Dr.keiの研究室2-Contemplation of the B.L.U.E-

■コンセプト論■

 

何事においても、コンセプト(concept)があるか、ないかはかなり重要だ。

コンセプトは普通、「構想」と訳されるが、ピンとこない。

辞書に書いてあるような言葉、
例えば、「概念」、「観念」、「考え」だともっと分からない。 

また、コンセプトは、「イメージ」、「カラー」と言い換えることもできる。
「あのお店のカラーは、センスあるよね」というように、
カラーという名で、コンセプトを語ることは度々ある。

コンセプトは、ある対象の「全体的統一」、
いやその統一を支えるものと考えた方がいいかもしれない。

例えば、バンドコンセプト。
コンセプトのないバンドは、どこかちぐはぐな感じがする。
多様性はあるが、バラバラな印象を受けやすい。
逆に、コンセプトのあるバンドは、まとまりを感じさせ、
単一性は否めないが、イメージしやすい。

単語的には、例えば、concept album。
これは、ロックの音楽用語で、そのままコンセプトアルバムと呼ばれる。

また、例えば、concept carだと、
「会社の基本理念や自動車の新形式を示すための試作車」となる。

これらの例からして、分かるのは、
コンセプトは、なんらかの基本理念やなんらかの形式を表す、
ということである。

コンセプトのないバンドというのは、理念のないバンドということになるし、
コンセプトのない学校というのは、理念のない学校ということになる。
また、コンセプトのないお店というのは、理念のないお店ということになる。

コンセプトなんてなくてもいいじゃんか、と思う自分もいるが、
理念のないバンド、学校、お店は好きかと聞かれると、
やっぱり、「ふ~む」となってしまう。

もっと言えば、国家にもコンセプトはある。
(日本にコンセプトがあるかどうかは別だが、
「民主主義」というのもやはりコンセプトだろう)
もちろん政党にもコンセプトがあって然るべきだし、
利益団体だってコンセプトはあって当然。

色々考えてみると、やはりコンセプトは大事かな、と。

ただし、すべてにおいてコンセプトが大事なわけじゃない。
家族にはコンセプトはいらないし、
恋愛関係においてもコンセプトはいらない。
夫婦のコンセプトなんていうのも変な感じがする。
(ただ、地域となるとコンセプトが必要となるかな)

つまり、異なる他者集団が一つの場に集う場合、
コンセプトが重要となるのだ。
(家族や男女にもコンセプトがまるっきりないわけじゃない)

そのコンセプトがあるかどうかも重要だが、
そもそもそのコンセプト自体をどうやって作るかも重要だ。

コンセプトは、原則的に、その集団の内部で、
議論によって、討議によって、じっくりと仕上げられなければならない。
当然、そこには「みんなの同意」が必要なわけで、
一人の人間の「ごり押し」で決定されるわけではない。

みんながそのコンセプトに同意する、
ということが、コンセプトの決定においては最大に重要である。
当然、みんながそのコンセプトを正しく理解する必要がある。

コンセプトは、議論、同意、理解を必要とするものなのである。

こうした手続きを経た集団は、目標や方向性という点で、
ぶれることなく、活動/実践をすることができるようになる。
当然細かいぶれはあるだろうが、根本的に迷うことはなくなる。

人間は、コンセプトの下で、一つになることができる。
それは、理念であり、目標であり、目的であり、
(逆説的だが)終着点であり、出発点でもある。
(ドイツ語のAusgangは終着点であり出発点でもある!)

学校を論じる場合にも、やはりコンセプトは極めて重要である。
「特色ある学校づくり」や「地域に根ざした学校づくり」を果たすためにも、
やはりコンセプトが必要となる。

もちろん、そのコンセプトは学校長をはじめ、
各教員、父母、子ども、地域住民etc...
すべての人間の議論、すべての人間の同意、すべての人間の理解を経て、
その学校で通用するようになる。

学校をより魅力的なものにするためには、
このコンセプトづくりが必要不可欠ではないか、と僕は思う。
国から与えられる「指標(学習指導要領)」は、あくまでも基準だ。
それを元に、どんな学校にしていくのか、どんな学校にしたいのか、
どんな目的に向かって学校を運営していくのか、していきたいか、
といったコンセプトを明確にすることで、「その学校」となる。

子ども一人ひとりを大切にする、ということは尊いことだが、
まずは、学校が「その学校」にならなければならない。
学校それ自体が「顔」をもち、「表情」をもち、「理念」をもたなければならない。

コンセプトのないバンドがちぐはぐなように、
コンセプトのない学校はちぐはぐになってしまう。
当然学校がちぐはぐならば、教員もちぐはぐになってしまう。
一つの理念のもとで、協力することも、団結することもできない。
(当然、各学校にそれぞれの理念があってよいし、
そのコンセプトが部分的にそのつど更新されてもよい)

カリキュラム論や教育課程論は、
学校のコンセプト論に変わっていくべきではないか?
デザイン論として考える論者もいるけど、
僕の中では、コンセプト論の方がすっきりとするし、
より視点が明確になるのではないか、と思う。

PS1 V系編

僕が大好きなD'ERLANGERはまさにコンセプトバンドだった。
20年越しのオリジナルバンドだが、コンセプトが明確だったゆえに、
劇的な復活を果たすことができた。

また、Dir en greyは、結成当初はなんだかよくわからないV系バンドだったが、
2000年以降、徐々にコンセプトが出来上がり、不動の地位を得た。

逆に、LUNA SEAは、結成当初のコンセプトが後に揺らぎ出し、
みんなの足並みがそろわなくなり、解散となった。
(が、根本的にLUNA SEAにはコンセプトがあるので、復活も可能)

Zi:killの場合も、LUNA SEA同様、最初の頃はコンセプトがあった。
文字通り「ポジティブメタル」は彼らのコンセプトだった。
が、その後、メンバーの間の同意が揺らぎ、
音楽の方向性や世界観にバラつきがみられるようになった。
(マリスミゼルや、SHAZNAや、かまいたちも似た感じかな)

X JAPANには、YOSHIKIという人間それ自体の強烈な個性があり、
全体的には、コンセプトがあるようで、ちぐはぐ感が否めない。
メンバー間における議論、同意、理解がどれほどなのか、実に興味深い。
一人の人間の個性がコンセプトになり得ないことの難しさを示しているような…

「売れ線」をコンセプトにしているバンドも多くいる。
それはそれでコンセプトとなるかもしれないが、
バンドの理念が売れることというバンドに本当のファンがつくかどうか・・・

PS2 ラーメン編

最もコンセプトが明確なのが、例えば「中本」だろう。
とにかく辛いラーメンを作る、ということに微塵のぶれもない。
ゆえに、一定のファンが常にいて、常に愛されている。

六厘舎やとみ田なども、非常にコンセプトが明快である。
とにかく濃厚でヘビーなラーメンを作る、という理念がしっかりある。
(千葉の梨の花も、どヘビー級の重たいラーメンというコンセプトをもつ)

二郎系ラーメン関連のお店も非常にコンセプトが明快である。
量とボリュームと安さとインパクト。視覚的な分かりやすさもポイントだ。

ラーメンの鬼の佐野さんやその周囲の店主のお店も明快だ。
シンプルで奥が深く、素材にこだわり、ベーシックな味を追求する。
店主もぶれることがないし、お客さんもそのコンセプトを共有している。

まんぼぉのラーメンは、逆に「多様性」がコンセプトとなっている。
まんぼぉの限定ラーメンは毎月とんでもなくハイレベルだ。
料理の基本があって、さらに味の多様性を考慮して、
毎月、とんでもないハイレベルの限定麺を提供している。

逆に、時代に合わせてコロコロ味を変えるお店もある。
そういうお店は、一時的には流行るかもしれないが、
長い目で見たら、どうなのだろうか?

また、いわゆるインスパイア系と言われているお店は、
コンセプトそのものが「パクリ」である。
がゆえに、そのお店のアイデンティティにはならない。
きっと元の味が廃れれば、すぐにその味を手放すことだろう。

「儲かるお店」がコンセプトのラーメン店も多くある。
それなりに成功しているお店(チェーン)も結構ある。
ラーメンの場合、それはそれでありなのかもしれない・・・
とにかく味はともかく、安くてファミリー向けというのはコンセプトになり得るし、
とにかく時代に迎合して、流行る味をそのつど出す、というのも・・・(汗)

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