どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設19年目を疾走中。

思い出の短編小説『黒はマジシャン』

2022-09-21 02:58:40 | 短編小説

 恵理子が異変に気付いたのは、停めておいた自転車をマンションの二階の窓から眺めたときだった。
 前カゴを覆っている防犯カバーから白いビニールシートがはみ出し、前輪の真下に何やら黒い塊が落ちているのを発見したのだ。
 (あら、何かしら?)
 あわてて階段を下り、マンションの通用口を出てそのまま自転車に向かって歩いて行くと、しだいに事の次第がはっきりしてきた。
 午前中に近くのスーパーマーケットで買い物を済ませ荷物を部屋に運んだ時、うっかり防犯カバーのファスナーを閉め忘れたのだ。
 だから誰かがカゴの中を覗こうと思えば覗ける状態だった。
 用心深い性格の恵理子だから、買いものを詰め込んだマイ・バッグから転がり出た物はないかとしっかり点検した。
 取り残したものはないはずだった。
 ただ、急な雨に備えてカゴにはビニールシートを入れてある。
 それが引きづり出されているのは心外だった。
 (風の悪戯っていうことはないわよねえ・・・・)
 このマンションには、学童と呼ばれる年齢の子供もたくさんいる。
 ちょうど春休みの時期だから、そのうちの一人が退屈しのぎに引っ張り出したのかもしれないと思った。
 (だったら、これは?)
 自転車の前輪近くに落ちている黒い物体に意識が戻る。
「やだ、わたしの手袋だ」
 近づいてまじまじと確認すると、冬じゅう使っていた布製の手袋だった。
 手首のところにゴム紐が入っていて、手にフィットする感覚が気に入っている。
 値段はたしか九百八十円だったか、普及品のわりには使い勝手のいい品物だった。
 普段は手袋を着けたままマイ・バッグを提げるのだが、この日はメールの着信音がしたものだから、あわてて手袋を脱ぎボタンの操作をした。
 ちょうど前カゴが空いていたので、無意識のうちに放り込んだことが考えられた。
 (それにしても失礼しちゃうわ)
 カゴの中へ入れたのは確かだから、誰かが手を突っ込んで放り出したということになる。
 ビニールシートだけなら風に煽られたと解釈できないこともないが、両手の手袋が重なるように捨ててあるとなると悪意まで感じる。
 このマンションは駅に近いせいか、子育て世代のサラリーマンに人気がある。
 保育園や幼稚園の待機児童数も近隣の自治体の中では少ない方で、若い夫婦は一定の子育てサイクルを全うするまで五年ぐらいはここにとどまる。
 やがて順番にマンションを出て行くことになるが、転勤が主な理由で、ごく健康的な住み替えのスタイルのはずだった。
 (ここには、そんなに悪い子はいなかったよね・・・・)
 恵理子は、子供に向けた疑念をすぐに打ち消した。
 夫に対して些細なことで腹を立て、相手が黙りこくってしまうほど追い詰めたこともあるが、すべては自分のせいと気づいてはいる。
 あとから反省するものの、その瞬間の感情の増幅は抑えられるものではなかった。


 恵理子たち夫婦には子供がいない。
 二度ほど妊娠したのだが、二度とも三か月目に入って流産した。
 医師の診立てでは、根気よく治療をつづければ正常な出産も可能という。
 しかし、恵理子の中では妊娠を疎ましく思う気持ちが芽生えていた。
 それに夫の勤めるアパレル会社の業況が下り坂で、やみくもに子供を欲しがる状況ではなくなっていた。
 そうなると、人との接触が急に疎ましくなった。
 たまに夫が求めてきても、あからさまに避けることが多くなった。
 恵理子がそうだと、夫の方も不機嫌になる。
 会話にも棘が多くなり、互いの関係がぎくしゃくとしてくる。
 それでも恵理子の爆発を怖れる夫は、最終ラインを踏み越えないよう慎重な対応を怠らなかった。
 夫が我慢しているのは、恵理子にもよくわかった。
 同情する一方、妻を叱りとばすこともできない夫を破壊したくなる。
 いっそ浮気でもしてくれれば、出口が見えてすっきりするのにと思う。
 思うだけで、いざそうなった時の覚悟などできているわけではない。 
「わたしのことをストーカーしている男がいるらしいの。あなた、どう思う?」 突然、前日の出来事を話題にした。
「まさか、・・・・心当たりでもあるのか」
 意表を衝かれたのか、夫は味噌汁の椀を取り落としそうになった。
「誰かはわからないけど、わたしの手袋にご執心なの。フェチっていうのかしら、きっと変態よ」
 恵理子は頭の中で、どんどん話を作り変えていた。

「・・・・今のところ身につける物に興味が向いているけど、いつ襲われるかと思う怖いわ」

「えっ、えっ、どこで手袋を奪われたんだ?」

「自転車置き場よ。誰かに見られている感じがしたから、前カゴに入れた手袋を取るのも忘れて大慌てで部屋に戻ったの。そうしたら、なんと・・・・」
「どうしたんだ」
「わざわざカゴから取り出して、これ見よがしに捨ててあるの。それも、左右重ねてよ」
「それがストーカーの仕業か」
 夫は、恵理子の説明だけでは腑に落ちないようだった。


 やっと会社の定休が取れた日、恵理子は夫から協力を頼まれた。
「お前がストーカー行為を受けたときの状況を再現してみたいんだ、いいかな」
 自転車のところへ行って前カゴのファスナーを開け放し、中へ手袋を入れたまま戻って来るようにというのだ。
 恵理子は試されたような気がして腹が立ったが、自分の作りだしたストーカー話が基になっているものだから、依頼を断るわけにはいかなかった。
「同じことをすると思う?」
 変質者など単に想像の産物なのだから、再現など無駄なことだと抵抗しかかった。
 だが恵理子は思い直して階下に降りて行き、前カゴの中のビニールシートの間に手袋を挟みこんだ。防犯カバーは半開きのままである。

 部屋に戻りながら、ストーカーを気にするふりをして二三度キョロキョロして見せた。

 フェチだの変質者だのと枝葉を付けたものだから、恵理子自身がその言葉に縛られている。

 夫は、なんとしてもストーカーの正体を突き止めるつもりのようだった。

 自転車置き場をまともに見渡せるのは、西側の寝室の窓からだった。

 案の定、夫はぴったりと閉じたカーテンの合わせ目に陣取り、わずかにずらした隙間から外を覗いていた。
「ずっと見ているつもり?」
「ああ、どんな奴かとっ捕まえてやるんだ」
「のこのこ現れると思う?」
「このマンションのどこかで、お前のことを見張っているのさ。いずれ手袋に釣られて悪戯しに来るかもしれないじゃないか」
 恵理子はあからさまにため息をついた。
「付き合っていられないわ」
 諦めたように言って、寝室を出て行った。
 リビング・ルームでテレビをつけた。
 路線バスの旅とかいう番組の再放送をやっていた。
 一度見た記憶があるが、行き当たりばったりの進行が気楽で、恵理子の性分に合っていた。
 思えば恵理子も杓子定規な成り行きは苦手だった。
 結婚したからには子供をもうけなければと思いこみ、その目的に向かって努力した。
 しかし、三年の間に二度の流産を経験し、その都度言うに言われぬ嫌な思いを味わった。
 自分のことだけでなく、夫にも夫の家族にも気兼ねしなければならなかった。
 その間の緊張感は、途切れることなく続いている。
 もう子供はいらないという思いも、緊張感と無関係ではない。
 人と接触することへの嫌悪も、恵理子の心理や生理を狂わしている。
 ストーカーの存在も、変態男の登場も夫との関係の中で出てきた話で、どこかに理不尽さが潜んでいることに気づいてはいる。
 だから恵理子には、自転車置き場を見張っている夫の行為をないがしろにできないのだ。
 ストーカーをとっ捕まえるという意気込みを、憐れみながらも愛しく思う瞬間もあった。
 (わたしの言ったことって、嘘ではないのよ)
 ビニールシートが引きずり出されそうになっていたのは事実だし、手袋がおしとやかに重ねた淑女の手のように組まれていたのも現実だった。
 ただ、二人の関係を壊してしまいたいとヒステリックな衝動に駆られたときからは状況が緩和している。

 波紋の原因はいつも恵理子の側にあり、その収拾のために周囲があたふたするのを、気の毒に思う気持ちはあったのだ。


 二時間近く経ったころ、寝室から悲鳴のような声が挙がった。
「おい、恵理子、犯人を捕まえたぞ」
 家の中にいて犯人を捕らえられるわけはないのに、夫はそういうのだ。
「早く来て! 早く早く・・・・」
 呼ばれた恵理子は、持っていたリモコンを放り出し、夫のもとへ走った。
「どうしたの?」
 恵理子が夫の肩に手をついてカーテンに顔を突っ込む。
 見るとビニールシートが前カゴの下に落ち、やや離れて黒い手袋が放り出されていた。
「ええ―っ、誰がやったの?」
「ほら、コンクリート塀の上にいるだろう。あいつだよ、あの野郎が犯人さ」
 夫の指さす方に、一羽の大きなカラスがこちらに背中を向けていた。
 正午近い時刻になって、陽光が漆黒の羽根に当たっている。
 禍々しいばかりの黒い輝きだ。
「あいつ、太い嘴でカゴの中の物を銜え出していたんだ。何か喰い物が隠してあると思ったんだな」
「へえー、カラスだったの・・・・」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 恵理子は夫の頬に頬をこすりつけ、肩に手をまわした。
「よかったあ、犯人がわかって。・・・・わたし、変態に狙われているかと思って怖かったんだもの」
 少女のようにブリッコをしているなと意識しながら、久しぶりに夫に抱きついた。
「おい、おい」
 恵理子の機嫌が好くなったことで、弾んだ声を出した。
 成算があったわけではないのに、何となくうまくいったことが嬉しかった。
 とりあえず今日のところは晴れの日と言える。
 その一方で、偶然もたらされた幸運がいつまで続くかと疑ってもいる。
 恵理子の笑みを受けとめながら、夫の方は気を引き締めていた。
「お昼は寿司取っちゃおうか」
 罪滅ぼしの気持ちもあっって、恵理子は携帯電話の電話帳をひらいた。
 もしもし、もしもし・・・・。
 <銀ずし>の受話器はたしか黒電話だった。先代からずっと同じものを使っていると言っていた。
「上寿司を二人前お願いします」
 黒は予測不能なところがあるが、不思議な力を持っている。
 黒い手袋、カラス、黒電話・・・・。
 黒魔術、芝居の黒子、漆器の艶。
 不吉なイメージばかりでなく、この日のように思いがけない幸運も呼んでくる。
 黒はマジシャン。
 恵理子のまわりのものが、手品師の小道具のように消えては立ち現れる。
「わたしにも、子供ができるかしら・・・・」
 恵理子が覗きこんだ腕時計の文字盤の上で、長針が音もなく動いた。


     (おわり)

 

(2013/04/07より一部修正のうえ再掲)

 

  

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