ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

鳥と花を求めて旧中川から荒川河川敷

2017年09月20日 23時13分40秒 | 近郊散策

9月20日(水)弁当工場の衛生会議で話をした後、秋めいてきた天候に誘われて、旧中川から荒川の河口まで行ってきました。河川敷きの中を自転車での散策です。北十間川が旧中川と合流するところから河川敷に降ります。今回は江戸川区側の河川敷を下流に下りました。旧中川の逆井の渡し跡あたりにはコザギが数羽いました。昔からこの辺りのコザギは有名で広重の錦絵にも登場します。

歌川広重 名所江戸百景 逆井のわたし

奥に筑波山逆井の渡しの下流でしょうか。

江戸時代の切絵図です。逆井の渡しから千葉街道です。

ランドマーク逆井の渡し跡:中川をわたる逆井の渡しは、『新編武蔵風土記稿』に「中川、村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり、船2艘あり、一は亀戸村の持、一は当村持」とあるように、もとは北隣りの逆井村にあったものが、その後西小松川村(現在の逆井橋付近)に移転したもののようです。ここに江戸と房総を蒸すぶ街道がひらかれたからでした。この街道を元佐倉道といい、区内を北東にほぼ直線で横切って、小岩市川の渡しを渡り、市川から佐倉、成田へ向かいました。明治に入って千葉街道とよばれるようになりました。

 逆井の渡し付近は風景も良く安藤広重が「名所江戸百景」のひとつに描いています。明治12年(1879)、渡し跡に橋が架けられて、逆井の渡しは廃止されました。架橋答辞は村費による架橋費を補うために通行料(橋銭)を徴収する賃取橋でした。明治27年(1894)に橋銭徴収は終わり、明治31年(1898)に、東京府によって架けかえられています。昭和43年(1968)には、江戸川・江東両区の協力で鉄橋になっています。その後、旧中川沿岸の景観整備や、虹の大橋やもみじ大橋・さくら大橋がかけられて、現在のすがたになりました。( 江戸川区)東京府南葛飾郡の地図より、上の江戸時代の切絵図から総武鉄道や東武鉄道が出来ています。まだ荒川放水路は作られていません。

旧中川の河川敷きの花壇にコスモスが咲いていました。台風で外部傷つけられたようですがしっかり咲いていました。

荒川に出ました。昔は荒川放水路と言って習いましたが、今はただの荒川というようです。

★ランドマーク荒川放水路:埼玉県と東京都の東部を流れる荒川の水量を調節し、東京の下町を洪水から守るためにつくられた迂回水路。東京都北区にある岩淵水門で、旧本流の隅田川と分かれる。川は足立、葛飾、江戸川などの区を通り、下流で綾瀬川、中川と並行して東京湾に注いでいる。なお、国土交通省河川局では、荒川放水路を荒川、岩淵水門から南流する旧荒川を隅田川とよぶ。1910年(明治43)の大洪水後に、内務省によって計画され、1911年着手、1930年(昭和5)完成。延長24キロメートル、幅450580メートル。記録された最高水位は、1947年(昭和22)のカスリーン台風のときで、9メートルの堤防すれすれまで達したが氾濫(はんらん)は免れた。以後もこの放水路が功を奏して東京下町の水害を防いでいる。

昔は荒川放水路と呼びましたが今は、隅田川と荒川と分けて呼ぶようになり、放水路はただの荒川で良いようです。

河川敷はどこまでも平らな道が続いているという感じです。

逆井橋のように、昔渡しだったところに橋が架かりますが、ここでは橋の跡が船着き場になっています。下流に今の葛西橋が見えます。さらに下流から葛西橋を見ています。

さらに下流のところに船着き場(新砂リバーステーション)がありました。

秋の七草に葛の花が載っていますが、ここで葛の花をみつけました。

上流で見つけた時は一輪でも喜んで撮りました。一輪でも葉をかき分けるようにして写しました。

ところが船着き場あたりにはいっぱい咲いていました。

秋の七草といえばススキもありました。

去年も同じころきましたが、キバナコスモスが印象的でしたが今年もいっぱい咲いていました。だいぶ台風には痛めつけられたようです。

帰りがけに大島・小松川公園に寄ってみました。いろいろありましたが、葉鶏頭です。

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