前回からの続きです。
それで、何が言いたかったのかといいますと、書道というのは、普通の半紙のサイズだと、書いている時間は、せいぜい1、2分というところでしょう。それでいて、後からの修正がきかない。書のことはよくわかりませんが、一般に、書道は書き終えた後に、小筆でそれを修正したりするのを忌むのではないかと思います。もちろん、法律で罰せられるわけではありませんから、それをしてもいいのですが、その瞬間をとらえるということが書道の醍醐味ですので、あとからチマチマ手直しするのは、好まれないのでしょう。
そうしますと、書を書くというとこは、その時点での心と体のありかたの変化を、記録したものということになります。1分なら1分という時間のその心理的・肉体的な変遷を記録した、テープレコーダー的な意味を持つわけです。
絵画や小説では、後で修正するという作業は普通のことです。油絵などは、どんどん上から塗りなおすことが可能ですから、最初に描いたものが自分の理想と反した場合、塗り替えていきます。小説などでも推敲して、言葉を追加したり削ったりということをします。
書道は、そのようなことをほとんどしないということで、その瞬間の動きの変化というのを確実にとらえることになります。
現代は、テクノロジーの発達で、ビデオで自分の動きを撮って確認するのは、容易です。ですが、100年以上前の人達は、そのような機器はありませんから、どうやったら、自分の動作を記録に残してチェックできるか、ということを考えたんだと思います。
それに役に立つと考えられたのが書道だったんでしょう。型稽古などで、いろいろな技を稽古しますが、それらは一瞬にして、過ぎ去っていきます。ですから、後で見直すということは、なかなか難しい。すべての動作を記憶に刻み付けることはできないし、自分の動きを俯瞰することもままならない。おそらく江戸時代とか、それぐらいのときは鏡というものも高価であったでしょうから、自分の体全体を写すような鏡もあまりなかったのではないかと思います。
昔の武術家で、書をたしなむ人が多かったのは、そのあたりの事情もあるような気がします。
またまた、終わりそうもないので、以下、次号(笑)。