ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

十二社熊野神社(江戸名所図会めぐり)

2017年04月22日 23時06分19秒 | 江戸名所図会めぐり

都庁で都の食品衛生監視員協議会の送別会が都庁であったので出席してきました。

少し早く着いたので隣の新宿中央公園を散策してみました。

散策中に熊野神社を見つけました。

江戸名所図会めぐりで行ってみたいところでしたので、思わぬ収穫でした。公園側からの入り口です。

熊野神社は江戸名所図会や広重の錦絵などに描かれています。江戸名所図会より

キャプション「世人、誤って十二そうといふ。多景にして遊観多し。」

広重 江戸名所之内 四谷角筈十二そうの池熊のゝ社

広重 名所江戸百景 角筈熊野十二社俗称十二そう  より

境内にこんなものがありましたが、弁天社と弁天池滝のミニチュア版のようです。こちらのものを形作っているようです。江戸名所図会より

昔池であったところからの入り口です。

★ランドマーク十二社熊野神社:室町時代の応永年間に紀伊国から来て中野一帯を開拓し、中野長者と呼ばれた鈴木九郎が郷土の熊野三山の十二所権現を勧請して祭ったのが起源とされている。
江戸時代には、幕府により社殿の修理が行われ、中野長者の墓のある中野成願寺を別当寺とした。
もと熊野神社の境内は広く、複数の池や滝があって江戸西郊の景勝地となり、芝居や浮世絵にも登場するほどであった。将軍もしばしば鷹狩りの際立寄ったり、池を囲んで料亭が建ち並んだりしたことが、十二社熊野神社の名をいよいよ高いものにした。昭和三十年代までは大池のほとりに料亭があり、賑わったが、昭和43に埋め立てられ、浄水場の移転、新都心地区の開発によって昔の面影をすっかり失ってしまった。
現在の拝殿は昭和9年に明治神宮が改築された時に、古材を譲りうけて建築したものであり、内部には七人役者図絵馬や式三番奉納額等が懸けられている。
また境内には、太田南畝の書のある水鉢やこの近辺の風景を讃えた十二社の碑をはじめ数多くの文化財が存在し、ミニ博物館として拝観できる。(新宿区の文化財による熊野神社の由緒より)

坂を上がったところの左側に神輿蔵です。

右側に十二社の碑があります。

ここ十二社の池が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1851)3月に建てられました。
高さ210cm、幅119cm、幕末期に江戸市中の様子を記した「江戸繁盛記」を著した儒学者寺門静軒と、中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、当時名高かった景勝地十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262字あります。
また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したもので字数は、286字に及びます。
なお、書は中川憲齋(名は大彭、日本書堂は号)によるものです。(新宿区指定史跡)

正面に拝殿です

拝殿左に神楽殿

太田南畝の水鉢(新宿区指定有形文化財)文政3年(1820)3月に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師大田南畝(蜀山人)(1749-1823)の書による銘文が刻まれています。
外部は幅150cm、高さ60cm、奥行64cm。内部の鉢の部分は幅126cm、深さ23cm、奥行40cmあります。

大鳥三社

狛犬本殿裏の末社大鳥三社にある狛犬で、腹の下がくりぬきになっていない珍しいものです。享保12年(1727)「角筈村上野百姓店児講中」により寄進されたものです。

稲荷

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