まずリンク。タイトルであらわされる内容と、その背景になるようなものを「ぼくのお姉さん」という書籍の文章を例示して記述されている文章。そして「しょうがい」に対しての表記に何を選ぶかという話。
わたしは「しょうがい」を「障害」と表記する。つまりngmkzさんの言われる『「他者」につきまとういろんな意味としての「障害」を漂白』に関して、言葉に対しての感覚が違うのだと思う。多分にこれは、わたしが「障碍」という言葉と初めて出会ったときの印象が左右されているように思う。
わたしが初めて「障碍」という表記に出会ったのは、ある団体の広報チラシで。それにあった「わたしたちは障碍という表記を使う」という意志表明は、わたしにとっては「害」を使うことに対しての否定的要素が強く感じるものだったという印象がある。つまり文字表記をもって、障害をどうとらえるかという踏み絵にされているような感覚とでも言えばいいのか、とも思う。その印象が、逆にわたしが『「他者」につきまとういろんな意味としての「障害」を漂白』として使えないところかもしれないと思う。
さて、過去ログ。
ぼくは「他者」につきまとういろんな意味としての「障害」を漂白してから、ぼくは初めてそこで他者に出会いたいんだ。/かへる日記 (FRGFRG304)そうなんですよね、この「ぼくのお姉さん」という書籍は自分の中にあるものをドキリとえぐってくる要素がつまっている。このドキリとさせられるものに関して、ngmkzさんはタイトルにあらわれる考えを出される。これはとても興味深いところだなあと思った。
例えば、この本の「ワシントンポスト・マーチ」の障碍者の描写は小学生対象のことはいえ、正確でぼくはドキリとさせられました。
わたしは「しょうがい」を「障害」と表記する。つまりngmkzさんの言われる『「他者」につきまとういろんな意味としての「障害」を漂白』に関して、言葉に対しての感覚が違うのだと思う。多分にこれは、わたしが「障碍」という言葉と初めて出会ったときの印象が左右されているように思う。
わたしが初めて「障碍」という表記に出会ったのは、ある団体の広報チラシで。それにあった「わたしたちは障碍という表記を使う」という意志表明は、わたしにとっては「害」を使うことに対しての否定的要素が強く感じるものだったという印象がある。つまり文字表記をもって、障害をどうとらえるかという踏み絵にされているような感覚とでも言えばいいのか、とも思う。その印象が、逆にわたしが『「他者」につきまとういろんな意味としての「障害」を漂白』として使えないところかもしれないと思う。
さて、過去ログ。
・障害・障碍・しょうがい (gooで)ここから約一年が経過しているわけで。この一年でも、そしてわたしが初めて「障碍」という表記とその意志表明のようなものに出会ってから10年ちょっとの間でも、少しずつ「障碍」と表記される方は増えたようにも思う。それはそれぞれの意志表明なのだろうと思うし、その意志表明の中身こそが重要なのだとも思う。「障碍」という言葉と初めて出会ったときにわたしが感じた「押しつけ的感覚」がやわらぐ時が来たら、わたしも表記を変えるのかもしれない。
・障害・障碍・しょうがい (はてなで)
ちなみに来年度というか4月から、ぼくの所属する法人は「障がい」という表記に統一します。
そもそも「がい」っていう濁音もこれを指す言葉に、いらないところに力を入れてしまうような響きだなと個人的には感じています。
「障カ°い」とかだと、ふざけすぎ(だと思われる)かなぁ。。。
『ぼくのお姉さん』は、また機会があればエントリしたいと思っています。
普通20年も経てば、社会も変わって物語そのものを支えているものが時代とズレていたりするものだと思うんですが、この話は逆に怖いくらいずれていないですよね。。。
そして、何より表題作に涙してしまったぁ!
はてなの方にトラックバック入ってるヤツが、リンクで飛べなくなっているのが非常に残念で。
ここ、障害児教育に携わる方のブログだったのですが、諸事情あって公開できなくなりまして。
全国の自治体の「しょうがい」についての表記のリストを作成して、アップされたんですよね。
このgooの過去ログは、個人ニュースサイトがリンクでもっていきまして。
ipで1000以上のアクセスがあった、確か。
それで発生したトラックバックを受信しないリンクもちょこちょこあったんだけど、ちゃんと記録残しておくべきだなあ、と思いましたよ、ちゃんとしよ。
表題作はねえ。
こういうとこにもってくるのがダウン症、って感はあるんですよね。泣けるけど。
しかしアレで始まって、ワシントンで終えるって構成は見事だと思います。
パニック障害の「障害」は「ディスオーダー」で気分障害の「障害」も「ディスオーダー」なんだよなあと思って。
http://www.netlaputa.ne.jp/~eonw/sign/sign_b3.html
少し古い文章のようなんですが、この文章の前半部分を読んで、日本語の「障害」には色々な意味が含まれ過ぎていて、それが混乱をきたしているような面もあるのかなと思うようにもなりました。障害物競走の「障害」は「trouble」の意味なのかしらと考えたり。
私は「精神障害者」という言葉に抵抗を持ったと以前、書きましたが、最近は「精神障害がある」ならいいかな、という感じです。もともと精神障害は疾患と深い関係性があると思うのですが、最近自分が持ってしまったものを思い知らされたというか、そういうことを強く感じることがあって、家族の間では「私、昨日、頭がイカれちゃってごめんなさい」なんて言葉を使うときもあります。開き直るなと思う人もいるかもしれませんが、努力で何とかなるときと、そうでないときがあるんだと、とても悲しくなるときもあるんですが、そう思います。
私は障害でも障碍でもしょうがいでもいいです。でも自分で決められるんだったら障害にします。もっと良い言葉があれば、それに変わっていってもいいです。何て言えばいいのか、あからさまに存在を否定されなければそれでよいです。
「障害」に関しては、「1980年の国際障害分類」と「2001年の新しい障害分類」ってのがありまして。
インペアメント(機能・形態障害)、ディスアビリティ(能力障害)、ハンディキャップ(社会的不利)の、3つのレベルで障害を見るというのが「1980年の国際障害分類」。
「2001年の新しい障害分類」では、障害を「機能障害」「活動の制限」「参加の制約」というレベルで見ることになっています。
精神疾患で出てくる病名としての障害は、その疾患名であって、その疾患によって起きる「障害」が、一般的な「障害」である、ってことになるんじゃないかと思います。
まあこの辺、個々が「障害」という言葉にイメージされるものがからんできて、難しいとこもあるんだろうなと。
>努力で何とかなるときと、そうでないときがあるんだと、
これが「障害」ってヤツですよね。
うちの娘は努力で、というか教育で、なんとか平仮名は読めて書けていますけど、漢字は努力の限界の域。
その辺の境界が見えにくい精神障害は、理解されることが難しいことがあるんだろうな、と思います。
>何て言えばいいのか、あからさまに存在を否定されなければそれでよいです。
ののかさんのこの言葉は、本音だと思いました。いろいろな意味で「表記」問題は取り上げられていますが、本質が変わらなければなんの意味もないですよね。当事者にとっては、まさにののかさんの言う通りかなと思いました。しかも精神障害というものも、常に全ての人間にとって紙一重の問題ですし。この記事を読んで表記よりも意識の問題のほうが大きいし根深いのだなと思いました。
この部分に関してですが、誰もが誰に対しても「存在を否定してよい」
権利というのはないのだと思います。
一番、存在を否定しているのは自分自身なのだと思います。
障害の受容の過程というのは人それぞれで、私はまだその途中にいるのだと思います。
表記の問題は私も大切にしたいです。ただ私は最初に「障害」という言葉に抵抗感を感じなかったので、そのまま使っているという感じです。正直、まだいろんなところに考えが及ばない。そういう位置にいるのだと思います。
言葉の持つイメージの話になってしまうんですが私の病名は「器質性気分障害」ですが、この表記は嫌いじゃありません。病名に好きも嫌いもないと思うのですが。
病名にまとわりつくイメージがあまりなくて、無機質な感じがするからです。
診断書を見るときくらいしか、この病名を意識するときはないです。
そして、みかさんを巻き込む形にもなってしまったのかなと思います。
申し訳ありません。
そして「2001年の新しい障害分類」のこと、私は知りませんでした。教えてくださってありがとうございます。
「否定されなければ」ってのがあるのと同様に、「文字表記を踏み絵に使われたくない」ってこともあるわけです。
そのあたりがからんでくるんでしょう。
ちなみにわたしは障害児・障害者という表記も使いますが、基本は「障害をもつ子ども」「障害をもつ人」という表現をよく使います。
これはピープルファーストの流れに沿ったものです。
『「ピープル・ファースト」の考えから、いわゆる「障害者」は、persons with disabilities(障害を持つ人々)という表現が非常に多く用いられ、アメリカではこれが Politically correct(差別的ではなく、公正なこと)とされ、「健常者」は persons without disabilities(障害を持たない人々)と表現される。people ではなく persons を用いるのは、一人ひとりの存在を尊重する考えから出ている。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85
この考えを知ったのは書籍だったか、ちと失念。
全日本手をつなぐ育成会の資料だったか、障害に関わる書籍だったか、障害者福祉の書籍だったか、すでにわからなくなっています。
わからなくなっているくらい、かなり前から、えっと10年くらい前から自分には定着です。
>努力で何とかなるときと、そうでないときがあるんだと、とても悲しくなるときがある
>これが「障害」ってヤツですよね。
この二つの文章での気持ちの大きな隔たりというものを感じてしまいます。そこから出る言葉が
「あからさまに存在を否定されなければいいです」なのでしょうか。
私は表記問題よりも精神障害というものが身近であるということへの認識を高めることの方がこの記事とコメントを読んでいて大切ことなのかなと感じました。ということを書いたつもりでした。
表記の問題はさまざまな理由があると思いますが、この記事とコメントを読んでいて当事者がおいていかれているような印象が否めませんでした。
わたしの、怠慢ですね。
実はですね、ののかさんとわたしとのつき合いってヤツがありまして。
web上で、メールで、そして電話という媒体も使って、2年弱くらいかなあ、彼女と積み重ねてきた会話というのがありまして。
その辺で、わたしは言葉を省いた、と。
「あからさまに存在を否定されなければいいです」という言葉を、わたしは彼女がこれまで歩いてきた中で聞いた数々の言葉の線の中にある、という聞き方をしたわけです。
確かに、この表記のエントリのコメントとしては、ここにふれないで、ということはおかしいですよね。
ただ、わたしは彼女に対して「あからさまに存在を否定した」ことがないので、答えようがないんですよ。
それは関係性ということで、文字表記がどうのということではないと思いますし、それ以上は言葉で言うのは難しいです、ごめんなさい。