(*゜Ω゜*)

近ごろは図書館巡りをしています。その土地の文化財(だいたい城館)も訪れます。

菖蒲図書館(久喜市) 38番札所

2019-07-04 | 図書館八十八箇所巡り

 菖蒲図書館には、来たら閉まってた!時のことは覚えています。
が、中に入館したことがあったかは、
あったような気もするし、ないような気もする、
という図書館です。
 図書館の写真で、建物の全景を撮ろうとすると、
何やら建物が新宗教かなんかの神殿風に見えます。
 館内では田舎のほうが図書館らしい静けさを感じます。
利用者は少なく閑散。
うるさいのは、寝てるジジイただひとり。
地域資料の隣りの雑誌コーナーの隣りのソファで寝てます。
ソファの背もたれの角部分に頭を固定し、姿勢をを安定させてリクライニングシートにでもいるかのように、
寝る体勢をつくって寝ています。
ここで寝るのになれている常連っぽい。
 図書館で寝てる人は見かけますが、こんだけ寝ます!って体勢で寝てるのも珍しい。
 クコオオオオってかんじの息を吸い込むようなイビキをかいている上に、
口呼吸でのどが乾燥するのか、むせたり、せき込んだりしててうるさい。
寝てるのに、うるさい。
 地域資料はけっこう、充実していて菖蒲だけでなく、久喜市、県内と面白そうなのがありました。
広さのわりに蔵書が少ないような。
それだけスペースがゆったりあります。
雑誌は貧弱で、野球は一棚の一段分くらいと少ない。
と言っても十分に図書館を見回っていません。
具合の悪さに耐えきれず、腹痛でトイレへ。
そのまま撤退してしまったので。
 記憶はきっかけで再現されるものですが、この図書館に来た記憶は、
やっぱり来たような気もするし、来たことがないような気もします。

両図とも国土地理院をもとに作成

 明治期の湿地図で、菖蒲城の郭がピンポイントで浮かんでいます。
湿地(黄色部分)の真ん中で、おそらく北東部へ土橋があったと推定。
北東には宿という、城下町とわかる地名があります。
 城跡は現在はあやめ園で、以前に訪れたときは花の時期ではなかったので、
人気もなく荒涼とした荒蕪地?みたいな殺風景さでした。
で図書館の訪問時は訪れませんでした、モチベーションもないので。



 徳川家康が関東に入部すると、菖蒲城は廃され、
この地を拝領した内藤正成は栢間陣屋を建てます。
台地(オレンジ部分)のただ中という立地、
常道では台地の両縁にある川に面した地を選びます。
しかし、内藤正成は軍事的ではなく居館・政庁として陣屋を構えたことが分かります。
正成は武名高く、軍歴も豊富なので十分に分かった上のことと思います。
ここら辺は関東平野のまっ平ら地帯で、城砦を築くのには難しい。洪水のある低地(堆積土から過去の大水害が判明している)の菖蒲城は要害で戦国時代には適していますが、居館には向いていません。
 戦になっても内藤正成が陣屋に立て籠もることはなく、江戸の将軍、または徳川四天王のような重臣の旗下に付されるので、軍事的である必要はありません。陣屋の土塁や堀は武家館の建築形式的なもので、江戸時代の役人侍の刀と同じで実用ではない。江戸期の陣屋は時代が進むと、堀も土塁も地形的特徴もなくなるようで、今日知られる陣屋は江戸初期のものばかりです。江戸の太平の世では、江戸城下の大名屋敷風に変化したと考えられます。
 内藤正成の陣屋があることは知っていましたが、なぜかまったく気にしていなかったのですが、地域資料を読むと興味が湧いてくるものです。
栢間小学校とその南方が跡地ということで、こんなとこにあったのかと思いました。近くを通る機会があったら訪れようと思います。



上尾市図書館平方分館 37番札所

2019-06-24 | 図書館八十八箇所巡り
 小学校の一部が図書館になっています。
入り口を開けて、閉じた扉がドタンッ!って。
びっくりして、司書さんに挨拶を返し忘れた。
田舎の利用者の少ない図書館だと、不審者扱いされて監視されて居た堪れないから、
挨拶するようにしてるんですが、ドタンって音に肝を潰して仰天してしまった。
 図書館は、おはなしのへや・児童書・一般書で三等分されてる。
ちょっと古めの施設。
滞在してる利用者はいなくて、入って用が済んだら退館の利用者が5人弱くらい。
自分は地域資料を読んで、あと帰る前に一般書の書架を見回った。
一般書は蔵書が少なく、期待できない。とくに文学以外は。
これは前に来た時分から、分かってましたが。
 図書館訪問が目的で、今後は2度と来ないと思います。


国土地理院図を基に作成

凸マーク右側、宿北Ⅱ遺跡の吾妻左衛門是好館。
左が箕輪Ⅱ遺跡の三輪庄司好光館。
大宮台地(オレンジ部分)上の高台で、南側に小谷が入り湿地(黄色部分、明治期)を形成。
往時は水域だったかも。現在も葦原らしきものが見えます。
AとBの道のカーブが館の外周部だと推定します。
上尾橘高校の部分は人工改変地形を図示されています。
よく城館跡は学校になっている例がありますが、館に面した低地部分が学校になってるのはレアかもしれません。
城跡が学校になってるのは、元々高台の一等地でもあり平場に造成されてて十分なスペースがある。
明治維新後、用済みの藩の施設が学校や庁舎として利用された、などですかね。
 吾妻左衛門是好と三輪庄司好光は荘官と目されているので、武家館かは微妙です。
でも押領が跋扈しているので、荘園経営に武力は不可欠です。
 両者は叔父・甥の関係。
南側の平方河岸・渡しを管理し、関銭を徴収していたと推測されます。
荒川(瀬替え前なので当時は入間川)を渡り、河越へ向かう交通の要衝です。
 谷状の低地の北側に館があるのは、想定侵攻路が南側の渡し・街道とされていると推測されます。三輪・吾妻の領主権は馬蹄寺に継承されたのでは思われます。
領主権といっても上位の領家(オーナー)の下の代官(経営者)として。
馬蹄寺が谷の南の現在地に移転したのは1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の年です。全国政権の支配下に入り戦乱が終息し、以降は河岸場と門前町が一体化しました。
 縁起に三輪庄司好光が馬と化し人語をしゃべるという話しがあり、『上尾市史』などの地域資料、『新編武蔵風土記稿』は取るに足りない作りばなしって感じで切り捨てています。
 わたしは訳わからない話しが、パッケージ化された現代版の昔ばなしと違う魅力があると思います。
しゃべる馬といったら妖怪の件(くだん)をイメージしましたが、仏教説話風ですかね。
 旅の法師が吾妻左衛門是好の館に泊めてもらったところ、にわかに盗み心がおこり遁走しようとすると、馬になった三輪庄司好光に止められ、あなたも私のように馬になって苦役をすることになりますよ、と。私(馬の三輪庄司好光)はようやく解放され明日には極楽往生できます、と言ったそうな。
 次の日、馬が蹄を折って死んだと聞いた法師は吾妻左衛門是好に前日のことを話した。甥の吾妻左衛門是好は叔父が馬になっていたことを知らなかった。
 馬蹄寺の寺号の由来のお話し。


吾妻左衛門是好館址 馬蹄寺から遠望
画質が悪いし、撮影センスもなくて悲しい。
地形の特徴が表現できない、高低差のような。
画質はとりあえず、貧乏人には限界があるので諦め気味。
なんで枯葉剤を撒いてるんだろうか。


↑三輪庄司好光館址 荒川堤防上から遠望
上の地形図の矢印が撮影の方向です。

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熊谷市立大里図書館 36番札所

2019-01-21 | 図書館八十八箇所巡り

 半円の形をしています。
大きさ・蔵書・新しさとも平均的な図書館。
閑散として静寂。図書館って本来、こうだと思うけど。
見回るに色あせた背表紙が目立つ。
デアゴスティーニの『日本の城』がバインダーで閉じられているのがあった。
なぜか九州・沖縄と名将人物編だったかの2冊が。
ラグビーのコーナーあり。
 旧『大里村史』をもって、机のあるいすに座ろうとしたら何と手続きみたいのが必要って張り紙があって。
都市部の席が埋まってるような図書館なら分かりますが、ありえんくらい辺鄙な土地の図書館で?利用者はまばら、席はガラガラなのに。
辺鄙って言葉は褒めてます、素晴らしいです。私には都会志向はない、病気だから。
1席1席張ってあり、剥がれないように机上にラミネートされてる。
これ張り付けた作業を想像するとあほかと思います。
僻地には僻地のやり方があるのでは?
役人の特殊アビリティ「お役所仕事」の発動?

甲山古墳です。以前、訪れたときのです。

 古墳にも行きますが、甲山古墳に行こうと思ったのは『関八州古戦録』を読んだからです。
武州松山城を攻める側が、たびたび布陣するのが甲山古墳、興味を持ちました。
埼玉の城館を掲載するものにも除外されており、ぜひ仲間に入れてあげてください。砂久保陣場が取り上げられるなら、こっちも軍事遺跡として。
 県内2位、全国4番目の大きさの円墳ということですが、旧『大里村史』によると円墳との確証はなく、また前方後円墳とも断定できないだそうです。小山を利用したもので、江戸時代には参道が整備されていたと。
 円墳の運用というと上杉謙信・石田三成が陣した丸墓山古墳(埼玉古墳群)があります。
そっちを見たときも思ったのですが、頂上部に総大将がいたとしてバランス悪くね?と
大きい円墳といっても大分限りがあるし、半球形ですからね。
総大将の周りに小姓医師近習祐筆軍師使い番等みたいな側近がいて、それを近衛兵である旗本・馬廻りが守り…旗本らは斜面にいることなるので落っこちそうで使い番や馬廻りの騎乗兵も布陣しづらそう。
ということで円墳は物見用で、隣りあたりに本陣を設けたのではと。
甲山古墳では参道のへんに。
たとえ攻め込まれて円墳の高所を利用して戦おうとしても、前述のように限られたスペースなので兵員が少ない。すぐ攻囲されそうだし、そうでもなったら討ち死に濃厚。
ふつうに陣を捨て移動し、態勢を立て直すと思います。
以上、妄想シミュレーション。
円墳の戦陣における運用は謎。
 円墳でない可能性が示唆されていますが、ここに何度も軍が陣を構えたとなると野戦築城、陣地構築で古墳の改変も当然ですし、何やら符合してると思います。


川島町立図書館 35番札所

2019-01-14 | 図書館八十八箇所巡り
 利用者の少ない図書館という印象ですが、最近に何度か訪れますに利用者がちらほらいます。暖房目当て?
ここは司書のおばさんどもがベラベラとおしゃべりしてるのが一番の特徴でしょうか。顔なじみの利用者ともしゃべってたりします。
 利用者も孫を連れたババアがふつうに会話してて、子どもはグルグルと歩き回ってるゆるい図書館。
じいさんが机に伏せて寝ていても、ここは利用者が多いわけではないので、他に空いてるから迷惑でもない。
 ここでは週刊ベースボールか、さいたま新聞か、地域資料を読みます。
地域資料に出身であるソフトボールの宇津木妙子さん関連の書籍が数点あります。
おすすめは『道祖土家文書』ですかねえ。
小田原北条氏の命令書などの文書集で、北条氏の貴重な史料です。
中身は軍役・夫役・土地関連とありがちな内容ですが。
 2階には、ほとんど上がらないのですが、行ってみました。
蔵書が充実していて、スポーツ・歴史に読みたくなる本に目移り。
『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』を読みたい。
ただ著者に、いい印象がない。『真説・長州力 1951-2018』が失敗作だから。
なぜか秩父事件が分類されて、フィーチャーされている。
 書架を見回って思ったのは、本が倒れてたり、横になってたりが目立ち、こんな汚い図書館は他にない。
図書館で本がキレイに並んでるのは当然じゃないんだと思った。
司書のおかげなんだと。


道祖土氏館跡。
 家屋の前に白髪に黒混じりで髭の道祖土家御当主様と思しき御仁がおはしましたので、堀のことを伺いましたところ
「ぜんぶ、埋まっちゃった」とのこと。
水堀(この時は枯れていた)らしきものが残存しているのですが、あれは水たまりと断定。
 御館様のお仰せに従います。

比企氏館跡。
 宅地の端に位置し、水路を隔てた東側は農地。
立地を見るに、当時は東側には湿地が面していたのでは推測されます。

 行く前にネットで情報を漁るに、館の堀跡は堀跡ではないのでないかという説を拝見。
明瞭な堀状のものはあるが、これは墓域として整備されたものっぽい。古墳の周濠的な。
郭部としては小さすぎるし、石塔が整然と並んでる様子を見ても、けっこう近年に墓域を築造したのではないと思われる。かつての土塁、堀を一部利用した可能性はありますが。
真新しい墓石もあり、現役の比企さんのお墓のようです。
 比企氏については、比企能員の変以降に命脈を保った説。変より戦国期までの不自然な長い空白期間があるので仮冒説もあり、どっちか分かりません。なんで近くの故地である比企能員館址じゃない当地かも謎。
比企氏はちゃっかり、江戸幕府の直参になっています。

美尾谷十郎広徳館跡
『日本城郭体系』によると遺構なしですが、
武家館に取り込まれた古墳は確実に物見櫓台跡でしょう。
削られた上、いろいろ石造物が乗っています。

ここらへんは堀っぽい。

以前の水ありバージョンだと

 館跡は自然堤防上にあり、すぐ北側を入間川旧流路が通り、往時は湿地に面して、今とはまったく違った地勢だったようです。