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三國志蜀書五諸葛亮傳4

2017年02月13日 | Weblog
228六年春,揚.聲[由斜穀道取.眉],使[趙雲・鄧芝]為.疑軍,據.箕谷,魏大將軍[曹真]舉.眾/拒之。亮身率.諸軍/攻.祁山,戎陳整齊,賞罰肅而/號令明,南安・天水・永安三郡叛.魏/應.[亮],關中響震。
魏明帝西鎮.長安,命[張郃]拒.[亮],[亮]使[馬謖]督.諸軍在前,與[郃]戰.於街亭。[謖]違.亮節度,舉動失宜,大為[張郃]所破。[亮]拔.西縣千餘家,還.於漢中,戮.[謖]以謝.眾。
上疏曰:「臣以弱才,叨竊非據,親秉旄鉞/以厲.三軍,不能.訓章明法,臨.事而/懼,至有街亭 違命之闕,箕谷 不戒之失,咎皆在.臣授任無方。臣明不知人,恤事多闇,《春秋》責帥,臣職是當。請.自貶三等,以督.厥咎。」於是以[亮]為.右將軍,行.丞相事,所總統如前。
*諸葛亮は趙雲をおとりに使って、郿を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。この動きに南安・天水・永安の3郡(現在の甘粛省)は蜀に寝返った。
魏はこの動きに対して張郃を派遣した。諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、馬謖を任命したが、馬謖は敗北した。街亭を失ったことで蜀軍は進軍の拠点を失い、全軍撤退を余儀なくされた(街亭の戦い)。撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。
撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」)、自らも位を3階級下げて右将軍になったが、引き続き丞相の職務を執行した。


冬,[亮]復出散關,圍.陳倉,[曹真]拒之,[亮]糧盡而還。魏將軍[王雙]率.騎/追.亮,亮與戰,破之,斬.[雙]。

229七年,[亮]遣[陳式]攻.武都・陰平。魏雍州剌史[郭淮]率眾/欲擊.[式],[亮]自出/至.建威,[淮]退還,遂平.二郡。
詔策.亮曰:「街亭之役,咎由.馬謖,而君引愆,深自貶抑,重違君意,聽順所守。前年耀師,馘斬.[王雙]﹔今歲爰征,[郭淮]遁走﹔降集.氐・羌,興復.二郡,威鎮凶暴,功勳顯然。方今天下騷擾,元惡未梟,君受.大任,幹國之重,而久自挹損,非所以光揚洪烈矣。今復.君丞相,君其勿.辭。」
*陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていたことにより、陥落できないまま食糧不足となり撤退した。撤退時に追撃してきた魏将王双を討ち取った(陳倉の戦い)。
翌229年、陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。魏将郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰した。


231九年,[亮]復出.祁山,以木牛運,糧盡退軍,與魏將[張郃]交戰,射殺.[郃]。
*(第4次の北伐)魏の祁山を包囲したが、食糧輸送が途絶えたため撤退した。撤退時に追撃してきた魏の張郃を伏兵を用いて射殺した。


234十二年春,[亮]悉大眾由斜谷出,以流馬運,據.武功五丈原,與[司馬宣王]對.於渭南。[亮]每患.糧不繼,使己志不申,是以分.兵/屯田,為.久駐之基。耕者雜.[於.渭濱]居.民之間,而百姓安堵,軍無私焉。相持百餘日。其年八月,亮疾病,卒.于軍,時年五十四。
及.軍退,[宣王]案.行其營壘處所,曰:「天下奇才也!」
*(第5次の最後の北伐) 諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で対陣した。諸葛亮は病に倒れ、秋8月、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。司馬懿は、陣の跡地を見て「天下奇才也!」と言った。

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