思いつくまま

日々の思いの記録を残したく・・・・

西暦207,208年 後漢書孝獻帝紀:三國志魏書曹操

2017年01月31日 | Weblog
【後漢書孝獻帝紀】
207十二年秋八月,[曹操]大破.烏桓於柳城,斬.其[蹋頓]。
冬十月辛卯,有星孛於鶉尾。乙巳,黃巾賊殺.濟南王贇。十一月,遼東太守[公孫康]殺.[袁尚・袁熙]。
208十三年春正月,司徒[趙溫]免。夏六月,罷.三公官,置.丞相・御史大夫。癸巳,[曹操]自為.丞相。
秋七月,[曹操]南征.[劉表]。
八月丁未,光祿勳[郗慮]為.御史大夫。壬子,[曹操]殺.太中大夫[孔融],夷其族。是月,[劉表]卒,少子[琮]立,[琮]以荊州降.[操]。冬十月癸未朔,日有食之。
[曹操]以舟師伐.[孫權],權將[周瑜]敗.之於烏林・赤壁。


【三國志魏書曹操】
207十二月春二月,公自淳於還.鄴。丁酋,令曰:“吾起.義兵/誅.暴亂,於今十九年,所征必克,豈吾功哉? 乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定,吾當要.[與賢士大夫共]定之;而專饗.其勞,吾何以安焉! 其促定功行封。” 於是大封.功臣二十餘人,皆為.列侯,其餘各以次受封,及複死事之孤,輕重各有差。

將北征.三郡烏丸,諸將皆曰:“袁尚,亡虜耳,夷狄貪而無親,豈能為[尚]用? 今深入征之,[劉備]必說.[劉表]以襲.許。萬一為變,事不可悔。” 惟[郭嘉]策[表]必不能任.[備],勸.公行。
夏五用,至.無終。秋七月,大水,傍海道不通,[田疇]請.為鄉導,公從之。引軍出盧龍塞,塞外道絕不通,乃塹山堙穀五百餘裏,經.白檀,曆.平岡,涉.鮮卑庭,東指.柳城。未至二百里,虜乃知之。[尚・熙]與[蹋頓]・遼西單于[樓班]・右北平單于能臣[抵之]等將.數萬騎/逆.軍。
八月,登.白狼山,卒與虜遇,眾甚盛。公車重在後,被甲者少,左右皆懼。公登.高,望.虜陳不整,乃縱兵擊之,使[張遼]為.先鋒,虜眾大崩,斬.[蹋頓]及名王已下,胡・漢降者二十餘萬口。遼東單于[速僕丸]及遼西・北平諸豪,棄.其種人,與[尚・熙]奔.遼東,眾[尚]有數千騎。初,遼東太守[公孫康]恃遠不服。及公破.烏丸,或說.公遂征之,[尚]兄弟可禽也。公曰:“吾方使[康]斬送.[尚・熙]首,不煩.兵矣。”
九月,公引兵自柳城還,[康]即斬.[尚・熙]及[速僕丸]等,傳.其首。諸將或問:“公還而[康]斬送.[尚・熙],何也?” 公曰:“彼素畏.[尚]等,吾急之則並力,緩之則自相圖,其勢然也。”
十一月至.易水,代郡烏丸行單于[普富盧]・上郡烏丸行單于[那樓]將.其名王/來賀。

208十三年春正月,公還.鄴,作.玄武池以肄.舟師。*肄,以四反。三蒼曰:“肄,習也。”漢罷.三公官,置.丞相・御史大夫。
夏六月,以公為.丞相。秋七月,公南征.[劉表]。八月,[表]卒,其子[琮]代,屯.襄陽,[劉備]屯.樊。九月,公到.新野,[琮]遂降,[備]走.夏口。公進軍江陵,下令.荊州吏民,與之更始。乃論.荊州服從之功,侯者十五人,以劉表大將[文聘]為.江夏太守,使統.本兵,引用.荊州名士[韓嵩・鄧義]等。益州牧[劉璋]始受.徵役,遣兵給軍。
十二月,[孫權]為[備]攻.合肥。公自江陵征.[備],至.巴丘,遣.[張憙]救.合肥。[權]聞.[憙]至,乃走。公至.赤壁,與[備]戰,不利。於是大疫,吏士多死者,乃引.軍/還。[備]遂有.荊州・江南諸郡。


【三國志蜀書先主傳】
曹公既破.[紹],自南擊.先主。先主遣.[麋竺・孫乾]與[劉表]相聞,[表]自郊迎,以上賓禮待之,益.其兵,使屯.新野。荊州豪傑歸.先主者日益多,[表]疑.其心,陰禦之。使拒.[夏侯惇・于禁]等於博望。久之,先主設.伏兵,一旦自燒.屯/偽遁,[惇]等追之,為伏兵所破。
207十二年,曹公北征.烏丸,先主說.[表]襲.許,[表]不能用。
208曹公南征.[表],會.[表]卒,子[琮]代立,遣使請.降。先主屯.樊,不知.曹公卒至,至.宛乃聞之,遂將.其眾/去。過.襄陽,[諸葛亮]說.先主攻.[琮],荊州可有。先主曰:「吾不忍也。」乃駐.馬/呼.[琮],[琮]懼/不能起。[琮]左右及荊州人多歸.先主。
比到.當陽,眾十餘萬,輜重數千兩,日行十餘里,別遣.關羽乘船數百艘,使會.江陵。或謂.先主曰:「宜速行保.江陵,今雖擁.大眾,被甲者少,若曹公兵至,何以拒之?」 先主曰:「夫濟.大事/必以人為本,今人歸.吾,吾何忍棄去!」
曹公以江陵有軍實,恐.先主據之,乃釋.輜重,輕軍到.襄陽。聞.先主已過,曹公將.精騎五千急追之,一日一夜行三百餘里,及.於當陽之長坂。先主棄.妻子,與[諸葛亮・張飛・趙雲]等數十騎走,曹公大獲.其人眾輜重。先主斜趨.漢津,適.與[羽]船會,得濟.沔,遇.[表]長子江夏太守[琦]眾萬餘人,與俱到.夏口。先主遣.[諸葛亮]自結.於[孫權],[權]遣.[周瑜・程普]等水軍數萬,與先主並.力,與曹公戰.於赤壁,大破之,焚.其舟船。先主與吳軍水陸並進,追到.南郡,時又疾疫,北軍多死,曹公引歸。
先主表[琦]為.荊州刺史,又南征.四郡。武陵太守[金旋]・長沙太守[韓玄]・桂陽太守[趙範]・零陵太守[劉度]皆降。廬江雷緒率部曲數萬口稽顙。
[琦]病死,羣下推.先主為荊州牧,治公安。[權]稍畏之,進.妹/固.好。先主至京見[權],綢繆(チュウビュウ=からみつく、こみあう)恩紀。
[權]遣使云欲共取.蜀,或以為宜報聽許,吳終不能越荊有蜀,蜀地可為己有。荊州主簿[殷觀]進曰:「若為吳先驅,進未能克蜀,退為吳所乘,即事去矣。今但可然贊其伐蜀,而自說新據諸郡,未可興動,吳必不敢越我而獨取蜀。如此進退之計,可以收.吳・蜀之利。」先主從之,[權]果輟(テツ =止める).計。遷[觀]為.別駕從事。

西暦206年 後漢書孝獻帝紀:三國志魏書曹操

2017年01月30日 | Weblog
【三國志蜀書先主傳】200-206
200五年,曹公東征.先主,先主敗績。 曹公盡收.其眾,虜.先主妻子,並禽.關羽以歸。
先主走.青州。青州刺史袁譚,先主故茂才也,將步騎/迎.先主。先主隨.[譚]/到.平原,[譚]馳使白.[紹]。[紹]遣將道路奉迎,身去鄴二百里,與先主相見。 魏書曰:[備]歸.[紹],[紹]父子傾心敬重。
駐月餘日,所失亡士卒稍稍來集。曹公與袁紹相拒.於官渡,汝南黃巾[劉辟]等叛.曹公/應.紹。紹遣.先主將兵與辟等略許下。[關羽]亡/歸.先主。[曹公]遣.[曹仁]將兵擊.先主,先主還.紹軍,陰欲離.[紹],乃說.[紹]南連.荊州牧[劉表]。[紹]遣.先主將本兵復至.汝南,與賊龔都等合,眾數千人。曹公遣.[蔡陽]擊之,為先主所殺。


【後漢書孝獻帝紀】
206十一年春正月,有星孛於北斗。三月,曹操破.[高幹*]於幷州,獲之。秋七月,武威太守[張猛]殺.雍州刺史邯鄲商。
是歲,立.故琅邪王容子[熙]為.琅邪王。齊・北海・阜陵・下邳・常山・甘陵・濟北・平原八國皆除。


【三國志魏書曹操】
206十一年春正月,公征.[幹]。[幹]聞之,乃留.其別將/守.城,走入.匈奴,求.救於單于,單于不受。公圍.壺關三月,拔之。[幹]遂走.荊州,上洛都尉[王琰]捕斬之。
*高幹 191年袁紹の命により、辛評・荀諶・張導・郭図らと共に使者として冀州牧韓馥の下に赴き、冀州を袁紹に譲らせた。199年頃には、袁紹から并州刺史(牧とも)に任命。袁紹の子袁譚・袁煕と同様に破格の待遇を受ける。

秋八月,公東征.海賊[管承],至.淳于,遣.[樂進・李典]擊破之,[承]走入.海島。割.東海之襄賁・郯・戚以益.琅邪,省.昌慮郡。
三郡烏丸承.天下亂,破.幽州,略.有漢民合十餘萬戶。[袁紹]皆立.其酋豪為.單于,以家人子為己女,妻焉。遼西單于[蹋頓]尤強,為[紹]所厚,故[尚]兄弟歸之,數入.塞/為.害。公將征之,鑿.渠,自呼入泒水,*泒音孤。名.平虜渠;又從.泃河口*泃音句。鑿入.潞河,名.泉州渠,以通海。

西暦205年 後漢書孝獻帝紀:三國志魏書曹操

2017年01月29日 | Weblog
【後漢書孝獻帝紀】
205十年春正月,[曹操]破.[袁譚]於青州,斬之。夏四月,墨山賊[張燕]率.眾/降。秋九月,賜百官尤貧者金、帛,各有差。


【三國志魏書曹操】
205十年春正月,攻.[譚タン],破之,斬.[譚],誅.其妻子,冀州平。
下令曰:“其與袁氏同惡者,與之更始。” 令民不得複私讎,禁厚葬,皆一之於法。
是月,袁熙大將[焦觸・張南]等叛/攻.[熙・尚],[熙・尚]奔.三郡烏丸。[觸]等舉.其縣/降,封為.列侯。
初討.[譚]時,民亡椎冰,令不得降。頃之,亡民有詣門首者,公謂曰:“聽汝則違令,殺汝則誅首,歸深自藏,無為吏所獲。” 民垂泣而去;後竟捕得。

夏四月,黑山賊[張燕]率.其眾十餘萬/降,封為.列侯。故安趙犢・霍奴等殺.幽州刺史・涿郡太守。三郡烏丸攻.鮮於輔於獷平。續漢書郡國志曰:獷平,縣名,屬.漁陽郡。
秋八月,公征之,斬.[犢]等,乃渡.潞河/救.獷平,烏丸奔走/出.塞。
九月,令曰:“阿党比周,先聖所疾也。聞冀州俗,父子異部,更相毀譽。昔直不疑無兄,世人謂之盜嫂;第五伯魚三娶孤女,謂之撾(タ=打つ)婦翁;王鳳擅權,穀永比之申伯,王商忠議,張匡謂之左道:此皆以白為黑,欺.天/罔.君者也。吾欲.整齊風俗,四者不除,吾以為.羞。”
冬十月,公還.鄴。

初,袁紹以.甥[高幹]領.並州牧,公之拔.鄴,[幹]降,遂以為.刺史。[幹]聞.公討烏丸,乃以州叛,執.上党太守,舉.兵/守.壺關口。遣.[樂進・李典]擊之,[幹]還守.壺關城。

西暦204年 後漢書孝獻帝紀:三國志魏書曹操

2017年01月28日 | Weblog
【後漢書孝獻帝紀】
204九年秋八月戊寅,曹操大破.[袁尚],平.冀州,自領.冀州牧。冬十月,有星孛於東井。十二月,賜.三公已下金・帛,各有差。自是三年一賜,以為.常制。


【三國志魏書曹操】
204九年春正月,濟.河,遏(アツ =遮る、塞ぐ、断ち切る).淇水/入.白溝/(以)通.糧道。
二月,[尚]複攻.[譚],留.[蘇由・審配]守.鄴。公進軍到.洹水,[由]降。既至,攻.鄴,為土山・地道。武安長[尹楷]屯.毛城,通.上黨糧道。
夏四月,留.[曹洪]攻.鄴,公自將擊.[楷],破之而還。尚將[沮鵠]守.邯鄲,又擊拔之。易陽令[韓範]・涉長[梁岐]舉.縣/降,賜.爵關內侯。
五月,毀.土山・地道,作.圍巉,決.漳水/灌.城;城中餓死者過半。
秋七月,[尚]還救.鄴,諸將皆以為“此歸師,人自為戰,不如避之”。 公曰:“[尚]從.大道來,當避.之;若循.西山來者,此成.禽耳。” [尚]果循.西山來,臨.滏水/為.營。夜遣.兵/犯.圍,公逆擊破走之,遂圍.其營。未合,[尚]懼,故豫州刺史[陰夔]及[陳琳]乞.降,公不許,為.圍益急。[尚]夜遁,保.祁山,追擊之。其將[馬延・張顗]等臨陳降,眾大潰,[尚]走.中山。盡獲.其輜重,得.[尚]印綬節鉞,使[尚]降人示.其家,城中崩沮。
八月,[審配]兄子[榮]夜開.[所守城東門]/內.兵。[配]逆戰,敗,生禽.[配],斬.之,鄴定。公臨.祀紹墓,哭之流涕;慰勞.紹妻,還.其家人寶物,賜雜繒絮,廩食之。

初,紹與公共起兵,紹問.公曰:“若事不輯,則方面何所可據?” 公曰:“足下意以為何如?” 紹曰:“吾南據.河,北阻.燕・代,兼.戎狄之眾,南向以爭.天下,庶可以濟乎?” 公曰:“吾任天下之智力,以道禦之,無所不可。”

九月,令曰:“河北罹.袁氏之難,其令無出.今年租賦!”重.豪強兼併之法,百姓喜悅。
天子以公領.冀州牧,公讓還.兗州。

公之圍鄴也,[譚]略取.甘陵・安平・勃海・河間。[尚]敗,還.中山。[譚]攻之,[尚]奔.故安,遂並.其眾。
公遺.[譚]書,責以負約,與之絕婚,女還,然後進軍。[譚]懼,拔.平原,走/保.南皮。
十二月,公入.平原,略定諸縣。


【袁紹】from Wikipedia
後漢時代に4代にわたって三公を輩出した名門汝南袁氏の出身で、生まれて間もなく父の袁成と死別し、叔父の袁逢と袁隗に育てられた。幼少にして郎に取り立てられ、20歳で濮陽の県令に任命されると清廉との評判を得た。母が亡くなると3年の喪に服し、喪が明けると更に父の喪にも服し、孝を尽くした。6年間の服葬の後、洛陽に隠れ住んだ。むやみに人と会わず、名声の高い人物とのみ交際した。
袁紹は威厳がある風貌をしており、また名門出身にも係わらず謙虚であったため、曹操ら大勢の人々から慕われた。遊侠を好み、張邈(孟卓)・何顒(伯求)・許攸(子遠)・伍孚(徳瑜)・呉子卿(諱は不詳)らの名士と「奔走の友」としての交わりを結んだ。朝廷からの招聘には応じなかった。
同世代の袁氏有力者として袁術がいた。宗族の長は袁紹と袁術のいずれかと目されており、都にいた地方の豪族子弟はこぞって両家に赴いたが、何顒や許攸らは袁術のもとには赴かなかった。このため、袁氏の正嫡であると自負していた袁術に憎まれ、後に対立する一因となった。
当時、朝廷の政治を壟断していた宦官の趙忠らは、袁紹の行動を不審に思い危険視していた。そのことを聞いた叔父の袁隗は、一族を滅ぼすつもりかと袁紹を叱った。そのため、何進の掾(属官)に召されるとようやく官途に就くことにした。間もなく侍御史・虎賁中郎将と累進し、188年には中軍校尉(西園八校尉の一つ)も兼ねた。
189年5月、霊帝が崩御すると、子の劉弁(後の少帝)を支持する何皇后と、劉協(陳留王、後の献帝)を支持する董太后との間で後継争いが起こった。劉協派の宦官の蹇碩は、何進を暗殺しようと図ったが失敗し、劉弁が即位した。劉協派を粛清し外戚として権力を握った何進は、さらに十常侍ら宦官勢力の一掃を袁術と図る。しかし、皇太后(何皇后)は宦官から賄賂を受けていたので、許可しなかった。また、宦官側もしきりに何進に留意を促したため、計画は進展しなかった。
袁紹は、董卓ら諸侯の軍勢を洛陽に召集し、皇太后に決断を迫るよう献策した。その策は何進に採用されたが、後に董卓と諸侯の権力闘争の遠因となった。何進は袁紹を司隷校尉に任じて、兵権を与え洛陽の武官の取りまとめを任せ、また虎賁中郎将の袁術に命じて宦官から武力を取り上げようとした。しかし、時機を逸した上に秘密が漏れ、逆に何進は宦官に暗殺された。ここに至って袁紹は宮中に兵を進め、宦官を老若の区別なく皆殺しにした。
その後、董卓が混乱に乗じて洛陽に入り、武力を背景に朝廷の実権を握ると、袁紹と董卓の間に確執が生じる。董卓が少帝の廃立を諸侯に提議すると、袁紹はこれに反対して席を立ち、そのまま冀州に逃亡した。初め董卓は賞金を懸けて袁紹の行方を追っていたが、袁氏の勢力が結集することを恐れると、罪を赦して勃海郡の太守に任命し、邟郷侯に封じた。
初平元年(190年)、東郡太守橋瑁の呼びかけにより、各地の刺史や太守が打倒董卓の兵を挙げた。決起の檄文は冀州にも届き、袁紹もこれに応じた。同盟軍(反董卓連合軍)の盟主に推薦されると、車騎将軍を自称し、河内郡に駐屯した。しかし、袁紹は董卓軍の強さを恐れ、果敢に洛陽を攻めようとはしなかった。そのため、決戦を主張する曹操らから批判された。袁紹らの挙兵を受け、董卓は2月に長安への遷都を行い、洛陽に火を放った。袁隗・袁基ら袁氏一門はことごとく処刑された。これに対し袁紹は、董卓が和睦のために送った使者を捕らえ、執金吾の胡母班らを殺している。
191年正月、袁紹は安否が不明な献帝に代え、幽州にいる大司馬劉虞の擁立を諸侯に図った。しかし、袁術や曹操などから忠義に背く行為であると反対され、さらに劉虞本人からも拒絶されたため断念した。4月、陽人の戦いの後、敗れた董卓は洛陽を捨てて長安に撤退したが、かつての洛陽は焦土と化し、また諸侯の間で内紛も起こり、最終的に連合軍は瓦解した。挙兵の大義を失った諸侯はそれぞれの根拠地へ戻り、自衛や勢力拡張のため相争うようになる。こうして後漢は、各地に群雄が割拠する内乱の時代に入った。
[勢力拡張]
董卓征討軍が解散した後、袁紹は同じ袁家の出身で、勢力を誇る袁術と対立を深める。
袁紹は韓馥と共に劉虞に皇帝就任を要請したが、劉虞には固辞された。劉虞はかえって、自身の忠誠の証を立てるために長安に使者を送り、献帝の方でも劉虞を頼りにしようと思うようになり、劉和を使者として送り劉虞に援軍を要請した。この動きを利用した袁術は、劉和を軟禁して手紙を書かせ、劉虞の軍勢の奪取を図った。
幽州において、異民族政策を巡り劉虞と対立してきた公孫瓚は、冀州や青州の黄巾討伐などで功績を挙げ、一方の雄として存在感を強めていた。公孫瓚は、劉虞の軍に自身の従弟の公孫越の軍を同行させ、袁術と友好関係を結ぶようになった。また、反董卓の義兵に加わると称して韓馥を攻撃するなど、軍事的な野心を露骨に見せるようになった。
このような状況下、袁紹は張楊らの軍勢を傘下に収め、さらに韓馥を見限った麴義の軍を味方につけ、軍事的に強勢となっていた。
初平2年(191年)、公孫瓚に怯える韓馥に高幹や郭図らの使者を送り、冀州牧の地位を譲り受け刺史となった。このときに沮授・田豊を配下とした。
またこれより以前、袁術は孫堅を豫州刺史に任命していたが、袁紹は洛陽に入った孫堅の力を削ぐため、周昂(周喁、周昕とも)を豫州刺史に任命し牽制させることにした。周昂と孫堅が争う中で、孫堅の援軍として袁術に派遣された公孫越が戦死するという事件が発生する。公孫瓚は袁紹への敵意を剥き出しにし、磐河まで出陣してきた。
初平3年(192年)、袁紹は界橋まで進軍した公孫瓚を迎え撃った。公孫瓚軍の布陣は、中央に歩兵3万余が方陣を敷き、その左右を騎兵1万余が固めるというものであった。袁紹軍の布陣は、先陣の麴義が楯を構えた兵士800人と1000張の強弩隊を率い、その後に袁紹自身が率いる数万の歩兵が続いた。羌族の(騎兵)戦術を熟知した麴義の奮闘により、袁紹軍は公孫瓚の部将の厳綱を捕虜にするなど勝利した(界橋の戦い)。袁紹は一時、敗走してきた公孫瓚の騎兵によって窮地に追い込まれ、田豊に逃走を勧められたが、戦地に踏みとどまって奮戦を続けたという。
黒山賊に背後を突かれるが、反撃しこれを破っている。
長安において董卓が暗殺され、その後の政争に敗れた呂布が頼ってきた。黒山賊の討伐に呂布を用いたが、呂布が戦功を鼻にかけるような態度をとったため殺害を謀ったが、張邈に制止された。これ以降、張邈との関係は冷え込んでいった。また鮑信は袁紹が驕慢となり、第二の董卓となりつつあると予測し、曹操に河南での自立を勧めたという。
その後、渤海郡をめぐる攻防で公孫瓚の籠る城を落とせず、退却したところを逆に追撃されて大敗を喫する。公孫瓚は南進して諸郡を攻めるも、袁紹は数万の軍を出動させる構えを見せ、冀州・青州を巻き込んで2年余りの長期戦と化す。結果的に袁紹は自領を守りきった。
192年、兗州において黒山賊による争乱が起きると、曹操を東郡太守に任命し支援した。青州には臧洪を派遣し田楷や孔融と対抗させた。一方で、荊州の劉表に袁術の背後を突かせ、劉表を攻撃した孫堅が戦死するという戦果を挙げる。劉岱とは家族を預けるほどの友好関係であったが、青州黄巾の再度の蜂起により劉岱が戦死すると、曹操が鮑信らの計らいで後継の兗州牧に推されるのを容認した。
193年、袁術が正式な兗州刺史の金尚を擁して攻め込んできたときも、曹操に命じて匡亭の戦いにおいて、袁術を揚州の寿春へ退かせた。同年、公孫瓚が劉虞を殺害し、劉虞の旧臣が烏桓を巻き込んで、公孫瓚に対して一斉に反乱を起こした。袁紹は劉虞の子の劉和を支援しその内紛に介入し、鮑丘の戦いで麴義や劉虞の旧臣が公孫瓚を破ると、公孫瓚は10年は籠ることのできると言われた難攻不落の易京城に籠城した。袁紹は麴義に叛かれるなどの損害もあったが、公孫瓚の消極的な姿勢にも助けられ易京の包囲と攻撃に成功した。さらに、公孫瓚が城外の公孫続・黒山賊張燕と連携しようとした作戦も察知し、これを破った。
建安4年(199年)には、地下道を掘り進めて易京を陥落させて、公孫瓚を滅亡に追い込んだ。
この間、曹操が徐州の陶謙を攻撃すると、朱霊を援軍に派遣し支援した。また、張邈・陳宮が呂布を呼び入れて、兗州において曹操に対して反乱を起こしたときも、曹操を支援した。青州を任せていた臧洪を東郡太守に任命したが、臧洪が恩義のある張超を支援しようとしたため、敵対関係となり、やむなくこれを討ち果たした。青州には長男の袁譚を送り込み、袁譚は孔融を追い払い青州の支配を固めた。また并州方面には高幹を派遣した。徐州は陶謙の没後、劉備が継承していたが、袁紹は劉備の支配を容認し、劉備も袁譚を孝廉に推挙するなど友好的な姿勢を示したが、袁術も徐州を狙っており、劉備はやがて呂布にその地位を奪われた。
献帝が長安を脱出してくると、献帝を擁立するか否かを巡って家臣団が対立した。結局、曹操が献帝を許において擁立すると、人事や官位の任免に干渉し、建安2年(197年)には曹操を押しのけて大将軍に任じられた。
袁紹が公孫瓚を滅亡寸前まで追い込んでいたころ、曹操は張繍・劉表・袁術・呂布といった敵を抱えて東奔西走を余儀なくされていた。袁紹は挑発的な手紙を送ったため、曹操の心中は穏やかではなかった。198年、曹操は呂布を降したが、その前後から袁紹に敵対姿勢を示すようになり、翌年には張繍と張楊の勢力を吸収し、公孫瓚を滅ぼした袁紹と並ぶ、中原の二大勢力になっていった。
[曹操との決戦]
199年、袁術が帝位を自称したものの零落し、袁紹に身を寄せることを申し出てくると、袁譚に袁術を迎え取らせようとしたが、曹操の命令を受けた劉備に阻止された。
同年、劉備が徐州にて曹操に反乱を起こし、袁紹に救援を求めてきた。配下の田豊は、この機会に曹操を滅ぼすべしと主張したが、袁紹は子供(袁尚)の病を理由に断った。曹操はこの時、青州に遊軍を送って牽制しつつ、既に黄河に布陣していたが、袁紹が未だ攻めてこないことを知ると、200年には自ら軍勢を反転させて劉備を追い散らした。敗れた劉備は袁譚の元に身を寄せたので、袁紹はこれを匿った。
「官渡の戦い」
袁紹は南征の意思を固め、陳琳に書かせた檄文を自らの支配する四州へ出し、一大戦役に臨んだ。この際、沮授や田豊は持久戦を主張し、郭図や審配らは速戦を主張したが、袁紹は後者の言を受け入れた。この速戦戦略の不利益を頑なに主張する田豊を、袁紹は遂には投獄してしまった。
建安5年(200年)2月、袁紹は遂に軍を発し河南へ向けて侵攻を開始した。緒戦こそ白馬・延津で顔良・文醜らが討ち取られるなど出鼻を挫かれたものの、兵力・物資で勝る袁紹軍はじりじりと曹操陣営を圧迫し、陽武から官渡へと曹操軍を破って進軍した。官渡の砦を防衛線にした曹操軍に対し、袁紹は土山を築いたり地下道を掘り進めたりなどしたが、曹操軍も同じく土山を築くなどしてこれに対抗した。
秋に入ると、曹操領豫州汝南郡(袁紹の出身地でもある)では黄巾の残党であった劉辟や龔都が反乱を起こし、袁紹は劉備を送ってこれを支援した。曹操軍内では兵糧が枯渇し兵が疲弊、袁紹に投降を考えて内通する者が続出し、曹操は一時的な退却を考え、荀彧に相談していた。
袁紹は眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡の四将を淳于瓊に率いさせ、輸送された食糧を備蓄した兵糧庫を守備させようとした。このときに沮授は、淳于瓊に加えて蒋奇に別働隊を率いさせて守備を万全にすることを袁紹に進言したが、またしても受け入れられなかった。これより以前、袁紹は沮授の軍権を削って郭図と淳于瓊に分け与えるなど、袁紹軍の内部は対立が深刻化していた。
10月、袁紹陣営の許攸は膠着した戦線を打開するべく、軽装兵を用いて許都を襲撃することを説いたが袁紹に受け入れられず、また家族が罪を犯して審配に逮捕されたことで嫌気がさし、曹操陣営に投降した。許攸は淳于瓊が守る烏巣の兵糧庫の所在を暴露した。曹操は本陣の兵力の過半を裂いて出陣、敵の哨戒網を突破して、烏巣を強襲した。沮授は兵糧守備の懸念を再度直訴したが、袁紹の不興を買って斥けられ、郭図の目論む(俄か仕込みの)囲魏救趙の計(半数の兵で手薄の敵本陣を攻め、残りの兵で烏巣に援軍する)が採用された。だが、折角の計略も狙いを絞ることが出来なかったために、味方のいずれもが敗退した。結果、烏巣の兵糧庫は炎上陥落し、淳于瓊は敗死した。これが大きな打撃となり、さらに曹操の本陣を攻撃していた高覧・張郃らの寝返りなどもあり、袁紹は冀州に敗走した。
201年4月、倉亭を守備していた袁紹配下の軍が、曹操軍に破られた(倉亭の戦い)。敗戦後、冀州の各地で反乱が勃発したが、袁紹は軍勢を立て直すと全て鎮圧した。
曹操も袁紹の存命中は河北に侵攻しなかった。
しかし建安7年(202年)5月、袁紹は発病し、苦悶の内に血を吐いて死去した。
袁氏勢力は長男の袁譚派(郭図・辛評ら)と末子の袁尚派(審配・逢紀ら)に分裂する。袁譚・袁尚は相続を巡り骨肉の争いを繰り広げ、その間隙を曹操に付け込まれ、各個撃破される形で袁氏は滅亡した。

西暦203年 後漢書孝獻帝紀:三國志魏書曹操

2017年01月28日 | Weblog
【後漢書孝獻帝紀】
203八年冬十月己巳,公卿初迎.冬於北郊,總章始復備.八佾舞。初置.司直官,督.中都官。


【三國志魏書曹操】
203八年春三月,攻.其郭,乃出戰,擊,大破之,[譚・尚]夜遁。
夏四月,進.軍鄴。五月還.許,留.[賈信]屯.黎陽。己酉,令曰:“司馬法‘將軍死綏’,故趙括之母,乞.不坐[括]。是古之將者,軍破.於外,而家受.罪於內也。自命將征行,但賞.功而不罰.罪,非.國典也。其令諸將出征,敗軍者抵.罪,失利者免.官爵。”
秋七月,令曰:“喪亂已來,十有五年,後生者不見.仁義禮讓之風,吾甚傷之。其令郡國各脩.文學,縣滿五百戶置.校官,選.其鄉之俊造而/教.學之,庶幾(=切に願い望む).先王之道不廢,而有以益.於天下。”

八月,公征.[劉表],軍西平。公之去鄴而南也,[譚・尚]爭.冀州,[譚]為[尚]所敗,走保.平原。[尚]攻之急,[譚]遣[辛毗]乞.降/請.救。諸將皆疑,[荀攸]勸.公許之,公乃引軍還。
冬十月,到.黎陽,為.子整與[譚]結婚。[尚]聞公北,乃釋.平原/還.鄴。東平[呂曠・呂翔]叛[尚],屯.陽平,率.其眾/降,封為.列侯。

西暦201年,202年 後漢書孝獻帝紀:三國志魏書曹操

2017年01月27日 | Weblog
【後漢書孝獻帝紀】
201六年春二月丁卯朔,日有食之。

【三國志魏書曹操】
201六年夏四月,揚.兵河上,擊.[紹]倉亭軍,破之。[紹]歸,複收.散卒,攻定.諸叛郡縣。
九月,公還.[許]。[紹]之未破也,使[劉備]略.汝南,汝南賊共都等應之。遣[蔡揚]擊.都,不利,為都所破。公南征.[備]。[備]聞.公自行,走奔.[劉表],都等皆散。


【後漢書孝獻帝紀】
202七年夏五月庚戌,[袁紹]薨。於窴國*獻.馴象。是歲,越巂男子化為女子。
*窴國(ホータン王国はシルクロードの一つ西域南道沿いにあった仏教王国。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。現在、中華人民共和国新疆ウイグル自治区。漢語では于闐(うてん)、于寘(うてん)、於闐。コータン王国とも書かれる。漢、唐代の中国では「于窴」

【三國志魏書曹操】
202七年春正月,公軍.譙,令曰:“吾起.義兵,為天下除.暴亂。舊土人民,死喪略盡,國中終日行,不見所識,使吾悽愴傷懷。其舉.義兵已來,將士絕無後者,求.其親戚以後之,授.土田,官給.耕牛,置.學師以教之。為存者立.廟,使祀.其先人,魂而有靈,吾百年之後何恨哉!”
遂至.浚儀,治.睢陽渠,遣使乙太牢/祀.橋玄。進.軍官渡。
[紹]自軍破後,發病歐血,夏五月死。小子尚代,[譚]自號.車騎將軍,屯.黎陽レイヨウ。
秋九月,公征之,連戰。[譚・尚]數敗退,固守。

A=B:主語+述語構造 A.B:述語+目的語構造 A/B:並立構造
( ):修飾語(形容詞・副詞・代名詞など 副詞化も含む):補語 :接続詞 :助詞
[ ]:語句のまとまり:人名  [於A]:前置詞+目的語構造
* :注記

西暦200年 後漢書孝獻帝紀:三國志魏書曹操

2017年01月26日 | Weblog
【後漢書孝獻帝紀】
200五年春正月,車騎將軍[董承]・偏將軍[王服]・越騎校尉[種輯]受.密詔/誅.曹操,事泄。壬午,[曹操]殺.[董承]等,夷三族。
秋七月,立.皇子馮為.南陽王。壬午,南陽王馮薨。九月庚午朔,日有食之。詔三公舉至孝二人,九卿・校尉・郡國守・相各一人。皆上封事,靡有所諱。[曹操]與[袁紹]戰.於官度,[紹]敗走。冬十月辛亥,有.星孛於大梁。東海王祗薨。
是歲,[孫策]死,弟[權]襲.其餘業。


【官渡の戦い】from Wikipedia
*白馬・延津の戦い
建安5年(200年)、遂に袁紹は河南侵攻の意思を固めるが、袁紹陣営では対曹操の戦略について幕僚同士のさかんな論争が起きた。
監軍の沮授は持久戦を主張し、田豊も前年の電撃戦主張から策を切り替え、曰く、「曹操は劉備を破って、許(許昌、許都。曹操の本拠地で献帝の所在地)は空城ではなくなりました。曹操は軍隊を巧みに操るから兵力が少なくても侮れないので、持久戦に持ち込むのに越したことはありません。守りを固め、英雄と手を結び、次々と奇襲部隊を派遣して敵軍を疲弊させれば、三年(二年)以内に勝利を手にする事ができるでしょう」と同様に持久戦略を主張した。
これに対し、郭図と別駕の審配は短期決戦戦略を主張した。袁紹は最終的にこの郭図と審配の意見を支持した。さらに郭図は監軍の沮授の勢威が強大すぎると袁紹に進言した。これにより監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。また頑なに持論を主張した田豊は、兵士の士気を低下させるという理由で袁紹に投獄されてしまった。この時、田豊の策を袁紹が聞き入れず、田豊に苛烈な処遇を施したのは、袁紹が幕僚の逢紀の讒言を信じていたためと言われる。
建安5年(200年)2月、袁紹は自らの支配する地域に陳琳に書かせた檄文を出し、軍を大いにまとめ、曹操との決戦を断行した。
まず袁紹は曹操が徐州に遠征している隙を突いて淳于瓊・郭図・顔良を派遣して白馬(黄河南岸)に布陣していた曹操軍の東郡太守劉延を攻撃させた。この時、沮授は顔良を単独の大将格として起用するのは良くないと諌めたが、袁紹は聞き入れなかった。また、これとほぼ同時期に于禁の守る延津を攻撃しているが、こちらは追い返されていた。
200年4月、劉備討伐から帰還した曹操側はこの動きに対して参謀荀攸の進言に従って行動を起こす。曹操はまず于禁と楽進の軍を白馬から数キロ離れた延津から渡河させ、おとり、牽制として袁紹軍を分散させることに成功させた後、張遼と降将である関羽を先鋒として白馬の顔良軍を攻撃した。関羽は敵中深くに斬り込み顔良の首級を挙げ、顔良軍を撃破し、白馬の包囲を解いた。
黄河を渡った于禁・楽進の軍は河にそって西に向かい、汲・獲嘉の二県の三十数箇所の袁紹軍守備陣を焼き払い、何茂・王摩らを降伏させた。

*官渡戦況図
曹操は白馬の住民を移住させると、白馬の拠点を放棄して西に敗走した。袁紹は今度は文醜・劉備の騎兵部隊に曹操の陣を攻撃させるが、荀攸はこれに対して輜重隊をおとりに使う策略を曹操に進言する。この計に嵌った文醜軍の隊列は乱れ、そこに曹操軍は襲い掛かり、文醜を討ち取ることに成功する。『三国志演義』では関羽が顔良に続いて文醜も討ち取ったこととなっているが、これは創作である。
袁紹が黄河を渡り、延津に向かおうとすると、沮授は病気を理由に軍指揮の辞退を申し出た。これに袁紹は憤然とし、沮授配下の軍を郭図に従属させた。

*官渡砦攻防
こうして曹操軍は袁紹軍の出鼻を叩きはしたが、袁紹の本隊が渡河する前には延津を放棄し、官渡へ敗走した。官渡は黄河から南東へ流れる官渡水を望み、濮水、陰溝水やその支流が複雑に交差する天険の地であり、曹操は兼ねてより河北・山東からの脅威を睨んでこの地に砦を整備してきていた。
黄河を渡河した袁紹は陽武(河南省原陽県)に軍を進めた。沮授は「北(袁紹陣営)は数は多いが、勇猛さでは南(曹操陣営)に及びません。しかし食料の点では南は少なく、北に及ばない。南は速戦、北は持久戦が有利です」と進言したが、退けられた。
200年8月、袁紹は本隊で曹操軍を攻め、大兵力を生かし東西数十里に渡る陣を布いて少しずつ前進する、という戦術で曹操の陣営を圧迫した。曹操も陣営を分けて合戦したが、敗れ、官渡の砦に引き返した。砦に籠もった曹操に対して、袁紹は土山を築いたり地下道を掘ることで城壁を無効化しようとしたが、曹操も内部に同じものを造って対応した。また、袁紹は物見櫓を造り、土山から曹操陣営内に矢を射掛けた。曹操軍はこの攻撃に苦戦したが、于禁が土山の指揮をして奮戦したので曹操軍の戦意は上がった。また、曹操は発石車を造り、これらの物見櫓を破壊した。袁紹軍は投石を避けるため坑道を掘りながら前進を試みたが、曹操軍が急造した塹壕に阻まれた。
戦況は持久戦の様相を呈し始め、曹操陣営の食料は日に日に少なくなっていった。兵糧が枯渇し、連日袁紹軍の攻城にさらされる中、曹操軍内には投降を考えて袁紹と内通する、あるいはそれを考える者が続出した(曹操は戦後にこれらの文章を見つけたがあえて咎めず握りつぶした、と「武帝紀」にある)。弱気になった曹操は、本拠地の許昌の留守番をしていた荀彧に対して「引き返すことで袁紹軍をおびき寄せて滅ぼすつもりである」という婉曲的に撤退を希望する手紙を出したが、荀彧はこれを強く諌め、必ず勝てると曹操を励ました。
この時に南方の豫州の汝南郡(元は袁氏の膝元の地である)において、曹操の形勢悪しと見た劉辟が曹操に対して反乱を起こした。袁紹は劉備を派遣してこれを支援し、劉備は劉辟らとともに許昌周辺を荒らし回ると、多くの県が劉備らに呼応したので、曹操は曹仁の騎兵部隊を派遣してこれを打ち破った。しかし劉備は再度袁紹の命を受け、再び汝南に侵攻し、賊の龔都らと手を結んだ。曹操は今度は蔡陽を派遣して劉備を攻撃させたが、蔡陽は敗北して討たれた。『三国志』趙儼伝には、袁紹が豫州に兵を派遣し、豫州の諸郡に対し、味方になるよう誘いをかけると、多くの郡がそれに応じたとある。劉備ら袁紹軍の別働隊の活動により、曹操は本拠地の豫州の支配の維持さえ困難になってきていた。
曹操は荀攸の進言に従って、史渙と徐晃に袁紹軍の輸送隊を攻撃させ、数千台の穀物輸送車を焼き払ったものの、その間にも曹操軍の食糧不足は更に深刻な状態となっていた。また袁紹側もこれら曹操の妨害もあり、兵糧補給に難を生じ始めた。そこで袁紹は眭元進・韓莒子・呂威璜・趙叡の四将を淳于瓊に率いさせ、輸送された食糧を備蓄した兵糧庫を守備させようとした。このときに沮授は淳于瓊に加えて蒋奇に別働隊を率いさせて守備を万全にすることを袁紹に進言したが、またしても受け入れられなかった。
袁紹軍も曹操軍の輸送部隊をたびたび攻撃したが、曹操軍の輸送部隊を任された任峻が輸送部隊の防衛を強化すると、袁紹軍は曹操軍の輸送部隊を攻撃しなくなった。

*烏巣急襲
200年10月、袁紹陣営の許攸は膠着した戦線を打開するべく、軽装兵を用いて許都を襲撃することを説いたが袁紹に受け入れられず、また家族が罪を犯して審配に逮捕されたことで嫌気がさし、曹操陣営に投降してきた。『三国志』魏書武帝紀には、許攸の強い物欲を袁紹が満足させることが出来なかったので、許攸は袁紹を裏切ったとある。許攸は烏巣に宿営している淳于瓊が守る兵糧輸送隊の守備が手薄なことを教えて、そこに奇襲をかけるように進言した。曹操の側近の多くはこの許攸の発言を疑ったが、荀攸と賈詡はこの意見を支持した。そこで曹操は即座に行動を起こし、曹操自ら部将を引き連れ、歩騎五千人を率いて淳于瓊軍を強襲した。
烏巣にいる淳于瓊が襲われたことを知った袁紹軍内では、郭図が「この間に曹操の本陣を攻撃すれば、敵軍は必ず引き返すでしょう。そうすれば、援軍を出さなくても解決できます」と言い、張郃は「敵陣は堅固なので勝てません。それよりも早く淳于瓊を救援するべきです」と言った。袁紹はこれに対して両方の作戦を採用し、軽装の騎兵隊を派遣して淳于瓊を救援させ、張郃・高覧に重歩兵を率いさせて曹操軍の本陣を攻撃させた。
曹操は淳于瓊軍と救援の袁紹軍軽騎兵隊を大いに撃破し、兵糧を焼き払った。眭元進ら四将は討ち尽くされ、淳于瓊は楽進に討ち取られた(『三国志』魏書楽進伝)。『曹瞞伝』によれば、淳于瓊は捕らえられ鼻を削がれ、曹操は淳于仲簡を帰服させようとしたが、先に帰服した許攸が「鏡を見る度に淳于仲簡は我らに恨みを抱くでしょう」と讒言したため、淳于瓊は斬首されたとしている。
さらに烏巣救援を主張した張郃・高覧を曹操軍の本陣強襲に向かわせるという袁紹の無神経とも言える指揮が災いしたか(曹操本陣を易々と破ってしまえば郭図の献策が正しく、張郃の主張は誤りであったと実証してしまうため)、張郃と高覧による曹操軍本陣強襲は留守を預かっていた曹洪に防がれただけでなく、(淳于瓊が敗れたことを聞いた)張郃と高覧は袁紹を見限って曹操に帰服してしまった。この時、郭図は責任追及を恐れて張郃のことを讒言したといわれる。
将が寝返り、兵糧の多くも損失した袁紹軍が継戦することは不可能となり、河北へと敗走、官渡の戦いは終わった。なお、沮授は曹操軍に生け捕りにされ、曹操にその才能を惜しまれたものの、降らず、脱走を企てたために斬首された。

【三國志魏書曹操】

A=B:主語+述語構造 A.B:述語+目的語構造 A/B:並立構造
( ):修飾語(形容詞・副詞・代名詞など 副詞化も含む):補語 :接続詞 :助詞
[ ]:語句のまとまり:人名  [於A]:前置詞+目的語構造
* :注記

200五年春正月,[董承]等謀泄,皆伏.誅。公將自東征.[備],諸將皆曰:“與公爭.天下者,袁紹也。今[紹]方來而/棄之東,[紹]乘人後,若何?”公曰:“夫[劉備],人傑也,今不擊,必為.後患。[袁紹]雖有.大志,而見事遲,必不動也。”
[郭嘉]亦勸.公,遂東擊.[備],破之,生禽.其將夏侯博。[備]走奔.[紹],獲.其妻子。[備]將.[關羽]屯.下邳,複進攻之,[羽]降。[昌豨]叛為備,又攻破之。公還.官渡,[紹]卒不出。

二月,[紹]遣.[郭圖・淳于瓊・顏良]攻.東郡太守[劉延]于白馬,[紹]引.兵/至.黎陽,將渡.河。
夏四月,公北救.延。[荀攸]說.公曰:“今兵少不敵,分.其勢乃可。公到.延津,若將渡兵向其後者,紹必西應之,然後輕兵襲白馬,掩其不備,[顏良]可禽也。”
公從之。紹聞兵渡,即分兵西應之。公乃引軍兼行趣.白馬,未至十餘裏,[良]大驚,來逆戰。使[張遼・關羽]前登,擊破,斬.[良]。遂解.白馬圍,徙.其民,循.河而/西。
[紹]於是渡.河/追.公軍,至.延津南。公勒兵駐.營南阪下,使登.壘望之,曰;“可五六百騎。”有頃,複白:“騎稍多,步兵不可勝數。”公曰:“勿複白。”乃令騎解.鞍/放.馬。是時,白馬輜重就道。諸將以為敵騎多,不如還保營。
荀攸曰:“此所以餌敵,如何去之!”紹騎將[文醜]與[劉備]將五六千騎前後至。
諸將複白:“可上馬。”公曰:“未也。”有頃,騎至稍多,或分趣輜重。
公曰:“可矣。”乃皆上馬。時騎不滿六百,遂縱兵擊,大破之,斬.[醜]。[良・醜]皆紹名將也,再戰,悉禽,紹軍大震。公還.軍官渡。紹進保.陽武。[關羽]亡歸.劉備。
建安5年(200年)、劉備が東征してきた曹操の攻撃を受け、敗れて袁紹の元に逃げると、関羽は曹操の捕虜になった。曹操は関羽を偏将軍に任命し、礼遇したという。曹操と袁紹が戦争となると(官渡の戦い)、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を曹操に命じられた。関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し、顔良を刺し殺し、顔良の首を持ち帰った。この時、袁紹軍の諸将で相手になれる者はいなかったという(白馬の戦い)。曹操は即刻上表して、漢寿亭侯に封じた。
曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽が自分の下に長くとどまるつもりはないと思い、張遼に依頼して関羽に質問させたところ、関羽は劉備を裏切ることはないことと、曹操への恩返しが済んだら立ち去るつもりであることを述べた。そのことを張遼から聞いていた曹操は関羽の義心に感心したという。
顔良を討ち取るという功を立てた関羽は、必ずや劉備のもとに戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。関羽はこれらの賜り物に封をして、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対して、彼を追ってはならないと言い聞かせた。


八月,紹連營稍前,依沙塠為屯,東西數十裏。公亦分營與相當,合戰不利。時公兵不滿萬,傷者十二三。
紹複進臨官渡,起土山地道。公亦於內作之,以相應。紹射營中,矢如雨下,行者皆蒙楯,眾大懼。
時公糧少,與荀彧書,議欲還.許。
彧以為“紹悉眾聚官渡,欲與公決勝敗。公以至弱當至強,若不能制,必為所乘,是天下之大機也。且紹,布衣之雄耳,能聚人而不能用。夫以公之神武明哲而輔以大順,何向而不濟!”公從之。

孫策聞公與紹相持,乃謀襲.許,未發,為刺客所殺。

汝南降賊[劉辟]等叛/應.紹,略許下。[紹]使[劉備]助.[辟],公使[曹仁]擊破之。備走,遂破.[辟]屯。

[袁紹]運.谷車數千乘/至,公用.荀攸計,遣徐晃・史渙邀擊,大破之,盡燒.其車。
公與紹相拒連月,雖比戰斬將,然眾少糧盡,士卒疲乏。公謂.運者曰:“卻十五日為汝破紹,不復勞汝矣。”
冬十月,紹遣車運穀,使淳於瓊等五人將兵萬餘人送之,宿紹營北四十裏。
紹謀臣[許攸]貪財,[紹]不能.足,來奔,因說.公/擊.[瓊]等。左右疑之,荀攸・賈詡勸.公。
公乃留曹洪守,自將步騎五千人夜往,會明至。瓊等望見公兵少,出陳門外。公急擊之,瓊退保營,遂攻之。紹遣騎救瓊。
左右或言“賊騎稍近,請分兵拒之”。
公怒曰:“賊在背後,乃白!”士卒皆殊死戰,大破.[瓊]等,皆斬之。

紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:“就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!”
乃使[張郃・高覽]攻.[曹洪]。[郃]等聞.瓊破,遂來降。紹眾大潰,紹及譚棄軍走,渡河。
追之不及,盡收.其輜重圖書珍寶,虜.其眾。
公收.紹書中,得.許下及軍中人書,皆焚之。
冀州諸郡多舉城邑降者。

初,桓帝時有黃星見.於楚・宋之分,遼東殷馗善.天文,言後五十歲當有真人起于梁・沛之間,其鋒不可當。至是凡五十年,而公破.[紹],天下莫敵矣。


【三國志蜀書先主傳】
200五年,曹公東征先主,先主敗績。曹公盡收.其眾,虜.先主妻子,並禽.[關羽]以歸。
先主走.青州。青州刺史[袁譚],先主故茂才也,將步騎迎.先主。先主隨.[譚]到.平原,[譚]馳使白.[紹]。[紹]遣將道路奉迎,身去鄴二百里,與先主相見。
魏書曰:備歸紹,紹父子傾心敬重。
駐月餘日,所失亡士卒稍稍來集。曹公與袁紹相拒.於官渡,汝南黃巾[劉辟]等叛曹公應紹。[紹]遣先主將兵與[辟]等略許下。關羽亡歸.先主。曹公遣[曹仁]將兵擊.先主,先主還.紹軍,陰欲離.[紹],乃說.[紹]南.連荊州牧[劉表]。[紹]遣先主將本兵復至.汝南,與賊[龔都]等合,眾數千人。曹公遣[蔡陽]擊之,為先主所殺。
曹公既破.[紹],自南擊.先主。先主遣.[麋竺・孫乾]與[劉表]相聞,[表]自郊迎,以上賓禮待之,益.其兵,使屯.新野。[荊州豪傑歸.先主者]日益多,[表]疑.其心,陰禦之。

使拒.[夏侯惇・于禁]等於博望。久之,先主設.伏兵,一旦自燒.屯/偽遁,[惇]等追之,為伏兵所破。

西暦198年 後漢書孝獻帝紀:三國志魏書曹操

2017年01月25日 | Weblog
【後漢書孝獻帝紀】
198三年夏四月,遣.謁者[裴茂]率.中郎將[段煨]/討.[李傕],夷三族(=父母妻を罰する)。[呂布]叛。冬十一月,盜殺.大司馬[張楊]。十二月癸酉,[曹操]擊.[呂布]於徐州,斬之。


【三國志魏書曹操】

A=B:主語+述語構造 A.B:述語+目的語構造 A/B:並立構造
( ):修飾語(形容詞・副詞・代名詞など 副詞化も含む):補語 :接続詞 :助詞
[ ]:語句のまとまり:人名  [於A]:前置詞+目的語構造
* :注記

198三年春正月,公還.許*,初置.軍師祭酒。
(「許」県は魏王朝建国後「魏は許をもって益々昌(さか)える」という予言に従って、許昌に改名された)
三月,公圍.[張繡]於穰。
夏五月,[劉表]遣兵救.[繡],以絕軍後。公將引還,[繡]兵來,公軍不得.進,連營稍前。公與.[荀彧]書曰:“賊來追.吾,雖日行數裏,吾策之,到.安眾,破.[繡]必矣。”到.安眾,[繡]與[表]兵合/守.險,公軍前後受.敵。公乃夜鑿.險為地道,悉過.輜重,設.奇兵。會明,賊謂公為遁也,悉軍來追。乃縱.奇兵/步騎夾攻,大破之。
秋七月,公還.許。[荀彧]問.公:“前以策賊必破,何也?”公曰:“虜遏吾歸師,而與吾死地戰,吾是以知.勝矣。”
[呂布]複為[袁術]使[高順]攻.劉備,公遣.[夏侯惇]救.之,不利。[備]為[順]所敗。
九月,公東征.[布]。
冬十月,屠彭城,獲.其相侯諧。進至.下邳,[布]自將騎逆擊。大破之,獲.其驍將[成廉]。追至.城下,[布]恐,欲.降。[陳宮]等沮.其計,求.救於[術],勸.[布]出戰,戰又敗,乃還固守,攻之不下。
時公連戰,士卒罷,欲還,用.[荀攸・郭嘉]計,遂決.泗・沂水以灌城。
月餘,布將[宋憲・魏續]等執.[陳宮],舉城降,生禽.[布・宮],皆殺之。
太山[臧霸・孫觀・吳敦・尹禮・昌豨]各聚眾。[布]之破.[劉備]也,[霸]等悉從.[布]。[布]敗,獲.[霸]等,公厚納待,遂割.青・徐二州附於海以委焉,分.琅邪・東海・北海/為.城陽・利城・昌慮郡。

初,公為兗州,以東平[畢諶]為別駕。張邈之叛也,[邈]劫*.[諶]母弟妻子;公謝遣之,曰:“卿老母在.彼,可去。”[諶]頓首無二心,公嘉之,為之流涕。既出,遂亡歸。及.布破,[諶]生得,眾為[諶]懼,公曰:“夫人孝.於其親者,豈不亦忠於君乎! 吾所求也。”以為.魯相。
*劫=脅かす

今天下英雄唯使君與操耳。本初之徒不足數也。

2017年01月25日 | Weblog
【三國志蜀書先主傳】西暦196-199頃
196[袁術]來攻.先主,先主拒.之[於盱眙・淮陰]。曹公表.先主為.鎮東將軍,封.宜城亭侯,是歲建安元年也。先主與[術]相持經月,[呂布]乘.虛/襲.下邳。下邳守將[曹豹]反,閒迎.[布]。[布]虜.先主妻子,先主轉.軍海西。

197[楊奉(ヨウホウ ?-197)・韓暹(カンセン ?-197)]寇.徐・揚閒,先主邀擊,盡斬之。
先主求.和[於呂布],[布]還.其妻子。先主遣.[關羽]守.下邳。先主還.小沛,復合.兵/得.萬餘人。
[呂布]惡之,自出兵/攻.先主,先主敗走/歸.曹公。

曹公厚遇之,以為.豫州牧。將至.沛收散卒,給.其軍糧,益與.兵/使東擊.[布]。[布]遣[高順]攻之,曹公遣.[夏侯惇]往,不能.救,為[順]所敗,復虜先主妻子送.[布]。

曹公自出東征,助.先主/圍.[布]於下邳,生禽.[布]。先主復得.妻子,從曹公還.許。表先主為左將軍,禮之愈重,出則同輿,坐則同席。[袁術]欲經.徐州北就.[袁紹],曹公遣.先主/督.[朱靈・路招]要擊.[術]。未至,199[術]病死。
先主未出時,獻帝舅車騎將軍[董承]辭受.帝衣帶中密詔,當誅.曹公。先主未發。是時曹公從容謂.先主曰:「今天下英雄,唯使君與操耳。本初之徒,不足數也。」先主方.食,失.匕箸。

遂與[承]及長水校尉[種輯]・將軍[吳子蘭]・王子[服]等同謀。會見使,未發。事覺,[承]等皆伏誅。 200

先主據.下邳。靈等還,先主乃殺.徐州刺史[車冑],留.[關羽]守.下邳,而身還.小沛。

東海[昌霸]反,郡縣多叛曹公為先主,眾數萬人,遣.[孫乾]與[袁紹]連和,曹公遣.[劉岱・王忠]擊之,不克。

西暦197年 後漢書孝獻帝:三國志魏書曹操

2017年01月24日 | Weblog
【後漢書孝獻帝紀】

A=B:主語+述語構造 A.B:述語+目的語構造 A/B:並立構造
( ):修飾語(形容詞・副詞・代名詞など 副詞化も含む):補語 :接続詞 :助詞
[ ]:語句のまとまり:人名  [於A]:前置詞+目的語構造
* :注記

197二年春,[袁術]自稱.天子。三月,[袁紹]自為.大將軍。夏五月,蝗。秋九月,漢水溢。是歲飢,江淮間民相食。[袁術]殺.陳王寵。[孫策]遣使奉貢。


【三國志魏書曹操】
197二年春正月,公到.宛。[張繡]降,既而悔之,複反。公與戰,軍敗,為流矢所中,[長子昂*・弟子安民]遇.害。
魏書曰:公所乘馬名絕影,為流矢所中,傷.頰及足,並中.公右臂。世語曰:[昂]不能騎,進.馬於公,公故免,而[昂]遇.害。
*曹昂(そう こう、? - 197年)字は子脩。曹昻とも表記される。父は曹操。
生母の劉夫人が早くに亡くなったため、劉夫人の次に曹操の正室となった丁夫人に育てられた。20歳で孝廉に推挙された。197年、曹操は張繍の降伏を受け容れたが、その際に張繍の叔父である張済の未亡人と密通した。これを知った張繍が激怒したため、曹操は密かに張繍殺害計画を立てた。しかし、それに気づいた張繍は先手を打って、宛にいた曹操に奇襲をかけてきた。襲撃された曹昂は父を無事に逃すため、自らの馬を差し出した。このため曹操は無事に逃れる事ができたといわれる。一方の曹昂は張繍軍の攻撃を受け、曹安民や典韋らとともに戦死した。曹昂の死を知った丁氏(丁夫人)はこれを恨み、自ら離別して実家に戻った。曹操が丁氏に対し深く謝罪したが、丁氏は二度と曹操の下へ戻ろうとしなかった。


公乃引兵還.舞陰,[繡]將騎來鈔,公擊破之。[繡]奔.穰,與[劉表]合。公謂.諸將曰:“吾降.[張繡]等,失/不便取.其質,以至.於此。吾知.所以敗。諸卿觀之,自今已後不復敗矣。”遂還.許。
世語曰:舊制,三公領兵入見,皆交戟叉頸而前。初,公將討.[張繡],入覲天子,時始複此制。公自此不復朝見。
[袁術]欲稱.帝於淮南,使人告.[呂布]。[布]收.其使,上.其書。[術]怒,攻.[布],為[布]所破。
秋九月,[術]侵.陳,公東征之。[術]聞.公自來,棄.軍/走,留.其將[橋蕤・李豐・梁綱・樂就];公到,擊破.[蕤]等,皆斬之。[術]走/渡.淮。公還.許。公之自舞陰還也,南陽・章陵諸縣複叛為[繡],公遣.[曹洪]擊之,不利,還屯.葉,數為[繡・表]所侵。
冬十一月,公自南征,至.宛。
魏書曰:臨.淯水,祠.亡將士,歔欷流涕,眾皆感慟。

表將[鄧濟]據.湖陽。攻拔之,生擒.[濟],湖陽降。攻.舞陰,下之。