Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

アリストテレスの理論×実践×技術 [テオーリア・プラクシス・テクネー]

ネット上の実験です。

ギリシャ語表記の実験。

参考:
http://homepage1.nifty.com/suzuri/gg/ggk001.html#s (コンパクト!)
http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2004/09/post_f1a5.html (くわしい!) 

パソコンでのフォント等については
http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2004/09/post_3d2d.html  


アリストテレスのいうところの「実践の学」は

πρακτική(praktike)

πρακτικήこちらを参照

です。

それから、「理論の学」は、

θεωρητική(thoretike)

です。


 理論と実践(+技術)、テオーリアとプラクシス(+テクネー)

アリストテレス曰く、「魂には二つの部分(メロス)があって、一つは理性(ロゴス)をもつ部分であり、他は理性を欠いた(アロゴン)部分である」。「しかし今や、理性をもつ部分に関しても同じようにして、われわれは区分しなくてはならない」(1139a3)。

他の仕方ではありえない諸原理をもつものを考察する部分=「およそそのアルケーがそれ以外の仕方においてあることのできないごときものごとを考察するための部分」(高田訳)=知識的部分(エピステーモニコン:認識的部分)

他の仕方でありうるものを考察する部分=「それ以外の仕方においてあることのできるものごとにかかわるもの」(高田訳)=理知的部分(ロギスティコン:勘考的部分=(?)=思いなし(ドクサスティコン:憶見的部分)=思慮+技術)→これには、「作られるもの(制作)」と「行われるもの(実践)」とがある(1140a1)。

→「われわれは知識的部分と理知的部分の各々の最高の状態(ヘクシス)が何であるかを把握しなければならない」(1139a15)。

「(実践的)行為の始点とは、…選択であり、選択の始点は欲求および、特定の目的のための道理(ロゴス・ホ・ヘネカ・ティノス)である。それゆえに、知性(ヌース)や「思考(ディアノイア)がなく、性格としての状態(エーティケー・ヘクシス)もなければ、選択はありえない」(1139a31)。

アリストテレスはこう言って、知性や思考がなければ、選択はできない、と考える。が、しかし、続けて、こうも言っている。「しかしながら、思考それ自体は、何も動かさないのであって、動かすのは、何かを目指す行為的な思考なのである」(1139b1)。知性や思考の優位性を認めつつも、それだけでは何も動かない(変わらない)。動かすのは、行為的な思考(実践的認識)なのである。無論、「制作的な思考」も、行為にかかわる思考によって支配されている。

***

その上で、アリストテレスは、アレテー(魂の状態)を五つ(テクネー、エピステーメー、プロネーシス、ソフィア、ヌース)に区分し、そして、それに基づき、「人間の知的(理性的)な活動」を三つに区分した。

優劣・順序的には以下の通り。

◎「見る」=観照(θεωρία);(テオーリア)→知性ソフィア(エピステーメ+ヌース)愛知=哲学
=θ(テータ)ε(エプシロン)ω(オメガ)ρ(ロー)ι(イオタ)α(アルファ)
=対象は「他の仕方ではありえないもの」「必然的にそうあるべきもの」「永遠に変わらないもの」
=学問的知識「学問的に知る対象←理論的な知=知性的な知(dianoetike arete)
→アームソン的には、「神を観ずること」。「永遠的なもの」(生成も消滅もしないもの)
=主として「神学」。「自然学」「形而上学」。
エピステーメー(学問的知識・学)は、普遍的かつ必然的な存在に関する「見解(ヒュポレープシス:理解)」である。そして、「論証されるもの」であり、「論拠(ロゴス)」を伴っている。「論証にはそれが基づく第一の原理(アルケー)があり、学問的に知られるものはその原理を前提にする」。→第一の諸原理を対象とするのは、「ヌース(知性:知的直観)」である(1141a7)。
ソフィア(知恵・智慧)とは、技術のアレテーである(1141a12)。
 と同時に、人は「全体的に知恵がある(ソフオス)」とも言う。→「いずれにせよ、明らかにソフィアとは、「学」のうちで最も厳密な形態のものであろう」(1141a15)。→ソフィアとは、ヌースと結びついたエピステーメであり、「最も貴重な諸存在(ティミオン=「神的なもの」(1102a4))」を対象とする「頭をもった学問的知識(仕上げられた・完全な学問的知識)である。(アリストテレスは、アナクサゴラスやタレスを例に出して、自分の利益や事柄の有用性に無頓着な人(人間の善を追及しない人)を、「ソフィアはあるけれどもプロネーシスがない」、と言っている→やはり観照と実践のバランスが大事ということか)。

○「為す」=実践(πρᾶξις);(プラクシス)思慮(分別):プロネーシス(φρονησιζ)=選択意志
=π(パイ)ρ(ロー)α(アルファ)ξ(クサイ)ι(イオタ)ς(シグマ:∑の小文字、語尾型)
=対象は「他の仕方でありえるもの
:具体的には、「倫理学」「家政学(オイコノミコス:経済学)」「政治学」→「ポリスの学(国家学:社会倫理)=politica」
=その目的は、その為すことそれ自体。
=「実践」=ほぼ「行為」。 (経験にかかわるもの)
プロネーシス思慮)=「自分(人間?)にとって善きもの・利益になるものについて、適切に熟慮する能力」=「まさに『よく生きること(エウ・ゼーン)』全体のためには、いかなることが善いのかを考えること」(1140a22)。思慮ある人々(プロニモス)と見なすのは、「その人々が技術のかかわらない領域において、何らかの立派な目的のために理知的によく考える(勘考する)」からと言える(1140a29)。
=「『よく生きること』の全体にわたる場面でも、『熟慮する人(ブーレウティコス=全般的な意味において思量にたけた人)』こそ、『思慮ある人(プロニモス=
全般的な仕方で知慮ある人)』ということになるだろう」(1140a31)。 (*ゆえに、モイズィッヒさんやガイス=ヴィットマンさんたちは、他の教師やソーシャルワーカーと違い、個別事例とは別の領域を考えていて、より実践的(思慮的)な実践者と言えるのだろう。)
=ゆえに、子どもは、幾何学者や数学者になり得ても、プロネーシスをもつプロニモス(思慮ある人)にはなれない(1141a12)。
=プロネーシスは、「人間にとっての善にかかわる行為を行なうところの、道理をそなえた、魂の『真なる状態(ヘクシス・アレーテース:人間にとっての諸般の善に関しての、ことわりを具えて真を失わない実践可能の状態)』である」。→「学問的知識(エピステーメー)」ではない。というのは「行なわれる事柄(プラクトン)が、他の仕方でもありうるものだから」である。また、プロネーシスは、「技術(テクネー)」でもない。というのは、「行為(プラクシス)と制作(ポイエーシス)が類において異なるからである」(1140b2)。(*とすれば、今日の教育学・実践的諸学はまさにプロネーシス不在の議論になっているのでは?、と。エピステーメーの視点かテクネーの視点かのみ) 

▲「作る」=制作(ποίησις);(ポイエーシス)→ポイエーシスを導くのは「技術:テクネー」(←アレテーの一種)
=対象は「為す」と同様、「他の仕方でありえるもの
=「建築(術)」は技術の一つであり、まさに「理論」をそなえた、制作にかかわるある種のヘクシス(魂の状態)であるが、そもそも「理論」をそなえた、制作にかかわる魂の状態でないような技術など何一つ存在せず、逆に、技術でないような「理論」をそなえた、制作にかかわる魂の状態というのもありえない」。だから、「テクネーとは、真なる理論をそなえた、制作にかかわるヘクシスと同じものである」(1140a10)→テクナゼイン(技術の行使・技術を働かせること)は、…あることもないことも可能な事物(かつ、その原理がつくる人の側にある事物)がどのようにすれば生じるのかをテオーレイン(理論的に考察する・考究する)ことを基礎とする(1140a12)。(ゆえに、理想のラーメン作りというのは、まさにテクナゼインであり、その基盤として、テオーレインがある、ということになる→「どうしたら理想の一杯が作れるのかを考えること」)。

*学問的には、この他に「オルガノン」がある。意味的には「学問の道具」。具体的には「論理学」。

例えばこちらを参照 


ここで問題なのは、見る(観想する=理論する)と為す(行為する=実践する)の関連。というか、それぞれ、いったい何をすることなのか、ということ。

まずは、見る=観想(観照)する=理論的に熟考すること(テオーレイン)について。

episteme=例えば、「認識」「学的認識」「学」「学問」「学問的知識」など →「理性」
nous=例えば、「直観知」「知的直観」「直観的に事柄を知る能力」 →「知性」

エピステーメとヌースを総称してソフィアという。ソフィアは、アリストテレス的に言えば、「徳に基づく活動のなかでも『知恵(ソピアー)』に基づく活動こそ最も快いものと一致して認められる」、ということになり、最もすぐれた活動なのである。つまり、見る活動(観想活動)こそ、最も優れた人間の活動となる。高田訳でも、「観想的な活動(テオーレーテイケ)」と訳出されており、見るという観想は、一つの人間の活動として捉えられている。

アームソン曰く、「アリストテレスの考えでは、観照的生活は神の生活に最も似るものであって、神は最高にエウダイモンな存在なのである。我々は人間であるから人間にふさわしいことだけを考えていればよいなどという議論は無視せよ、とアリストテレスは言う。」(アームソン、1998:206)。では、観照とは何か。「観照は活動であって過程ではないということである」(1998:207)。

次に、為す=行為する=実践することについて。

アリストテレスは、上の「見ること=観想すること」を最高の活動としながらも、ニコマコス倫理学の第10巻第9章の冒頭(最終巻・最終章、1179a34)で、こう書いている。

「さて、以上のようなことがらや、もろもろの卓越性(徳)についての、さらにまた愛(フィリア)や快楽についての概説が充分になされたならば、われわれの予定は目的を達したと考えられるべきであろうか。いな。実践とか行為の領域(タ・プラクタ)にあっては、それぞれのことがらを単に観照的に考察して、それを単に知るということではなく、むしろそれらを行なうということが究極目標なのだといえるのではないだろうか」(高田訳)

「さてそれでは、幸福をめぐる以上の事柄やさまざまな徳、さらには友愛と快楽について、その概要がこれで十分に述べられたとすれば、はたしてこの企てはその目的を達成したとわれわれは考えるべきであろうか。それとも、われわれが言っているように、行なわれる事柄においては、それぞれの事項を研究し認識することが目的ではなくて、むしろそれらを実際に行なうことこそ目的なのであり、…」(朴訳)

→ゆえに、アリストテレスは、行為論(政治学、倫理学、家政学、さらには教育学も?)においては、観想(観照)が究極目標なのではなく、行うことが究極目標だと言えるだろう。けれど、かといって、行為論に、観想(観照)が要らない、と言っているわけでもない。

→実践や行為において、問われるのが「思慮」=プロネーシス(phronesis)である。プロネーシスは知性(ソフィア)と対置される。 知性は「ホロス(定義)」にかかわる。

phronesis=「思慮」=アレテーの一つであり、技術ではない。「エスカトン(最終的なもの)」にかかわるもの。英訳では、「practical thinking」, 「practical reason」, 「practical wisdom」等と表記される(アームソン、1998:65)。ちなみに、理論的なwisdomは、sophia=つまり愛知=哲学=理論的知性。(*ただし、アリストテレスは研究者=理論的知性とは考えていない!(はず))

普遍的知識と個別的知識
「プロネーシスは普遍だけを対象にするのではなくて、個別的な事柄をも認識しなければならない。なぜなら、プロネーシスは行為にかかわるものであって、行為は個別的な事柄にかかわるからである」(1141b13)
「プロネーシスは、普遍的知識と個別的知識の両方をそなえていなければならない。あるいはむしろ、個別的知識の方を、いっそうそなえていなければならない。」(1141b23)。
→『形而上学』「経験(エンペイリア)は個々の事柄についての知識であり、技術理論は普遍についてのであるが、プラクシスやポイエーシスはすべてまさに個々特殊の事柄に関すること」(981a18)。 

これと関連して、丸山高志はこう述べている。「ガダマーは、アリストテレスの『思慮(プロネーシス)』やカントの『反省的判断力』を引き合いにだして、行為における普遍と個別との解釈学的循環を的確に看て取っている」(プラクシスの現象学、p.21)。

proairesis=「選択」(徳の一種)=「行為への決断」「意図」。この択の基になっているのがプロネーシス。「選択は明らかに自発的なものであるが、両者は同一ではなく、自発的なものの方が選択よりもその範囲は広い(子どもや動物も自発的だから)」(1111b8)。「選択は『目的のためのものごと」にかかわる」→「たとえばわれわれは健康であることを望むが、われわれが選択するのは健康になるための手だてなのであり、また幸福であることを望」む(1111b28)。「選択とは、『道義(ロゴス)』と『思考(ディアノイア)』を伴う」(1112a18)。

ヘクシス→「選択にかかわる性格の状態(ヘクシス・プロアイレティケー)」

***

「部分的・隷属的の諸技術・諸学科に対して、それらの上位に立つ全体的・支配者的な技術または学問を"archtekonike(棟梁の術、棟梁の学)"と呼び、またこれを王者的・支配者的とも呼んで、アリストテレスはこれを尊重した」(訳者;出隆氏)

アリストテレスは、『形而上学』で、ソフィアは、「すべての人々の考えているところである」、と見なしている(981b30)。つまり、学者=ソフィア、実践者=プロネーシス、技術者=ポイエーシス、というふうに単純に区別しているわけでは決してない。(重要!)。具体的に、彼はこう述べている。「棟梁の方がいっそう多く知恵のある者と考えられるのは、彼が実践的な者であることのゆえにではなくて、かえってかれ自らが原則を把握し原因を認知しているがゆえにである」(981b4)。そして、彼は最も知恵のある者はどんな人間か、そして、どんな知恵をもっている人が最も知恵のある人か、ということを問う。


  

アリストテレスに言わせれば、技術も研究も行為も選択もすべて何らかの「(アガトン・タガトン)」を目指している。(善には三種ある。第一に、外的な善[富・名誉・権力]、第二に、身体的な善[健康・身体美]、第三に、魂的な善[節制・勇気・知恵]である。無論、第三の善が最も優れている、と考えている)。そして、幸福は、行為の「第一原理(アルケー)」である、という(1102a2)。

あらゆる善の中で最高のものは、「幸福であること(エウダイモネイン)」である。→一般の人は、善=幸福(エウダイモニア eudaemonia)を、「快楽」と見なす。(1095b16)。

アリストテレスが問うのは、幸福の中身である。「最も善きものは幸福である、と言明するのは、おそらく一般に意見の一致をみているところであろうが、ここで望まれているのは、さらに幸福が何であるかをより明確に語ることである」(1097b23)。

→「幸福は遊び(○○)のうちには見出されない」(1176b29)。「遊びはいわば骨休めであって、われわれは連続的に労力を傾けることができず、どうしても骨休めを必要とする」(1176b38)。
→とはいいつつ、「楽しい暇つぶし(ディアゴーゲー:高尚な楽しみ)」には価値を置いている(例えばムージケー、エピステーマイ)。「いつでもひとは、この娯楽的な術の発明者の方を、前者のそれ(実生活の必要(アナンカイア))よりも、その認識がなんらかの実際的効用をもねらっていないからという理由で、いっそう多く知恵ある者だと考えた」(981b19)。 

エウダイモニアな生活(=幸福な生活)の種類
①享楽の生活(アポラウスティコス・ビオス bios apolaustikos)→「快楽」が満たされる生活。×
②政治の生活(ポリーティコス・ビオス bios politikos) →「名誉」のある生活/「政治に参加する生活」。○
③観想の生活(テオーレーティコス・ビオス bios theoretikos)  →「哲学」のある生活。◎
*一応、全部、「善」に向かっているので、エウダイモニアな生活と言えるが、①は当然×。 

では、どの生活が最も幸福か。

「最善のものがそれに固有の徳に基づいて行なう活動」 =「最も完全な幸福」であり、その活動こそ、「観想活動」である。「観想活動は、最も優れた活動である」=「行なうよりもいっそう持続的にテオーレインすることができるから」。→「観想はそれ自体で貴重なもの」→「幸福とはある種の観想活動ということになる」(1178b33)。

堀田彰さんの「観照」について。やや言いすぎな感じもしますが、とても美しい言葉です。

「…アリストテレスの観照的生活というのは、このように存在者の真を直観することに熱中する生活のことである。それは、すさまじいまでの科学的精神ということができよう。人格神を信仰し、恍惚の状態で神の栄光をたたえるのとはちがっている。かれの眼にあるものは、存在者をおおいかくしているものをはぎとり、その真を露呈することなのである。宇宙の神秘をきりひらき、その秘密をもぎとることである。そのためにはいっさいのものがそれに奉仕しなければならない。思うに、観照こそ人間の魂の中で最も卓越した(優れた)部分の活動なのであり、また、幸福とはそういう活動にほかならないのであるから」(堀田、1986:166)


われわれが善き人になる、その原因は三つ(の考えがある)。

①自然(ピュシス) 遺伝?本性?←「神的な原因によってそなわっている」
②習慣(エートス) しつけ?←倫理
③教示(ディダケー) 教育 

けれど、人間を善き人にするのは難しい。特に、「情念にしたがって生きるような人」を変えるのは難しい。なぜなら、そういう人は、自分を「向け変える言葉に耳を貸さないであろうし、またそのような言葉を聞いても理解するはずもないだろうから」。「一般に、情念は言葉に服するのではなくて、強制に服するのである」。→「多くの人々は本来、つつしみにではなく、恐怖にしたがい、彼らがもろもろの低劣なことを差し控えるのも、醜さのゆえにではなくて、いろいろと罰せられるからである」(1179b9)。=「事実、多くの人々は言葉よりもむしろ強制に服し、美しいものよりも罰に服するのである」(1180a5)。

ゆえに!!!!

性格というのは、何らかの仕方で、あらかじめ徳にふさわしいものとして人にそなわっていて、美しいものに愛情を抱き、醜いものを厭うようなものになっていなければならない」(1179b30) 

(*とすれば、やはり善き人になるためには、それなりの子育てというか、教育というか、そういう経験というか、何かが必要なんだ、ということになる。美しいものに愛情を抱き、醜いものを厭うようにしておくことが、教育の前提ということになる)

アリストテレス的には、「(善き人になるための営みは)ある種の知性や、あるいは効力のある正しい規律にしたがって生活する人々の間で行なわれることになるだろう」、と。

*ここがポイントで、「効力のある正しい規律」は、他人が作った規律なのか、自己自身で見出した規律なのか。それによってずいぶんと違ってくる。アリストテレス的には、「ある種の思慮(プロネーシス)と知性(ソフィア)に由来する法の言葉」=効力のある正しい規律、ということになるだろう。ゆえに、知性をもち、そして正しい法にしたがって生活する人々の間で、人間は育たなければならない、と。

アリストテレスは子育て・養育について意識していた(1180a24)。

アリストテレスは、「立法者がこれまで養育やさまざまな営みに配慮してきたと言えるのは、ただスパルタの国においてのみ」と言い、それ以外の国では、「子どもたちや妻を支配する掟を定めながら」思い思いに生きている、とみなしていた。

そうしたことから、彼は、二コマコス倫理学の最後で、こう語る。(途中で読めない箇所もある大切な部分)

公共的に正しい配慮が行われることが、そしてそれをなしううることが、最も重要である」(つまり実践すること!)。「しかし、そうした事柄が公共において無視される場合には、それぞれの人が、自分の子どもや友人たちのために、彼らを徳に向かわせるよう貢献することが***、あるいはそれを意図することが、なすべきふさわしいことと考えられよう」(1180a30)。

公共において、ちゃんと母子、あるいは弱者や貧困層の人々、そういう人たちが正しく配慮されていないとすれば、「それぞれの人」が、そういう人たちを徳へと向かわせるように努めなければならないし、それこそがなすべきふさわしいことなんだ、と、そうアリストテレスは説いている。つまりは、われわれ。われわれのそれぞれ。われわれのそれぞれが、子どもや友人(知人・地域)のために、貢献して、意図して、為すこと。それこそが、人を善き人へと導くための条件ということになろうか。(とすれば、知性のある人間にするための前提として、そのための行為(実践)が必要となる、ということになり、フィリアやエピステーメよりも、プラクシスの方が「より先立つもの」として規定することができる(かな?!)、と。


最終的に、アリストテレスは、「理論(知性)」と「実践(行為)」をどう考えていたのか。ニコマコス倫理学の最後の章で、こんなことを書いている。

「一つ一つの個別的な事柄に関して最もよく配慮しうるのは、医者であれ、体育教師であれ、その他どのような専門家であれ、普遍的に知っている人、すなわちすべての人にとって何がよいか、あるいはこれこれの種類の人たちにとって何がよいかについて知っている人であろう」。

おそらく、専門の技術者や研究者になりたいと望む者は、普遍へと向かい、それを可能なかぎり認識しなければならないと考えられよう。というのも、われわれが述べたように、もろもろの知識は普遍にかかわっているからである」(1180b20)。

教師にせよ、医師にせよ、ラーメン店主にせよ、専門の人間になりたいと望むものは、おのずと普遍へと向かう。個々の専門領域でのもろもろの知識は普遍にかかわっている。ここに、理論と実践の循環関係がある。それが、ガダマーの「解釈学的循環」なのだろう。とすれば、今回の僕の本の趣旨と合致する。(安堵) 

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