東北関東大震災の痛々しい生活ぶりが連日放映されています。そんな中での、地域ぐるみで助けあっている人々の姿には改めて感服するというものです。ところでこの災害対策に関し指摘しておかなければならないのは、国立市に見られる、びっくりするような政治路線です。
2004年に国民保護法が制定されました。外国からの武力攻撃やテロに対し、国民の保護を図るための立法です。その一環として地方自治体に国民保護計画を策定することが求められました。ところが国立市長は、戦争に加担はしないなどといって、この制定に拒否の姿勢をとったのです。
しかしこの保護計画は地域での防災計画に深く関連するだけに、いざという災害時での地域での助け合うしくみづくりを機能させないことになってしまいます。これは地域にとってたいへん危険なことと言えるでしょう。
その一方で国立市は「無防備地域宣言」条例の制定を進めようとしました。2005年のことです。「宣言をした地域には攻撃を行うことを禁止する」というジュネーブ条約を根拠にし、「宣言しさえすれば平和は守られる」というのを謳い文句としました。もちろんその危険な空想主義は市議会で否決されました。
この運動には激しい批判があります。「(無防備宣言は)いわば都市単位の無条件降伏であり、外患誘致罪、外患援助罪にもなりかねない」(ウィキぺディア)というものです。しかもこの全国運動を進めるMDS(民主的社会主義運動)は「構造改革派の新左翼党派であり、民学同の流れをくみ」(ウィキぺディア)、公安調査庁の白書での「過激派」に指定されてもいるのです。
国立の上原公子前市長は今もこのMDSのHPに登場し、無防備都市宣言の拡大を訴えているのです。関口博現市長も同じ政治路線をとり、国民保護計画を拒否し続けているのです。すなわち北朝鮮に利し中国に加担するこの路線が、何と首都郊外の国立市で展開されているのです。地震と同様に極めて危険なことという他ありません。
3月末のこの時期、国立の大学通りには早先の桜がところどころに咲くのが通年です。それが今年は一本として咲いていないことに気づかされました。昨日の27日(日)のことです。
隣の座席に乗っていた友人が、「きっと桜も、放射能に晒されることを警戒して、花弁を開くことを躊躇してるんですよ」とコメントしました。苦笑しつつも、生命に敏感な生物であれば、ひょっとしてあり得ることかもしれないと、ヘンに納得してしまったものです。
そんな折、私の自宅のメールに、今年卒業する4年生の学生から幾つかのメールが入っていました。「先生、本当にお世話になりました。元気でお暮らし下さい」といった類のお別れメールでした。何ともうれしいものです。
松蔭大学も地震の影響で卒業式をとりやめました。それだけに、こうしたメールを受けると、学生たちを笑顔と大きな拍手で送り出してやりたかったものと、忸怩たる思いが湧いてくるというものです。
加えて多くの学生が就職も決まらないままに大学を去っていきます。そう考えれば、出来ることなら学生も、放射能に身を隠す桜の蕾のように、不況が去っていくまで待ち切れればよいものをと思わない訳には行きません。
放射能も去り、不況もさり、桜満開の暖かい春の日差しが降り注ぐ季節になることを祈るばかりです。それにしても何という無力感の昨今でしょう。
一か月後に迫った国立市長選挙に佐藤一夫さんが立候補すると昨日の新聞にありました。地の生まれの、団塊世代の元市役所マンです。
佐藤一夫さんは、国立に住んでいた作家山口瞳さんの『男性自身』に登場する「市役所のガマさん」に外なりません。嵐山光三郎、滝田ゆうといった面々の飲み友達で、したがって映画『居酒屋兆治』にも顔を出す人気者です。国立市役所の福祉部長を最後に退職し、今は社会福祉協議会の会長です。
その経歴から、きめ細かい地域の福祉行政が期待できるとともに、住基ネットについては「住民の利便性の確保の視点から接続したい」(読売新聞 3月17日)と明言しています。偏った国立市を改革する恰好の人物といえましょう。
インターネットで見ていたら、こんなプロフィールが紹介されていました。
「このガマさんというのは、谷保村の大地主の末裔の一人で、まことに愉快でピュアな人物で、市役所を退いたあと今も福祉関係の仕事で現役で頑張っている」(ふうてん老人日記2006年7月30日)。
そういえば一昨日、山口瞳さんの奥さんが亡くなられたと連絡がありました。国立から「山口組」(山口瞳を取り巻く国立在住の関係者をこういう)が少なくなることは淋しいものです。滝田ゆうさんも逝かれてもう10年です。佐藤一夫さんは葬儀の手伝いに奔走したようです。
ところで「山口組」のことを考えていると、当たり前のようにサントリーの「アンクルトリス」が思い出されます。したがって今日のカットは柳原良平としました。このカットは、明るく酒を飲む好漢、佐藤一夫さんにエールと期待を送る趣旨でもあります(笑)。
写真:「左はかの子、右は一平の墓」(本人撮影)
今年は岡本太郎生誕100年とか。それを記念してNHKドラマ「TAROの塔」が放映されています。昨夜(土曜)はその2回目で「青春のパリ」。なかなかの凝った作品で、とくに寺島しのぶ演じる岡本かの子の濃厚な容貌と生き様に圧倒されました。
その岡本一平、かの子、太郎の家族は揃って多磨霊園に眠っています(16区1種)。墓の散策好きな私は、ドラマの影響もあって今朝ほどもここに足を運びました。そして改めて、一平の墓に立つミニ太陽の塔、かの子の墓に立つ観音像、太郎の墓で土の中からぬっと顔を出す異形の像と、その3者が演じる饗宴を楽しみました(写真参照)。
それにしても岡本かの子と聞くと、思い浮かべる歌があります。満開の桜を前にして作られたもので、私の大好きな歌の一つです。
「桜ばないのち一ぱい咲くからに 生命をかけてわが眺めたり」
どうしてこんなに躍動的で、官能的な生命賛歌を謳いきれるものだろうかと、口にする度にこれまた圧倒されるというものです。
ところで桜といえば、国立の大学通りも桜通りも、春には目の眩むような満開の風景を演じます。しかし日常の稚拙な市政運営で混乱するばかりの国立市の様子を聞くとき、せっかくの色鮮やかな桜花が、モノクロのように無彩色の世界に変わってしまうのは否めないというものです。
写真:3月3日付け読売新聞記事
今朝の読売新聞に、住民訴訟をめぐり自分のブログに原告の実名等を書いた国立市の、重松某市議が訴えられたとの記事が載りました。「係争中の裁判の原告」の氏名は、もっとも尊重される市民のプライバシー権です。それを当り前のように露出したというのですから、この市議は明らかに法を犯しているといえましょう。
彼のブログをみてみると、原告の氏名はもとより、事業所の所在や職業、参加しているスポーツチーム、友人関係などを露出し、大きく掲載していました。市民が「私たちの行動を中傷し、委縮させ、挫折させようとしている」(声明文 読売記事)とあったというのは、当然の怒りでしょう。
こともあろうにこの市議は、個人情報の保護を平素しばしば口にし、そのことから国立市長が行っている住基ネットの違法な切断まで了とする政治姿勢をとっています。プライバシーに関する公人市議の倫理感が、これほどまで浅薄で表面的なものであったことに愕然とするばかりです。
にもかかわらず彼の今朝のブログでは、すでに公表されている情報だと言って開き直っています。2年前に住民監査請求を行った時の、請求人の中に同じ名前があったからと言うのです。いうまでもなく監査請求と住民訴訟とは違います。それを自分勝手に考えて、「係争中の裁判の原告」名をさらけ出したというのですから、自治法の知識もなく、これはもう手の付けようがありません。
ちなみに今回とまったく同様の事件で、岐阜の地裁は最近、原告名を公表した市長に、原告への慰謝料の支払いを命じていると聞きます。