先日秋田県の事業場へ行った際、地元の先輩に大潟村の「菜の花ロード」に連れて行っていただきました。村内の県道沿い11キロに渡って菜の花が続いているのですが、道が直線であることもあって遥か先までの黄色い帯は見応えがありました。合わせて桜並木も続いており、来春、両方が満開の時に再訪してみたいものです。
第14回 東北38年戦争1(岩手町 今松遺跡)
1ヶ月半ぶりに「私的岩手通史の旅」を再開します。自分でも以前どこまでご覧いただいていたか失念しておりました(恥)。気持ちも新たに史跡を彷徨していきますが、その前にこの頃(7~8世紀)の日本(ヤマト政権)の状況に目を向けておきます。
「蒸し米で祝う大化の改新」と暗記した7世紀半ばの「大化の改新(645年)」の後、ヤマト政権は朝鮮半島での覇権争い「白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)」を経て、701(大宝元)年に「大宝律令(律令=刑法や行政組織、人民の租税労役等)」を制定、710年に平城京遷都を行い「律令国家」としての体制を整えるに至りました。
一方でこの時代は、政権の勢力範囲をそれまでの南東北から北東北へ伸ばし始めた時代でもあり、年表を見ると「658(斉明4)年、阿部比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷を討つ」と書いてあります。そして8世紀に入ると、ヤマト政権は北東北の征服にやっきとなるのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/a7/c821065fb0c00e002dbf57d4d66cd85d.jpg)
(奈良時代の集落遺跡「今松遺跡」-岩手町一方井 2008/05/24-)
かようにヤマト政権の手が伸びてくる北東北でしたが、一般庶民の多くはご覧いただいた「今松遺跡」のような竪穴住居に住んでいたようです。それはそうですね、日本中が天平文化に染まっていたわけではないのですから。
(前回までの私的岩手通史の旅はコチラでございます。)
(今松遺跡の場所はコチラでございます)
1年前の一品・・・お休みでした
2年前の一品・・・「262)アントラーズを観に行こう!」
その他の品々・・・コチラでございます
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「蒸し米で祝う大化の改新」と暗記した7世紀半ばの「大化の改新(645年)」の後、ヤマト政権は朝鮮半島での覇権争い「白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)」を経て、701(大宝元)年に「大宝律令(律令=刑法や行政組織、人民の租税労役等)」を制定、710年に平城京遷都を行い「律令国家」としての体制を整えるに至りました。
一方でこの時代は、政権の勢力範囲をそれまでの南東北から北東北へ伸ばし始めた時代でもあり、年表を見ると「658(斉明4)年、阿部比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷を討つ」と書いてあります。そして8世紀に入ると、ヤマト政権は北東北の征服にやっきとなるのです。
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(奈良時代の集落遺跡「今松遺跡」-岩手町一方井 2008/05/24-)
かようにヤマト政権の手が伸びてくる北東北でしたが、一般庶民の多くはご覧いただいた「今松遺跡」のような竪穴住居に住んでいたようです。それはそうですね、日本中が天平文化に染まっていたわけではないのですから。
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