあらためて読ませて頂きましたけど、本当にkeiさんの文章は素晴らしいですよ~!お仕事にされてるとおっしゃられても、それでもですよ!!いつか、keiさんが翻訳された本も読んでみたいです。
そうですね、音楽自体に力が無くなったわけではないですよね。逆に、IT革命によってまた新たな別の力を持ったのかもしれないし。
私個人的には、ホント音楽に支えられてきましたが、音楽に対する思い入れが強かったあまり、逆にその思いに自分自身が縛られて、苦しい思いをし続けているのも確かです。
いったい、音楽ってなんのでしょうね…。
kei
mitchyさん

いえいえ。一応、文を書くことも仕事にしていますので。。。読みやすさにはこだわってますかね~。。。祐のライブに行くことが浮気って・・・(汗)そういう発想ってどうやってでてくるんでしょうかね。。。音楽自体に力がなくなったわけではないと思うんです。ただ、メディアが多様化されて、色んなところで色んな手段で表現できるようになった。まさにIT革命によって、音楽が脱近代化したんだと思います。よくも悪くもですけどね。

アユ犬くん

この手の話は尽きないよね~~(苦笑)ホント。大好き。さすがアユ犬氏って感じ。

>携帯のスピーカーから流すということで、その状態で聞きやすいもの、という音楽がウケてるんじゃないかな。

これ、なるほど~って思った。ケータイのスピーカーで聞いてる!!確かに。ケータイでDLした音をイヤホンで聴いている子も多い!昔より音自体はよくなってるのに、音を出す媒体は劣化している!!!!!ってことじゃないですか。。。なんと非対称な・・・

音楽家は結局は音楽で評価されなきゃならないわけだし、それ以外のことはできないよね。ただ、音楽を作る人じゃなくて、音楽を提供する機関・組織・企業はもっと音楽をビジネスとしてじゃなくて、アートとしてやって欲しいな。アートは人を酔わせる。その酔いがあるから、人は嫌なことをも乗り越えられる。今の日本社会がギスギスしているのって、その場しのぎの快楽はあっても、人を酔わせる美がないからじゃないかな~~と思ったり。
アユ犬
ふむふむ!
音楽が権威を失ったというよりは、アーティストという存在が未直になりすぎてるのかなという気がする。
どれを観てもその辺にいそうなお兄ちゃん、お姉ちゃんだったりするし、かつてのように圧倒的な存在感というものを否定する風潮があるのは確かだよね。
そんな中で皆が音楽を生活の中で使っていないのか?というと、そうでもないと思う。
携帯にしても、みんな若い子たちはDLして聞いているわけだし。
ただし、携帯のスピーカーから流すということで、その状態で聞きやすいもの、という音楽がウケてるんじゃないかな。
それを進化と捉えるか退化ととるか…僕は個人的には退化している部分もあると思うけど。

ここで、作り手に求められているのは、やはりどんな状態で聞かれるかわからない事を恐れずに、全体の音楽のクオリティを落とさないって事だと思うな。
携帯から、i-phoneから流れる様な音であっても、ちゃんと細部に拘って作っていくことで伝わるものがあるんじゃないかと思う。
やはりヒットしているものには、それなりに作り込まれているものばかりだしね。
少しずつでも、影響力を持ったアーティストが復権できるように頑張っていって欲しいなぁ、と思うなぁ。

こういう話は本当に尽きないものです(笑)
mitchy
そのとおりです!!
keiさん、こんにちは。素晴らしいです、さすがkeiさん!失礼な言い方になってしまったら申し訳ありませんが、本当に文章がお上手ですね!まさに、keiさんこそ、私達の世代の代弁者ですよぉ!(って勝手に同世代にしちゃってますが、多分私の方がちょっと上のようですネ。)

私もどれだけ音楽に救われて、支えられて来た事か…。でも最近、ママ友何人かに、祐さんのライブに行く事や、彼への想いを話したところ、なんかピンと来ない様な感じで、それどころか「それって浮気じゃん」とか言われちゃって。しかも直接私にではなくウチの主人にそう言ったみたいで。なんだか、神聖な想いを汚されてしまったようで、とっても悲しかったです。昔バンドやってましたーっていうママさんでさえ、同じ感じで。そして、以前勤めていたCD・楽器店の上の方が「今の子達は楽器が出来たらカッコイイっていうのはないからねぇ。」と言っていたのを思い出しました。確かに時代はどんどん変わっていくので、人と音楽との関わりも変わっていくのでしょうけれど、やはり表面的なものだけでなく、心で、いや身体全体で感じるものであって欲しいと私は思います。
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