日々遊行

天と地の間のどこかで美と感じたもの、記憶に残したいものを書いています

白薔薇の記憶 串田孫一

2009-05-31 | Flower

私は紙にくるんでもらった白いバラをもって家に帰った。
みちみちバラの匂いを嗅いでみたが
あの広い庭のバラの中で一番いい匂いのものとはどうも違ったし
その芳香はどんどん衰えてゆくようだった。

  

そのバラの種類は何であったか。
ただ、白い花であったことしかわからない。
しかし花のかおりはどうであったと説明できないけれど、再びそれに出合えば
必ずこれだとわかるような気がしている。
それで白いバラの花があると、つい匂いをかぐ癖が出てしまう。

                                               串田孫一 「草原に落ちた星」 薔薇 より


Album Cocteau ジャン・コクトー

2009-05-30 | Jean Cocteau

フランスの出版社、GALLIMARD(ガリマール)社にはプレイアードシリーズがある。
このシリーズから刊行される作家は一流の文学者として立証されるものだという。
日本でも大型書店の洋書売り場で、数は少ないながら各作家の本を入手することが出来る。

Albumcocteau


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プレイアードシリーズからは毎年一人の作家をとりあげて特集版として発行する。
しかしフランスではこのアルバムが単品で売られている訳ではなく、
プレイアードシリーズの本を3冊購入するとアルバムがプレゼントされるというもの。

ジャン・コクトーは2006年度版で刊行された。
彼の生涯を追いながら、書籍、舞台、映画、デッサン、交流のあった友人、自筆の手紙、
作品の下書きなどが多くの写真と解説によって紹介されている。


未知の千年の月日を

2009-05-28 | 


  

  どこからともなくやってきた                 

  大聖堂の時代

  古き世界は歩み始めた

  未知の千年の月日を

  それは人々にとって

  ただ登り続けなければならない歳月

  星の下を

  星は人の命を超えて生きる

  ガラスの中に 石の中に

ミュージカル
「Notre-Dame de Paris」 より


世田谷某所の一風景。
石のプランターに落ちかかるクレマチスは、時の彼方から浮上した花の陰影のようにそこに咲いていた。                       


「ポトマック」 澁澤龍彦 訳

2009-05-23 | Jean Cocteau

ジャン・コクトーが「ポトマック」を書いたのは1913年~1914年(コクトー25歳)であったが
第一次世界大戦が始まったため、遅れて1916年にこの世に出ることになった。
訳者の澁澤龍彦は大学を卒業した一年後にコクトーの一語一語を自分の言葉に変えていたと語っている。
1969年 薔薇十字社発行

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「ポトマック」は小説であるが物語らしい内容はなくPotmak_ujyenu
コクトーがノートに書きためていたものを1冊にまとめものがこの本の誕生となった。
コクトーのデッサンによるウジェーヌたちは、人間のあらゆるところに入りこんではその精神を食べる存在として登場する。

この頃のコクトーは苦難の時であり自己変革を強く意識していた 時でもあった。
そして「見えざるもの」が突然ペンの先に現れる。
それはウジェーヌの姿を借り、過去の自分から脱皮するコクトーの内的改革の願望であり欲求でもあった。                          

この小説はその後のコクトーが自分の存在意義に用いた「死と再生」がすでに表れており、
青春期の迷いから進むべき方向の道しるべともなる作品となった。

「それは1冊の本ではなくて、序文であることがわかった。一体何の序文やら?」          

                                                                                             「ポトマック」より


5月 薔薇のすがた

2009-05-20 | Flower

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ChenkaroseAwapinkPinkroe
盲目の夫人は白い杖をつきうす曇りの湿った空気の下をひっそりと歩いていた。
それは、そろそろと歩いているまだ若い女性で、
支えているのは父親か齢の離れた夫とも見える紳士である。
二人はここというところで立ちどまり
男がその手を把(つか)って花に触れさせる。
女性は深々と息を吸ってその香りを楽しんでいる。もう、それと見ただけで私はみっともなく泣き出していた。             

                                                                         中井英夫 『薔薇幻視』 より             

 


ジャン・コクトー 日記 『定過去』 より 2

2009-05-18 | Jean Cocteau

ジャン・コクトーが1951年から没年まで書いた日記はコクトー自身によって
『定過去』と名づけられ、時には絵も入れて書かれた。(笠井裕之 訳)

1952年6月9日より抜粋

Coctea_dermi_ves_2 生涯をつうじて、死後もなお、わたしは曲解され、侮辱され、誹謗され、
泥の中を引きずりまわされることだろう。
おそらくわたしは、それと引きかえに、静けさと愛する者たち
〔エドゥアール・デルミットとフランシーヌ・ヴェスヴェレールのこと〕 の信頼とに
つつまれたこの幸福を手にしているのだ。
 そのためにどんな高価な代償を払っても足りるということはない。

デルミットは1947年にコクトーと出会い、その後養子となった。
ヴェスヴェレールは、1949年にコクトーと出会う。
以後、彼女が所有する南仏の別荘とパリの邸宅はコクトーの自宅同然となった。

                                      現代詩手帖「特集コクトーの世紀」より

写真はベニスでのコクトー、デルミット、ヴェスヴェレール夫人(1951年7月)


ケネディに捧げたライラックの詩

2009-05-17 | Flower

1963年、アメリカ合衆国第35代大統領ケネディが暗殺された時
アメリカの新聞はウオルト・ホイットマンのライラックの長い詩を全文掲載したという。



遅咲きのライラックが前庭に咲いて、西の夜空に大きな星が早くも沈んでいったとき、
わたしは嘆き悲しんだ、そしてなお、永久に帰ってくる春ごとに嘆き悲しむことであろう。

永久に帰ってくる春よ、
おまえは必ず“組になった三つ(トリニティ)”のものをわたしのところに持ってくる。
多年草の花咲くライラックと西に沈む星と。それに私の愛するひとの思い出と。

                          『草の葉』より抜粋 木島始(詩人)訳


ウォルト・ホイットマン◆(アメリカの詩人、1819年~1892年)
自由をかかげた詩を多く書いた。小学校教師を経て新聞や雑誌の編集、発行にかかわりながら詩作を続け
代表的な叙事詩『草の葉』は一生を通じて書き改められた。日本には夏目漱石によって紹介される。

花言葉◆初恋の感動


ポスター Jean Cocteau

2009-05-15 | Jean Cocteau

Poster_cocteau 「Jean Cocteau」 と題されたイラストによるポスター。Poster_cocteauup
描かれているのは中央に「双頭の鷲」、右側に「恐るべき子供たち」、左側が「悲恋」

イラストながらコクトーが映画で描いた至高の愛を、淡い色調でクラシカルに仕上げている。
51,5cm×72,5cm CABLE HOGUE社発行 製作年不明

          イラスト KOU  MURAKAMI


緑さす

2009-05-14 | Flower

 

   Midoritomurasaki     

今頃のように 若葉が萌えたつさまを 「緑さす」 という。
「新緑」は芽から生まれて葉になったもの。
やがて葉は少しずつ青葉へと変わり「深緑」になる。


     
              Dengon    
ガーデニングの伝言
6枚もの貴重なDVDとメッセージ。植物の美しさを私に与えるため、多くの時間をつないでくれたM様、
ありがとうございました。
永久に変わらないこころを教えていただいた気がします。


虞美人草

2009-05-13 | Flower

Gubijinsou   力 山を抜き 気 世を蓋(おお)

  時 利あらず 騅(すい) 逝(ゆ)かず

  騅の逝かざる 奈何(いかん)すべき

           虞や 虞や 若(なんじ)を 奈何せん

紀元前203年、垓下(がいか・現在の中国安微省)で、
漢の劉邦と楚の項羽が戦った際(垓下の戦い)、
楚の陣営をぐるりと囲った敵方から、楚の故郷の歌が聞こえてきた。
「四面楚歌」の中で、項羽はもはや戦況が不利と悟り最後の宴を開き
愛妾虞姫にこの歌を詠んだ。騅すい)は項羽の愛馬。

項羽の歌に対して虞姫の返歌は悲しい決意と潔さが表れている。

           漢兵 己(すで)に地を略し

           四方 楚歌の声

           大王 意気尽きて

           賎妾(せんしょう) 何ぞ生に聊(やす)んぜん

項羽の胸中を察した虞姫は、最後の舞を踊りながら自害、
翌朝、項羽も漢軍に突入し31歳の 生涯を終えた。
「両雄並び立たず」といわれた6年間にわたる項羽と劉邦の攻防戦は
劉邦の勝利によって幕を下ろした。
そして虞美人が流した血のあとにヒナゲシが咲きこの名がついたという。

花言葉◆なぐさめ


躑躅

2009-05-11 | 泉鏡花

泉鏡花の短編、「竜潭譚」には満開の躑躅(つつじ)が多く描写されている。
その色彩の鮮やかさと、ただならぬ量感が妖気をおび、
躑躅という植物が見えない恐怖あるいは幽玄な美しさを生み出している。

Tutuji

路の左右、躑躅の花の紅なるが、見渡す方(かた)、見返る方、いまを盛りなりき。

行く方(かた)も躑躅なり。来し方も躑躅なり。山土のいろもあかく見えたる。

両側つづきの躑躅の花、遠き方(かた)は前後を塞ぎて、

        日かげあかく咲込めたる空のいろの真蒼き下に、

        彳(たたず)むのはわれのみなり。

        目もあやに躑躅の花、ただ紅の雪降積めるかと疑はる。

                                                                      泉鏡花 「竜潭譚」 より抜粋


躑躅の路。行けども行けども帰る家は近くならない。
姉にだまって出てきた悔恨が少年の心を不安にさせる。
途中でみかける鮮やかな蟲は躑躅の奥から現れた美女の化身だったのか? 
不思議な一夜。 物語のラストは夥しい量の水で町は水没する。
現実と夢想のぎりぎりを描いた泉鏡花の作品。

花言葉◆燃える思い、情熱                                              
他に使用した花◆パンジー                                                                  

 

 


『ALLEGORIES 』(アレゴリー) JEAN COCTEAU

2009-05-09 | Jean Cocteau

Allegories
詩集『アレゴリー』はジャン・コクトーが評論や紀行、回想録などを
書いた後に手がけた久しぶりの詩集であった。
この頃は、ジャン・マレーの強い要望により阿片解毒治療のためリヨテー病院に入院中で、
その時に書いた詩やマレーに書いた詩も含まれている。
1941年 フランス・ガリマール社出版 限定1398部の500番台

Pourquoi ai-je, malade, �・crit ces vers

Puisque je souffre trop pour tenir une plume?

H�・las la poesie et moi jadis nous plumes

Et j'en garde a jamais ma tenebre a l'envers.

苦痛もはげしくペンすら持てぬ僕が、

なぜ、こんな詩を書くか?

ああ、その頃、ぼくたちは

<詩>とか、<ぼく>という言葉をいたく愛していた、

今のぼくは、その裏返しにされた闇を守るだけ。

           釜山 健 訳

この『アレゴリー』は1930年代に書かれた詩を集めているため、内容は第二次世界大戦が迫る不安を感じさせる
コクトーの心情が色濃く出ているものが多い。
アレゴリーというタイトルの通り、戦争を起こす見えない敵を、さまざまな神話や歴史上の人物、
天使、少女にまで姿を変え、そこにコクトー自身の夢想や深層を織り交ぜてヨーロッパへの失望を描いている。                                   


翠雨

2009-05-07 | Flower

Midoritotuyu 
  春雨はこのもかのもの草も木もわかず緑に染むるなりけり   俊成
  草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ     寺山修司
                         

青葉を濡らす雨が空気をみどりに彩る。
青葉にふる雨を翠雨(すいう)、緑雨(りょくう)という。
水が粒になって葉に宿る風景を切り取っただけのしずくの宇宙。


石井筆子 いばらの道を

2009-05-06 | アート・文化

明治維新後、近代日本国家へと急ぐ動乱の時代に知的障害児のために一生をささげ
日本で初の障害児福祉施設「滝野川学園」のためにいばらの道を歩いたひとりの女性がいた。

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石井筆子は1861年(文久元年)、現在の長崎県大村市に生まれた。 
父、渡辺清は大村藩士であり薩摩藩からも信任を得ていた人物であった。
父と叔父はのちに新政府に赴き筆子も東京女学校に学んだ。
叔父の渡辺昇は筆子を大変かわいがり、鞍馬天狗のモデルにもなった人物である。

多くの外国人との交流の中で筆子は欧米の新しい空気に接し、
フランス留学も果たしている。英語、フランス語、オランダ語に精通し知と美をそなえていた筆子は
「鹿鳴館の華」とまでいわれた存在であった。

23歳のとき旧大村藩士・小鹿島果(おかじまはたす)と結婚し、筆子は華族女学校の教師を勤めた。
このときの生徒には貞明皇后もいる。
筆子は三人の子供に恵まれたが (いずれも女児) 長女は知的障害があり
次女は生後数ヶ月でこの世を去ってしまう。

生まれた子供の不幸に次いで病弱だった夫も世を去り、筆子の運命は一変してしまう。
小鹿島家から離縁を言い渡された筆子は長女と三女をつれて渡辺家に戻る。
苦難の中で知的障害児施設「滝野川学園」にふたりの子供を預け、創設者の石井亮一と再婚したが
三女も7歳で夭折してしまう。

当時の社会では、まだ知的障害児への閉鎖的な偏見や無理解の中、筆子は再婚した亮一と
ともに「滝野川学園」で障害児のために身を捧げるがその道は困難を極めたものであった。

国の未完な福祉政策のため、学園は慢性的に窮乏状態にあり金策奔走の問題をかかえていた。
大正5年長女が死去、そして大正9年、園児の失火で学園が火災し6人の子供が命を落としてしまう。
このことが筆子にとって消えることのない傷となって残る。
又この時、火中で園児をさがして負傷し片足が不自由になってしまう。
津田梅子らの支援で学園が再開するも、関東大震災、筆子を襲う脳溢血、
夫亮一の急逝と心が休まることのない厳しい試練の連続であった。 

亮一が存命中に現在の国立市に移転した学園の一室で
1944年、82歳の生涯を閉じるまで夫の石井亮一の亡き後も学園と障害児を守ることだけに生きた。
恵まれた環境に育ちながらも筆子の運命だったとはいえその生涯は壮絶であり
また神の愛をこころに持って生きた高潔な生涯だったともいえる。