嶋津隆文オフィシャルブログ

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国立市の住基ネットの監査結果は摩訶不思議

2009年11月28日 | Weblog

写真:「監査結果を載せた新聞記事」

もし裁判である殺人事件について、裁判官どうしの意見がまとまらなかったとして、有罪無罪の判決を示さないということがあったとします。その裁判官は司法制度を崩すものとして世間の批判と嘲笑を浴び、無責任とも無能とも厳しくいわれることでしょう。

これと同様の事態が今回の国立市の住民による、国立市長に対する住基ネット切断の違法性とそれによる公金の不当支出の差し止めを求める監査請求に関して生じました。昨日のことです。

全国1780の自治体のうち、いまや国立市(と矢祭町)だけが、住基ネットをつないでいません。そのため国立市民はパスポートの申請に住民票を役所までとりにいかねばなりません。その数、昨年一年で5355件。年配者は年金の現況確認をやはりいちいち役所までいかねばなりません。その数、昨年一年で2680件。

こうした異常な行政措置を是正するため、先般住民が国立市に対し、住民監査請求をおこないました。その結果が、監査委員による摩訶不思議な対応だったのです。すなわち結論を出さず、単に両論併記の文書が公表されたのです。

国立市の監査委員は二人です。この二人(高橋、中川委員)はともに「住機ネットの切断は違法である」と一致して市長の姿勢を批判しています。最高裁も住基ネットの適法性を認め、国立市議会も接続を求める決議をしているのですから、当然です。

しかしこの違法な行為に対する公金支出については、高橋委員は「差し止めは不適当」、中川委員は「当然差し止めるべき」と意見が分かれ、その結果、市長への違法勧告を監査委員として放棄したのです。率直に言って、中川委員の一貫した論理性ある意見に対し、総論賛成―各論反対といった高橋委員の日和見性は、首長におもねる姿勢がにじみ出て痛々しいものがありました。

それにつけても今回の国立市の監査結果は、地方自治法に定められた監査委員制度という住民自治の根幹を崩すものとなってしまいました。結論なしと逃げた一監査委員の責任放棄の姿勢は、民主主義に大きな汚点を残したものといわなくてはなりません。公人として、恥じ入るべきものです。


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大和駅前広場での松蔭大生と市長の討論会

2009年11月21日 | Weblog

写真:「討論会後の松蔭大生と大和市長」

教員生活をしていると、若者から時に素晴らしいプレゼントを受けるものです。その一つが昨夕の大和市での、大木哲市長と松蔭大学の学生達との、大和駅前広場プロムナードの活性化についての意見交換会でのことです。

ことの起こりは松蔭大の観光学部の新設に伴う各首長への表敬訪問でした。地域の連携を重視したいとの大学の申し入れに大和市長が大いに関心を示したのです。「大和駅前の広場がただ空いているだけで殺風景だ。何とか市民に親しまれる空間にしたい。若い学生さんたちの意見を聞く機会が持てないだろうか」という話になりました。

昨日の会では学生から様々なアイディアが出されました。「レンガやもみの木で統一しシックな欧州風の駅構造としてはどうか」、「生演奏を聴けるオープンカフェとする」、「若者の芸術家の作品を展示し、大和駅前を芸術のスタートラインとする」、「老若男女の交流を考え、大道芸の広場とする」、「駅は別れを演出できる場所。ベンチや花は欠かせない」等。

しかし対する市長は、なかなか現実的です。駅舎は小田急や横浜銀行など民間のものなので調整がいる。予算もきびしいので簡単にはいかない。それでも、「壁に大きく絵を描いてストリートを通る人に楽しんでもらうとのアイディアはすぐに検討しましょう」という話などになり、学生達から大きな拍手を受ける場面もありました。

それにしても教師としては心配で、若い学生達が臆することなく市長に意見表明が出来るだろうか、親のような気持ちになっていたものです。ところが学生たちは堂々と、時にユーモアも交えプレゼンしたのですから爽快です。中には「予算は殆どかからないから、心配せずに着手して下さい」などと市長をたしなめる輩もおりました。

こうした光景に出くわすのは、まさに教師の醍醐味というべきでしょう。素晴らしいプレゼントを学生から貰ったものと、その帰路には同僚の教員たちとやき鳥屋で盛り上がったものでした。

それにつけても帰宅すると、紛糾していた国立市議会で駅周辺の整備計画の一部予算がやっと可決されたと聞かされました。しかし何と野党の自民、公明が賛成し、逆に与党の共産、民主、社民が不賛成だったというのです。“革新”市長誕生と言われて2年半が経過したいま、国立市政の非力と混乱を象徴するような屈折した風景が生まれたのです。

もっとも可決させたのであれば、確実にその整備計画の結果を出すよう、与党も野党も責任を持ってほしいと願うものです。国立駅周辺の交通混雑を考えると、道路整備は火急の課題であるからです。が、ここ10年以上もやるやるといってコトを進めず、検討会ばかりで時間浪費を重ねてきた国立“革新”市政への不信感は簡単には払拭できません。また口先だけで、仕事を放り出しはしないかと危惧してしまうのです。

大和駅周辺の整備での市長と学生との爽やかな議論の光景を見てきた後だけに、国立駅周辺の整備での市政の混迷の無様な光景には、一層気持ちを暗澹とさせてしまうというものです。

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映画「沈まぬ太陽」と御巣鷹山の黒澤村長

2009年11月15日 | Weblog


「黒澤村長像」


「慰霊の園」

(写真は平成20年8月本人撮影)

映画「沈まぬ太陽」を見ました。3時間を超える長編ですが、小説の緊張感がよく維持され、飽きることなく見終えました。渡辺謙演じる主人公が余りにも一徹に過ぎ、他方で敵役の会社がどうしようもなく犯罪的という、極端なデフォルメのされ方に違和感があるというものの、十分見ごたえのある出来のドラマというべきでしょう。

冒頭から最後まで、JALの500余人の生命を奪ったジャンボ機墜落事件が基調となっています。それだけに御巣鷹山の斜面に林立する墓標のシーンに、遺体の処理や救助隊の活動を、村を挙げて支援した上野村村長のことを改めて思い出した次第です。

黒澤丈夫村長。大正2年生まれといいますから、一昨日亡くなった森繁久弥と同じで96歳となります。昭和60(1985)年の事故当時、自身が海軍の零戦のパイロットであった経験も生かし、極めて優れた陣頭指揮を執ったことで有名です。遺族からもJALからも信頼されていたともいわれます。

10期40年を村長として過ごし、平成17年に辞職。その村長を昨年の8月末、村の自宅に訪問しました。御巣鷹の慰霊の園にお参りするとともに、かなり高齢となっている黒澤村長の、往時の生の話を直接聞きたかったからです。

折悪しくも風邪をひいて伏しておられた村長でしたが、しかし話がいったん市町村合併の件に及ぶや、声高に反対論を展開し始めたのです。こんな小さな村を合併したら、住民はとても生活していけなくなる。合併は都市の論理であり、金持ちの論理であると憤然として語り続けられたのです。

黒澤村長は墜落事故の後、その優れた行動力が評価を受けてでしょう、全国市町村会の会長に推挙され、任に就くことになります。しかしその立場にたっても彼は、当時どたばたと進められようとしていた市町村合併推進の政府の動きに、断固として異を唱え続けるのです。

JAL事故に伴う犠牲者慰霊事業への粘り強い働きもさることながら、村人の視座から一貫して市町村合併に反対し続けた黒澤村長。その姿には、映画「沈まぬ太陽」の主人公にも通じる、信念の一徹さというべきものを感じさせられたものでした。

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当節、霞が関の諸兄には同情します

2009年11月07日 | Weblog

 

読売新聞が興味ある連載をしています。読まれている人も多いことでしょう、一面での「民主イズム」です。今は新政権と「官」との軋みを取り上げています。毎回読んでいて、民主党の「つまみ食い」方針に振り回される霞が関の諸兄に同情を禁じえません。

“脱官僚”を声高に叫ぶ民主党の、役人に対する公約にはこうあります。
「定年まで働ける環境をつくり、天下りのあっせんは全面的に禁止する」
「総人件費の2割を削減する」

確かに幾つもの天下りや渡り歩く度の高額退職金の話を聞くのは不愉快です。役人という職を選んだということは、カネ儲けでなく、清貧でも社会に貢献する人生を選択したということなのですから。その点で今の国の役人制度には改革の余地がいっぱいあります。又この問題を放置してきた自民党の不作為も明らかに犯罪的です。

しかし定年前の肩たたきで退職するのは毎年4000人。この人たちを定年まで雇用するとしたら、その国費は膨大です。また就くべきポストもなく、腐ってしまう役人が山ほど出てきます。現に政治主導という掛け声の下で、政策立案にも関与できなくなり、もうやる仕事なんかないよと霞が関の友人は意気消沈しています。

こんな無駄なことはありません。無駄を省くんだと叫ぶ民主党が、その一方で官僚の能力を次々に生ゴミとして捨てているのですから、こんな無駄はないのです。ゴミ扱いをされるとしたら早晩国の役人希望は減り、また現職も辞めて他に行くことでしょう。そうした場合にこの役人たちはどこへいくのでしょう。ちょっと考えてみます。

1番に選択するのは政治家になることでしょうか。イジメられるばかりならイジメる側に回ろうと思うのは当然で、しかしこれには民主党が困惑するでしょう。2番には地方公務員になるという選択です。が、地方自治体もそこでの秩序があり一方的な天下りは拒絶します。3番は大学の教員という選択です。しかしこれは、ただでさえオーバードクターで苦しむ若い学究者の労働マーケットをさらに奪う点で問題となります。

かように新政権のやり方は、全体のバランスを考えず一面だけで突き進む、たいへん危ういものだと心配します。いわんや先日の、“脱”官僚の掛け声の下、“過去”官僚の亀井さんが大蔵次官だった齋藤さんを郵政社長に据える人事などをみると、その身勝手さには開いた口がふさがらないというものです。これにはさすがの霞が関の後輩諸兄も焦っていて、かえって霞が関全体への反感が高まりはしないかと嘆いているようです。

 


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