随想記Ⅲ

思いつくまま、気の向くままの不定期発信

思い出のバイク JADE

2004年12月29日 | バイク
後に、バブル崩壊の年と言われた1991年の春、セローを手放し「ホンダ JADE」に乗り替えた。
買った店は、以後ずっと付き合うことになる赤穂の「てんとうむし」というバイク屋だ。

JADEは、当時「ネイキッド」と称して人気が回復し始めた普通のスポーツバイクの中にあって、250クラスでは一番落ち着いた(と見える)バイクだった。

水冷4気筒、カムギアトレーンDOHCとCBR譲りの高回転エンジンは、軽い吹き上がりであっという間に1万数千rpmまで回るし、アイドリングに近い低速でも4気筒らしくスムーズに回った。反面、一般道での流す走りでも5~7千rpm回っており、忙しなく感じた。また、発進で油断するとすぐエンストした。低速トルクが無いのではなく、フライホールが軽いのだろう。
車体はちょうど良いサイズで、街乗りからロングツーリングまで何処に行くにも過不足は無かった。

JADEでは遠くへツーリングに行った。四国、九州、そして北海道へも行った。


             北海道ツーリング

この頃に揃えたバイクウェア類は良いものが多く、十数年たった今でも使っているものがある。春秋用グローブ、ショートブーツ、冬用ジャケットなどだ。さすがにくたびれてきており買い替えの時期だが、通勤程度にはまだまだ使える。

ツーリングに行く機会が増えると、JADEというより250ccの不満が出てきた。
パワーは充分でも、常に高回転で回っているエンジンは体感的に疲れる。
軽量な車体は取り回しは良いが、長距離高速走行では疲れやすい。
なにより、三十路男が乗る唯一のバイクとしては少々見劣りがする。(大きい方が良いというミエがあった)

JADEに乗って僅か3年、より大きなバイクに乗り替える事を決めた。
1994年春の時点では、ヨーロッパでの評価が高かった「ヤマハ ディバージョン600」が第一候補であった。が、実際に買ったのはまったく別のバイクであった。

思い出のバイク セロー225

2004年12月19日 | バイク
1986年の初夏のある休日、行きつけの喫茶店で「BE-PAL」を読んでいると1台のバイクの記事があった。
「ヤマハ セロー225」だ。

バイクを離れて10年以上たち、その当時のバイク事情は殆ど知らなかったが225ccという排気量が珍しいことは分かった。
記事の内容は覚えていないが、コンパクトで足着き性の良い車体で自然に深く入って行け、燃費が良い、といった事が書かれていたように思う。
このバイクが少し気になりバイク雑誌を見るが、そうそうセローの記事が出ているはずがない。ただ、バイクの高性能化が著しく、オンもオフも流行は「レーサーレプリカ」であることを知った。

本屋でバイク雑誌を見ていると「アウトライダー」という雑誌を見つけた。
ツーリングをメイン記事とし、美しい風景写真を多用したこの雑誌と、その取材車として自然の中に入っていくセローは魅力的だった。

7月の終り、姫路のレッドバロンでセローの特価販売があり、即オーダーした。
ヘルメットやグローブなどを揃え待つこと1ヶ月、8月の終りに白地に赤のセローが納車された。
10年以上乗ってなくて果たしてまともに乗れるかと心配したが、トルクフルなエンジンと軽いクラッチに助けられすんなりと発進。スリムで軽い車体と、165cmの私でも両足が着く足着き性の良さで、市街地走行を無難にクリアー。扱いやすいバイクで、1時間ほどで馴染んでいた。

高い視点と、空気を直に体に感じるバイクでの走行は、久しぶりという以上に新鮮であった。
コンパクトな車体は長距離では疲れやすいが、トルクフルなエンジンと組み合わされると、予想以上に良く走った。

セローを得て、林道や川原へ入ったりした。それはあたかも昔、CL90で遊んだころのくり返しのようであった。
さらに、信州へのロングツーリングにも行った。
ただ、そうしてオフロードを走ることが、楽しいから走っているのか、セローに乗っているからオフロードを走るのか、自分で疑問を持ち始めた。

セローを購入した次の年の終り、私は病気となり1年ほど入退院を繰り返した。その入院中に思ったのは、「オフロードを走りたい」ではなく「バイクに乗りたい」という事であった。

退院後もしばらくおとなしい生活を送ったため、セローに乗る機会は少なくなった。
しかし、手放すこともせず結局1991年までの5年間、私のもとにセローはあった。

グリップヒータ

2004年12月12日 | スカイウェイブ
先週、スカイウェイブにグリップヒータを取り付けた。
スズキの純正品でかなり高かったが、なかなか良いものだ。



温度を最高にすると、春秋用のグローブでは少し熱いほどになる。冬場でも昼間なら、春秋用+アンダーグローブで運転出来そうである。
さすがに早朝や日が落ちると、手の平は温かくても甲や指先は冷たくなるので冬用のグローブが必要だ。ただ、冬用だとせっかくの暖かさが伝わりにくくなるのが難点。
どこかにグリップヒータを前提とした、手の平が薄い冬用グローブを売っていないだろうか。

思い出のバイク ドリームCB250セニア

2004年12月11日 | バイク
高校2年の夏休みが終る頃、CL90で一緒に遊んでいた友人が、中古の「ヤマハDX250」に乗り換えた。もう一人の友人は新車で「ヤマハトレールAT125」だ。さらに中学からの友人が新車で「ホンダドリームCB350セニア」を購入した。
これで、1万円で買った中古の90で我慢しろ、というのは16歳の高校生には無理。
近所のバイク屋に、中古の青い「ホンダドリームCB250セニア」があった。それを目にした私は、「90ではみんなについていけない」と親に泣きついた。
親は「バイク欲しさに悪いことをされては困る」とでも思ったのか、私にそのバイクを買い与えた。いつの時代も変わらない、馬鹿な親子の関係である。

ホンダドリームCB250セニア
OHC4ストローク並列2気筒エンジン、リターン式5速ミッション、フロント油圧ディスクブレーキ、他にもキルスイッチ、セルフスターターなど、基本的には現在のバイクと変わらない装備を持ったロードスポーツ。車体色も青や赤のメタリックでカラフル。

CB250に初めて乗ったときの感動は忘れてしまったが、4スト2気筒の鼓動感と、1速、2速では簡単に(当時としては高回転な)1万rpmを超える吹き上がりを覚えている。
また、水に濡れると途端に効きが悪くなるディスクブレーキの恐怖も覚えている。

このバイクに乗りかえて、私のツーリングエリアは一気に広がった。
それまでは精々、日帰り200km程度だったが、300km以上走るようになった。
岡山県を出て、尾道や鳥取砂丘、鳴門へと走った。
3年になる春休みにCB350の友人と、2泊3日の山口~山陰ツーリング。
そして、夏休みには7泊9日の九州一週ソロツーリングを行った。


            九州ツーリング

このように高校生活を謳歌したバイクだが、18歳になって車の免許を取る頃にはただの足になっていった。そして高校を卒業し、就職で尼崎に行くことになった時、数万円の現金と交換に手放した。

今思えばたった1年半、高校生にとっては長い付き合いであった。

これ以降、バイクとの付き合いはしばらく遠ざかる。

思い出のバイク ベンリィCL90

2004年12月04日 | バイク
本格的にバイクとつき合ったのは、当然ながら自分で乗れるようになってからだ。

高校に入り、16歳になってすぐに自動二輪の免許を取りに行った。
私が通っていた高校は、二輪の免許を取ることが制限されていなかったので男子主体の生徒は殆ど皆、二輪免許を取った。当時の免許は125cc未満の小型限定とそれ以上の2段階であり、無免許で練習できる環境が無かった私は教習所に通い、大型二輪の免許を取った。1973年1月のことである。

免許を取れば当然乗りたくなる、で色々物色した挙句、同級生の家に放置されていたバイクを1万円で譲り受けた。(名義変更や保険は別に必要だったけど)
初めて自分のものになったバイクは「ホンダ ベンリィCL90」と言う名の、スポーツ寄りの実用?バイクであった。
エンジンはスーパーカブ系列(と思う)の前傾した4ストローク単気筒で、4速ロータリー式ミッションが組み合わされ、プレス鋼板製のフレームに積まれていた。(ベースが実用バイク)
スタイルは当時「スクランブラー」と呼ばれた、オンとオフの中間ジャンルのバイクに似せて作られていた。(これがスポーツ寄り)

このバイクは小型だったので初心者でも取り回しやすく、また安い中古車だったため遊ぶにはちょうど良かった。同じようなバイクに乗っていた友人と河原や山に入り、モトクロスやトライアルの真似事をして、バイクを操ることを覚えていった。
少々転倒しても丈夫な車体は壊れないし、タフなエンジンは真夏の1速連続走行でも、音を上げなかった。

初心者にはちょうど良いバイクだったが、友人達が次々とより大きなバイクに乗り換えていくにつれ、自分のバイクがみすぼらしく見えていった。

結局、CL90との付合いは半年ほどで終わった。