先日私が日教組の●「義務教育があぶない!」という主張をおちょくる記事を書きましたが、そこで触れられていた「義務教育費国庫負担金制度」について、少し述べてみたいと思います。
この制度は、ごく簡単に言えば、教職員の人件費について、国と地方自治体が折半しましょう、というものです。
その目的は、「教育の機会均等」にあります。つまり、お金のない自治体の子どもが、豊かな自治体の子どもに比べて不公平な教育環境・・・例えば、先生の数が足りないために、遠くの学校まで登校して、大人数学級の授業を受けるような状況をなくそう、ということです。
この制度は、小泉政権下の最後の改革であろうと思われる三位一体の改革の中で、先細りを余儀なくされている状況です。
三位一体の改革というのは、「地方交付税交付金の見直し」「税源の地方への移譲」「国庫支出金の削減」をいっぺんに進めることによって、中央省庁(特に財務省)が握っていた金を、地方が自由に使えるようにして、いわゆる「地方分権」を実現しようとする改革です。
義務教育費国庫負担金も「国庫支出金」、すなわち、特定の目的のために国が地方にくれる補助金のひとつです。小泉内閣は、すでに中学校分の8500億円の削減を決定しています。
それでは、この国庫負担金、減らすべきか、そのまま手を付けずにおくべきなのか。
結論から言って、減らしてもいっこうに構わない金だと私は考えます。
なぜなら、この制度が前提としている人件費にかけた金に比例して、教育の成果が上がるわけではないからです。
この義務教育国庫負担金制度の具体的な目的は、教師一人当たりの生徒数を減らし、目の行き届いた教育をすることにあります。
しかし、そんなに少人数教育が必要な状況にあるのでしょうか?
絶対に必要だ、という人は、おそらく出発点を間違っています。本当に少人数教育を徹底する必要があるのは、「エリート育成」が目的の場合だけです。ここでいう「エリート」というのは、今まで見たことのない問題を解決する能力を持っている人々、ということです。たとえば、前例のない判断をする必要のある政治家や、オリジナリティを要求されている芸術家です。
でも、よく考えてください。
小学校や中学校は、エリートを育てるための学校なのですか?
私がこのブログで繰り返し主張しているのは、公教育の目的は「社会に出たとき、職業上の要求をこなす事務処理能力の養成」だということです。その柱になるのは「聞いて理解すること」「我慢すること」「手際よく正確にやること」です。こういった能力を必要としていない職業はありません(芸能人も、ルーズで人の話を聞かない人はすぐに落ちぶれる)。逆に、創造力や自由な発想を必要とする職業は、芸術関係やスポーツ、芸能、各種デザインくらいしか考えられません。
確かにいろんな発想が出来て、創造的な仕事をする人間の方がどんな仕事でも伸びます。
しかし、それには「才能」や「恵まれた環境」が必要です。これは、みんなが持っているものではありません。努力して伸ばせる事務処理能力の方が、教育効果は間違いなく高いです。
よしんば創造性を育む教育が必要だと言っても、全国に何十万人もいる教員全員に、そういうものを理解して、本人の個性に従って伸ばすような素養がある人物は、ほんの少ししかいないはずです。みなさんの義務教育時代の先生に、目を丸くするような才能の持ち主が何人いたでしょうかね?学校の先生というのは「地方公務員」なのです。人材のばらつきは避けられません。
このように、公教育で創造性を育む教育を行うのは、意義があることでもない上に、やったとしても効果は少ないことを理解する必要があります。
だから、公教育は、社会に出て人に迷惑をかけずにすむ基礎的知的能力の開発や、集団行動の訓練をやっていればいいのです。こういうことは、マニュアル化が十分可能な分野です(まともな大人なら、誰でもできる)。人数も、40人くらいまでなら何とかなります。
高度な教育を受けたいなら、それにふさわしい学校に行くべきです。たとえば、最近設立が相次いでいる公立の中高一貫校(●こちらの小石川高校の付属中学など)などがあります。中学受験をしてもいいでしょう。そうでないなら、塾に行くなり、自分でがんばって勉強をするなりして、その地域のトップの高校に行けばいいのです。
普通の子どもにだって、そういう教育をしてもいいじゃない・・・本当にそう思いますか?あいさつや読み書きも十分にできないのに、創造性なんか伸ばしてどうするんですか?
どうも、世の中には学校教育というのは、何かとても素晴らしいものだという幻想が強いようですね。しかも、専門家や行政までそう思っているのだから、たちが悪いです。
●こちらのPDFの中央教育審議会の報告を見てください(アクロバットリーダーのない方は、●こちらのサイトでダウンロードしてください)。真ん中辺りをちょっと見ただけで、私は呆れかえってしまいました。
「生きる力」を育む、食育、個に応じたきめ細かな指導の徹底、豊かな人間性、全ての教員がキャリアカウンセリングを出来るようになる専門的能力をつける・・・今の義務教育でほとんど実現していない、ありえない理想ばかり出てくるのです。
それもそのはずです。一般的な公教育では、ここに挙げたような理想を具体化することは本質的に無理なのです。
唯一、一番後ろのキャリアカウンセリングは、アメリカ等で実施されています。しかし、権力を悪だと決めつけ、資本主義を憎んでいる日教組や全教の組合員がどういうキャリアカウンセリングをするのでしょうね?まさか、革命家や平和運動活動家にでもなれと勧めるんでしょうか?
また、「きめ細かい指導」とか「生きる力うんぬん」を具体化しようと思うと、「下手の横好き」になるのがオチです。
私が塾の子どもに、「今教科書のどこをやってるのか」と尋ねると、「うちの先生は教科書をほとんど使っていない」という反応がよく返ってきます。それで、中身を聞くと、ただプリントを穴埋めしていくスタイルの授業など、手抜きや指導不十分と言っても過言ではない実態がわかるのです。
また、かなりの中学校で数学や社会などの「選択授業」が実施されているようですが、通知表の5段階の成績に反映されなかったり、中身が薄かったり、中途半端な位置づけになっているのが現状です。
別に、先生たちの努力が足りないのではありません。教員の数を増やし、少人数でバラエティ豊かな教育をしましょう、と言っても、この程度のことしかできないし、素晴らしいものを求めてはいけないのが、公教育というものなのです。
そうなると、教員の人件費を底上げするための義務教育国庫負担金制度も、存在意義が怪しくなってくるわけです。
この話題は、次回に続きます。(●つづく)
ろろさんは以前の私と同業者だったのですね。
他のブログのコメで知りました。
私も社会の講師でしたが「日本が悪い事をしたって先生は教えないの?」と生徒に聞かれた時は困りました。そういう生徒に限って素直で可愛い生徒です。日教組の教育はそんな素直な子供程蝕む教育ですね。私は捻くれていたので洗脳されませんでしたが……(笑)
読ませて頂いてます。勉強になります。
>日本の県名すら分からない人が多すぎます。
本当にその通りです。なにか、そういう知識が
自由な発想を阻む悪であるかのような風潮すら
ありますね。
それでもって、そういう人と議論になると、
「人間は知識じゃない、心だ」などと言われてしまいます。(笑)
>私は捻くれていたので洗脳されませんでしたが……(笑)
よかったですね、とても(笑)。幸運だったと思います。
受験の教材や入試問題まで「自虐」ですからね、
やりにくい世の中です。
>Fさん
どうもどうも、最近mixiでのみなさんの投稿が
少なく、「また俺連投だやばいー」と思っていたところです。
また、どうぞよろしくお願いします!
推奨ブログトピを作ってみました。
よろしくお願い致します。^^;
どうもありがとうございました。
寝る前に(笑)見に行ってみます。
>いざりうおさん
>戦勝国の日本叩き潰し政策に悪乗りし、
>今の日本を、そして日本人をだめにした張本人
この「日本叩きつぶし政策」について、もう一度
日本人自身が再点検をしないとダメだと常々
感じています。そうでないと、日教組的な
「個人の尊重」「自由と平等」に対して、理論的な
反駁ができなくなってしまうからです。
高度成長と冷戦のおかげでわかりにくくなって
いただけでのことで、実は60年前から
問題は始まっていたということです。
当ブログでも、そのへんについてもっと深く
考えていきたいと思います。
結局、「生きる力」だの「創造力」だのをつけようと提唱するのは、親がそういうことを「学校教育」に期待しており、経済的に豊かな家庭の子女は私学や塾で補うことができるけれでも、そうでない家庭も公立にはたくさんいるので「公立でもなんとかしますよ」とPRしているのでしょう。
でも、看板だけで、中身はスッカラカンなんですけどね(苦笑)
だから、公立校で「基礎の基礎」を身につけることを保証してくれて、国が税金を免除してくれるなり教育バウチャーを発行してくれるなりしてくれれば、「それ以上の教育」は各家庭でご自由にお選びください・・・とやってくれれば、すっきりするんじゃないでしょうか?
職歴は抜きにして自身の体験的にもそう思います。「落ちこぼれ」の対義語たる「吹き零れ」への対処というのは事実上私塾でないと無理ですし、その「落ちこぼれ」さえ救うことが出来なかったという所謂<ゆとり教育>の惨憺たる現状があるわけですからね。(意外と文科省が気づいたのは早かったですが)
警察とセコムの関係に似てるとも言えなくないでしょうか? まぁ、発展途上国辺りにいくとその警察も怪しくなったりするわけですが。(爆)
不躾なコメントですみませんでした。
親のニーズ・・・それは大きいですね。
出来もしないことをやらなくてもいいんですが、
どうも教育関係者自身が自分たちを万能だと
思っている節があります。
だから、「改革」に抵抗するのでしょうね。
文部科学省ががんばっても、現場にいるのが
日教組や全教では仕方がありません。
rabbitfootさんがおっしゃるように、
もう既存の仕組みを一度ぶっこわすしか
ないのかもしれません
国鉄が民営化したおかげで、いわゆる「労働
運動」なるものが沈静化したのを想起します。
合理化にすべからく日教組は、国鉄労組と
似ているところがありますね。
>つばめさん
警察とセコムという喩え、言い得て妙です。
警察は、治安の維持という役割を立派に
果たしていますよね。(諸外国と比べれば)
官が民を補完するというのは、あってもいい
のかな、という気がします。
上でrabbitfootさんがおっしゃっているように、
教育バウチャーという仕組みを導入すれば
いいと思うのですが。
(今は「構造改革特区」という便利な
仕組みもありますからね)
私学に子供をやる親は公立の権利を放棄して、エクスラチャージを払っても私学を選ぶワケですが、フリードマンは公立でも私学でも使えるバウチャー(これを使うと義務教育の場合、公立なら無料、私学ならその授業料により割引か無料)を発行し、それにより、公立と私学の競争を促せと主張しています。