アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「安倍首相は南京へ」という声がなぜ起こらないのか

2016年09月05日 | 侵略戦争・植民地支配の加害責任

    

 G7(伊勢志摩サミット)の際にオバマ大統領が広島を訪れた(5月27日)ことは、原爆投下国の大統領の初の訪広として、日米政府と両国メディアがこぞって「歴史的」と賛美しました。

 その中で、中国の王毅外相はこうコメントしていました。
 「(オバマ氏の広島訪問について)関心を払うに値するが、それ以上に南京事件ーママ)を忘れてはならない。加害者は永遠にその責任から逃れることはできない」(5月28日付朝日新聞)

 そのころすでに9月にはG20が中国・杭州で行われることが決まっており、オバマ大統領が広島へ行ったのなら、安倍首相は南京へ行くのだろうか、などととりざたされました。実際に、中国の南京大虐殺紀念館からは安倍首相の来館要求も出ていました。

 それから3カ月余。実際にG20が始まり、今日(5日)で終了しようとしていますが、安倍首相の「南京訪問」はまったく話のタネにもなっていません(ちなみに、杭州と南京は目と鼻の先です)。
 これはいったいどういうことでしょうか。

 安倍氏以下歴史修正主義者がそろっている安倍政権でも、「旧日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害、略奪行為があったことは否定できない」(菅官房長官、2014年2月11日付朝日新聞)、「(南京虐殺は否定しないかとの問いに)ええ。捕虜の多数殺害はありました」(稲田朋美氏、青木理著『日本会議の正体』の中のインタビュー)など、日本帝国軍隊による「南京大虐殺」(写真右)の事実は否定できません。

 そうであるなら、オバマ氏の「広島訪問」を「歴史的和解」と賛美する以上、安倍氏の「南京訪問」が俎上にのぼってしかるべきではないでしょうか。
 もちろん、安倍氏が進んで「南京」へ行こうとしないことは明らかです。「広島」の多くがオバマ氏に「謝罪」を求めなかったのと違い、「南京」(中国市民)はけっして日本の責任を棚上げすることはしないでしょう。

 問題は、あれほど「オバマ訪問」を持ち上げた日本のメディア、そしてオバマ氏と握手し抱き合って感激の涙を流した「被爆者代表」・被爆者団体の中から、「安倍首相は南京へ行くべきだ」という声がまったく出ていないことです。

 これは、日本が「被害者」の「被爆」については強い関心を示すが、「加害者」の南京大虐殺・侵略戦争には顔をそむけるという態度にほかなりません。

 しかも、広島・長崎の「被爆」が単純に「被害者」だと言えないことも銘記しなければなりません。
 
 オバマ氏に「謝罪」を求めなかったことを日本のメディアがこぞって賛美したのに対し、南ドイツ新聞は論説でこう問題提起したといいます(柿木伸之広島市立大准教授、9月1日付中国新聞)
 「原爆投下という戦争犯罪に対する大統領の謝罪を恐れていたのは、米国の側よりも、むしろ被爆に至る侵略戦争の歴史に向き合おうとしない日本の現政権の側ではないか

 「原爆被害を招いた直接の責任は米国国家にあるとしても、戦争を開始し、遂行し、終戦を引き延ばした責任は、日本国家、端的にいえば大日本帝国の統帥権を持つ国家元首であった天皇裕仁にある。つまり、原爆被害に対する責任を追及していくと、日本の戦争責任を問わざるをえなくなるのだ。そこに植民地支配責任も含まれる」(直野章子九州大准教授、「現代思想」8月号)

 「オバマ訪広」で原爆投下の「謝罪」を求めず責任を追及しなかったことと、安倍首相に「南京へ行け」という声がまったく出ていないことは、実は1つの病巣から出ていることだと言えるでしょう。天皇制帝国日本の戦争責任・加害責任から目をそらし正面から向き合おうとせず、逃げ続けようとする、71年間の宿痾です。


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