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日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

二年前の自分を、あえて振り返る

2007年02月08日 03時11分59秒 | 生き方・人間関係
  ブログの記事を書くためのネタを掘り起こしていたら、2年前自分で書いた日記が見つかりました。
  私という人間がどのような道をたどって今に至ったか、ご理解いただけるかもしれないので、トラックバック無用で記事にしてみることにします。(注:当時は、旧司法試験の受験生でした。また、所属会社を推測可能な部分は表現を変えています)


 今日風呂に入っていたとき、ふとA君のことを思いだした。
 講師になって2年目と3年目、彼とはよく遊んでいた。もっとも、僕が彼の家に押し掛けるかたちがほとんどだったけれど。いわゆる、「ひきこもり」だった。促しても全然外に出ようとしない。俺もいらいらして、とうとう最後は絶縁してしまった。
  あのときは、ひきこもりをする人間の気持ちが全く理解できなかった。人間として弱いだけなのではないかと思っていた。最後の方は、努力すれば世界が開けるのに・・・がんばれよ!という感じの物言いをしていたように思う。今思えば、まるで、「これからの世界は勝ち組だけが生き残る!」とか鼻息を荒くしている、あの落合信彦みたいだったと思う。

  はっきり言って、今日まで彼のことをすっかり忘れていた。それをなぜ、今になって思い返したのか。

  僕は、最近、よく受からなかった後の自分を思う。
  司法試験は難しい試験だ。受からない可能性の方が遙かに大きい。そんな僕は、もう10月で30歳だ。塾の仕事をやってきて、きっと自分は試験に合格すると思いながら受験勉強も5年になる。その間に、仕事の他に、自分の商品価値が上がるようなことはほとんどやってこなかったと気づく。行政書士には合格したが、新規に開業して安定した生活をしていける人間はほとんどと言っていいほど、いない。つまり、僕には塾の先生として教える以外、売り物が何もないのだ。
  そんな自分が、これから何か「まともな」仕事に就けるのだろうか。とても不安になる時がある。「まとも」というのは、結婚をして、子供を育てていけるという意味だ。おそらく、合格しなければそれは困難だろう。
  もし、「まとも」な暮らしがしたいなら、事業を興すにしろ、会社で勤めるにも、また、競争をしなければならない。それにもかかわらず、その競争に勝つための技術や資質は僕にはほとんどない。もちろん、それらを養うことはできないわけではない。しかし、生活していかなければ行けない以上、短期間で何かを身につけるというのは難しい。
  それに、ここで法律を捨ててしまうとなると、一体何のための5年だったのか、何のための勉強だったのか、全てが無駄になってしまう。
  同僚の仲の良かった女性にそれを言ったら、決して無駄にはなりませんよ、と言ってくれた。申し訳ないが、それは精神論に過ぎないと思う。もちろん、僕の法律に対する理解は一般人を遙かに凌ぐだろう。しかし、それだけだ。法律に携わる仕事は、士業として資格を取って初めて自分の事業として成立する。その資格を得るため、受験勉強に膨大な時間をつぎ込み、他の業界に進む可能性やそのために必要な能力は全く養わずに来た。その見返りが、単なる法律の知識だけだとしたら、悲しすぎる。
  知り合いの東大生は、卒業したその年にすぐに司法試験に合格してしまった。彼には、おそらく能力があったのだろう。そして、論文試験を2回受けても、まだ上に4000人もいる僕は、あまり能力はないのだろう。
  以前ならそれでもよかった。論文を5回6回受けるのは当たり前だったし、受かれば弁護士にはなれた。
  しかし、今はそうではない。ロースクールができてしまったからだ。弁護士は年間に2000人単位で増えていく。また、競争だ。それはいい。ボーダーレス化する今の世界では、競争を免れることができる人間はいないからだ。しかし、大学を中退した人間の受験機会が、2010年で(実質的には、2005年で)完全に消滅してしまうことはどうだろう。全く受験のチャンスがなくなってしまうなど、5年前には思わなかった。わかっていたら、受験を思い立ったりなどしなかったかもしれない。しかし、誰もそれを埋め合わせてなどくれない。

  いよいよ、追いつめられてしまった。このまま、塾の講師を続けるのか。しかし、ある年齢が来たら、もう今のような条件で働くことは出来なくなる。
  いや、そもそもこの業界が、僕のいる会社が、その時まで今のように存続していけるのだろうか。僕のような非常勤の人間は、沈みゆく船の錘になってしまうからと、切り捨てられても文句は言えない。だからといって、何をすればいいのか。試験に受かるなら、と、今まで続けてきた。その可能性が事実上なくなってしまうまでもうすぐだ。受かるかどうかは、誰にもわからない。もう、泣き叫びたいくらいの心境だ。

  しかし、そんな思いで胸が塞がって、初めて分かったことがある。

  それは、どんなに頑張っても社会的弱者に追い込まれてしまう人間が、必ず存在するということだ。もちろん、道ばたで寝転がっているホームレスのおじさん達が、みんな現代社会の犠牲者などと言うつもりはない。自助努力を怠った「どうしようもない人間」はかなりたくさんいるだろう。
  しかし、全員がそうなのだろうか。保証人になってしまい、債権者に追いまくられて故郷を追われた人も少なからずいる。小泉改革で一方的に地方に配分される金が減り、仕事がなくなってしまった建設業者もいるだろう。そんな人たちが皆、「どうしようもない人間」なのだろうか。今安定した生活を送っている人間が同じ状況に置かれたとき、本当に努力したり、がんばったりできるのだろうか。
  よく言われることは、仕事にあぶれているおじさん達や、フリーター生活を余儀なくされているのは、「努力が足りない」ということだ。自分の能力を伸ばす努力をした人間が「勝ち組」になるのは当たり前だ、「負け組」は自己変革と時代の波を読むことを怠った人間で、そんな人間が社会の底辺にいるのは当たり前だ・・・落合信彦の著作でも読むといい。まるで、日本のアメリカ化を礼賛するかのようなフレーズばかりが並んでいる。

  しかし、そういった考えは、重要な点を見逃している。人間にはもともと能力の差がある。それに、全ての人間に平等なチャンスが保証されているわけではないのだ。運や巡り合わせというものは、必ずある。生まれる家が違うだけで、人生が変わってしまうことも多い。これは、落合信彦や小泉首相も否定はしないだろう。
  そういう運や巡り合わせと縁がない人間は、数少ないチャンスのために、過当な競争に晒される。人間はいつか死ぬし、年を取り衰えて競争に参加することすらできなくなってしまうこともある。 そんな中、本当に訪れるか分からないチャンスをつかむために、金や時間の全てを投げ出さなくてはならない。
  そして、競争に敗れるのは、自分が悪い。努力が足りなかった。自己責任だということになるのだろう。あなたが悪いんです。人生おしまいです。あとはご勝手に・・・。

  なんという、寒々とした世界だろう。能力のない人間を全て淘汰して、完璧な人間だけの住む浄化された世界でも作ろうというのでもない。創造性や英知を駆使して社会を動かす一握りの人間と、奴隷のように機械的作業に従事する圧倒的多数の人間がそこにはいる。
  奴隷がどんなにいい仕事をしても、奴隷は奴隷だ。それに、奴隷達には連帯感がまるでないから、革命も起こすこともできない。最近続発している弱い者を狙った卑劣な犯罪は、散発的なテロにすぎない。宅間や小林薫、イトーヨーカドーの刃物男たちは、体制によって、ゴミと認定されて処刑される。
  恐ろしいことは、もはやそのような連中が例外ではなくなってきていることだ。能力のない人間は、使い捨てされていく。いくら彼らなりの努力をしたところで、単純作業に高い金を払う企業はない。不満だけが溜まっていくだろう。
  そして、犯罪だ。今はまだ、ごく一部のおかしい人間の仕業で済んでいるかもしれない。世の中が変わっても、人を殺したいと思う人間は少ないだろう。だが、その代わりが児童虐待やいじめだ。プレッシャーに押しつぶされ、おかしくなってしまう人も出てくるかも知れない。そして、絶対に、絶対に、 恵まれた人間はその犠牲になることはない。狙われるのは、普通以下の家庭の女子供ばかりだ。弱者同士が共食いをする、悲しい風景ばかりが続いていく。「生きていればいいことがある」などと、陽気に言っていられる世界ではもはやなくなってしまった。
  僕はどう考えても、「勝ち組」ではない。実は崖っぷちにいるのだ。宅間を笑ってなどいられない。もちろん、反社会的な行為などしたくないし、簡単に競争に負けてしまいたくはないが、こればかりはわからないのだ。
  誰が、僕が受験勉強を始めたばかりのとき、「ロースクールが出来るから今は辞めた方がいい」などと言ってくれただろう。「司法試験は受かりやすくなった」と、みんなが嘯いていたはずだ。
  世の中は、変わる。それも、普通の人間がキャッチアップすることが不可能なくらいの速度でだ。だから、今ある生活が、突然ひっくり返されることもあるし、むしろその方が多くなっている。変化が例外ではなく、原則になってきてしまっている。だから、僕がいくら努力をしても、中学生の頃当たり前に実現できると思っていた生活-妻がいて、子供がいて、定職に就いて安心して暮らしていける生活ができるようになるとは限らない。
  全てを投げ出して、挑戦をすればいいと思うかも知れない。しかし、それがうまく行かなかったら、一体僕は何処に戻ればいいというのだ?いつかは肉親である母も死ぬ。それも、そんなに遠くない将来だろう。そんな人間にも、少ないチップを賭け続けろと言うのだろうか?
  確かに、僕の今の生活は、たいした生活ではないかも知れない。しかし、それすらなくなってしまったら、僕は生きていくことが出来ない。飢え死にしなければいいと言う人もいるだろう。人生いくつになってもやり直すことが出来るという人も。しかし、それならまず「あなたが」やり直してみてください、と僕は言いたい。人ごとだから、脳天気なことを言っていられるのだ。
  犯罪が一番割りのいいビジネスだと、本気で考えることもあるし、幸せそうに可愛い子供を連れて歩く夫婦を見ると、殺してやりたいと思うことさえある。受からなければ、僕が一生たどり着くことの出来ないであろう「幸福」がある。理論的には誰にでもたどり着くことが出来るはずの場所だ。いっこうにそこに近づけないと思ったら、ガラスの壁が僕を塞いでいたのだ。僕は幸せそうな夫婦のいる方にいたと思っていたが、本当は宅間や刃物男の側にいたのだ。いつ使い捨てられるか分からない、どうでもいい人間の側に。

  そう、僕も「弱者」だ。やっと、気が付いた。

  もし、今A君が側にいたら、僕は決して努力しろ努力しろと言わないだろう。話をきいてやり、今少しでも出来ることが何か、いっしょに考えたい。いつかは親が死んでしまうという現実を少しずつ受け容れていけるように、根気強く働きかけたい。
  彼が外に出られなくなってしまった理由が、ほんの少しだが僕にもわかるのだ。この社会で、いつかふるい落とされてしまうと感じ、足がすくんでしまった。それだけのことだ。そんなにオーバーなことではない。そして、僕も今、そうなり始めている。

  いろいろなことが、やっとわかり始めた。もし合格することが出来れば、本当に素晴らしい仕事のできる弁護士になる自信がある。平均年収を遙かに上回る家庭で育った東大卒の人間には、絶対にできないことをやってやる自信がある。それは、本当の弱者救済だ。悲しい現実にくじけそうになる人たちのために、少しでも働くことだ。今僕は、「エリート」の奴らには経験しようがない(おそらく、したくもないだろうが)状況を味わえている。ある意味、よかったのかもしれない。
  これから本当の地獄が待っているのかも知れないが、少なくとも今は希望をもって進んでいきたいと思う。いろいろ考えたが、今の僕にはそれしかできないからだ。試験にはまだ、誰も受かっていない。落ちてから考えてみてもいいだろう。そのくらいは、バイクを売って貯金をなくせば大丈夫だ。

  大願が成就せんことを、祈るしかない。本当に、祈るしかない。


  今思えば、相当追いつめられていた自分を感じます。いや、追いつめてしまっていたと言う方が正しいでしょう。

  やめてみて分かるのですが、自分は条文の趣旨や、判例の文言、さらには法制度の相違点などを記憶するのがやはり苦手だったのです。
  しかし、ここまで来たからにはもう後に引けない、という思いで、当時は頭がいっぱいだったのでしょう。今の自分がそばにいて、「彼」に何か言葉をかけても、その思いが他人の言葉を全て遮ってしまうだけに終わったに違いありません。
結局、今まで合格し続けていた択一試験に落ちるまで、わからなかったでしょう。
  仕事の向き不向きは、やってみなければわからない部分が大きいのです。

  幸い、現在は他にやってみようと思うことができました。それが、今後の生活を「ふつうの人生」に導いてくれるかどうかはわかりません。
  ただ、そんなことばかりを考えて何もできなくなってしまうような状態に自分を置くことだけはやめようと思います。そんな臆病な教え手に教わりたい子供がいるはずがありませんしね。

  ブログの執筆にも力を割いていきたいと思います。これからもみなさん、よろしくおねがいします。

「負け組犯罪」はなぜ起こる!?(後編)

2005年12月18日 12時47分02秒 | 生き方・人間関係
  ●前回の記事で私は、「負け組犯罪」という、我欲の充足による自己実現が出来ない者(特に男性)による犯罪が増えてきていることや、そういった犯罪に現在の刑事司法が対処できていないこと、厳罰化(死刑連発)をしても「負け組犯罪」はなくならないことなどを述べました。
  いつの時代にも、「こんなはずではない」と自分を追いつめている人間は存在するでしょうし、強姦や強制わいせつや突発的な殺人といった犯罪がこの世からなくなるなどとは思っていません。しかし、原因を知って対処すれば、絶対数は間違いなく減らせるのが「負け組犯罪」である、と私は考えています。
  では、どのような方法が有効なのか、私の考えを述べてみます。

  前回の復習ですが、「負け組犯罪」が多発する原因は、次のようなものでした。

 1.高度成長の頃のメンタリティなのに、
   パイが小さいのでうまくいかない
 2.学校教育やコマーシャルで
  「なりたい自分」
  「やりたいことをやる」
  という自己実現至上主義ばかりが
  吹聴されている
 3.女性の立場が「向上」し、男性が
  女性を巡って過当競争をしている
  (あぶれる男が多数出ている)

  
  このような原因を見ると、「社会の変化だからしかたがない」と言ってしまいたくなります。しかし、そう結論づけてしまったら、小学生がカッターで同級生を殺害するのはイラク戦争のことを教えないからだと言っている日教組(証拠は●こちらの記事にあります)と同レベルになってしまいます。
  原因があるからには、それをなくす、もしくは緩和することは可能です。

  私は、まず教育から変えるべきだと思います。
  上の原因2のように、自己実現が出来なくて絶望してしまうのは、「やりたいことをやれない人生など価値がない」と煽っている人間がいるからです。だからといって、マスコミに「自己実現を煽る広告をやめろ」というのでは北朝鮮や中国とやっていることが同じになってしまいます。
  だからこそ、教育が大切なのです。
  具体的に言えば、教育の現場で、「他人のために役に立つことをしろ」と訴え続けることです。
  戦前の「教育勅語」が、天皇を中心とした家族共同体としての日本という姿を国民に説き、これに奉仕するように求めていました。私は教育勅語の精神は全く否定するつもりはないと思っています(●こちらの一連の記事をご覧ください)。しかし、どうやら戦争に負けたことで、教育勅語が戦前の悪い日本の象徴だと思われてしまい、そこに謳われている「勤勉」「利他」「国への忠誠」といった精神も否定されてきているようです。
  その代わり、教育現場に持ち込まれたのは、「がんばれば、自分の生活を良くできる」「努力すれば、夢は叶う」という自己実現至上主義だったのです。それもそうでしょう。教育というのは、ある目的に沿って行うものです。目的というのは、簡単に言えば、生徒に「何のために勉強するのか」と訊かれて、どう答えるかということです。私も、受験勉強が嫌で嫌で仕方がなかったとき、中学校の先生に質問をしたら、「後で必ずいいことがある、得をする」という答えが返ってきたように記憶しています。
  高度成長の頃なら、それでもよかったのです。夢や希望を実現できる人は少なからずいた上に、実現できなくても「普通の生活」が出来たからです。ここでいう普通の生活とは、「結婚して子供を持つ」「定年まで年収が安定して上がり続ける」「我慢すれば家やマンションが買える」ということです。
  しかし、現代は地球規模での競争を強いられる時代です。相次ぐリストラで、若い労働力が戦力になるまで育てるという余裕が、日本企業にはなくなっているのが現状です。そして(これは前回言いませんでしたが)、専門的な仕事も、そのための「予備校、専門学校が乱立し、過当競争になっています。その中で趣味を仕事にできる人など、ほんの少ししかいません(そもそもその程度の需要しかない)。
  つまり、もう職業を通じて「なりたい自分になる」という幻想は捨てた方がいいということです。

  しかし、これが「他人の役に立つ」ということになると、話は全く変わってくるのです。
  まず、「人の役に立つ」というのは、どんなに素質や環境に恵まれていなくても実行できるということが重要です。
  何も、ボランティア活動なんてしなくてもいいじゃないですか。日常生活の中で、他人を助けるちょっとした利他的行為をするだけでもいいのです。
  「なりたい自分になる」というのは、一見素晴らしい目的のようですが、それを通じて社会に関わろうという積極的な側面がありません。これは憲法の話でもゆくゆくは述べようと思いますが、自由や権利というのは、他人を排除するという「さびしい」側面も持っているのです。強調すればするほど、社会から離れていくのです。そういう意味では、宅間死刑囚や小林薫被告ほど「自由」な人はいないでしょう。
  それに対して、利他的行為というのは、他人や社会に働きかけるという積極的な行為です。どんどんつながっていけば、どこかで世の中をまともにする作用が働くのです。例えばこのブログを見た方が将来国会議員になって、教育を良い方向に導いてくれるかもしれない(笑)わけです。
  これならお金や才能を必要とせず(これは非常に重要です!)毎日の生活に張りを持って生きていくことが出来ます。少なくとも、「こんなはずではなかった」と、幼女を強姦して殺害する人間にはならずに済みます。

  そんなもの、どうやって教育の現場で教えるんだよ?と、思う方。実は、簡単な方法があります。

  それは、教育基本法に「教育の目的は、利他精神の涵養にある」という条文を盛り込むことです。

  これをやると、基本法を実現するために関連法規が整備されます。当然、学習指導要領にも改正が及ぶことでしょう。道徳教育も根本的に変更されるはずです(今までの道徳教育は「されて嫌なことをするな」という結局は利己主義につながるような教育しかできなかった)。  
  改正してしばらくは「戦後教育の火を消すな」「教え子を戦場に再び送るな」などと訳の分からないことをわめく日教組の愚かな抵抗があることでしょう。しかし、10年持ちこたえれば、もう既定路線になります。そこまでの辛抱です。
  幸い、そういう方向の法改正を企図している下村博文さん、西川京子さん、山谷えり子さん、高市早苗さんといった国会議員の方々もいらっしゃるようです。是非とも実現してもらいたいです。

  でも、原因3は変えようがないじゃないか、と思っているかもしれませんね。
  実は、これも対処は十分可能です。
  誤解を恐れずに言えば、「負け組犯罪」は我欲、特に「性欲」の処理がうまく行っていないことから来るものです。
  じゃあ、買春を合法化したり、風俗営業法を改正してもっと「便利に」するなどで対応できるのかというと、無理です。
  なぜなら、性風俗には人間関係が存在しないからです。料金やらコースやらいろいろ決められていて、趣味にあった「プレー」をいろいろ選べるとしても、日常生活に持ち込めるわけではありません。だいいち、そんなに頻繁に利用するのは「負け組」には無理です。
  そうだとすれば、「負け組」になる前に、女性とうまく付き合えるようなコミュニケーション能力をつけるほかありません。
  女性と付き合えないことを嘆いている人間というのは(自分の体験も踏まえると?)二種類しかいません。「ぜいたく」「人付き合いが下手くそ」かです。
ぜいたくなのは諦めてもらうほか無いとして、人付き合いの面は矯正教育が十分可能です。
  そもそも、女性と話せないという男性は、男性とのコミュニケーションもダメな人が多いです。同質の仲間としか固まらないので、男とは話せると勘違いしているだけです。
  そして、「負け組犯罪」を犯す人間というのは、小中学校時代「おとなしくて無口な子」が意外に多いのです。この時期に、話す練習をしていないので、上手に人間関係を結べない、だから孤独になってしまう、という推測が出来ます。

  突飛な話かも知れませんが、そのような「負け組予備軍」とでも言うべき人々について、強制的に人間関係を作る能力を付けさせる「社会化センター」のようなものを作れないかと思うのです。
  そこで、「負け組予備軍」を、「通院」と「入院」の二種類のカテゴリーに分けるのです。「通院」は、小学生でうまく周囲に溶け込めない子を親と一緒に通わせるコースです。「おとなしくて無口」、要するに自分でものを言わなくても何とかなると思ってしまっているのは、何でも先回りしてトラブルの芽を摘んでしまう親がいるからです。だから、親の子育ても「矯正」する必要があります。
  「入院」というのは、社会不適合になってしまった人間向けの、人格改造プログラムです。例えば、軽い強制わいせつをやってしまった人間などは、女性にもてる(というか、まともに人と話せる)会話能力や立ち振る舞いなどを身につけるまでは解放しない、という方法があります。
  こんなの無理だ!というあなた!日本には、鑑別所少年院という立派な矯正施設があるのをお忘れですか?それらのカバー範囲をもう少し広げて、予備軍の段階で「負け組傾向」を叩くようにするという提案なのです。「社会化センター」送りという処分があったら、先日の人殺し塾講師などは間違いなく「入院」対象です(実質的に強盗致傷の余罪がある)。それによって、犯罪を防げるという効果もあります。
  ちなみに、少年法第3条にも、「保護者の正当な監督に服しない」とか「いかがわしい場所に出入する」少年は、審判して少年院にぶち込めるという規定があります。これなど、もっと活用できると思えませんか?
  
  それでもダメなら、最後の手段があります。科学的去勢がそれです。  
  奈良県女児誘拐殺人の小林薫被告は、強制わいせつの前歴があったのはご存じでしょうか。そういう人間は、自分の低すぎる社会的地位と、性欲のバランスが取れていないのです。強姦をやるような犯罪者も、この傾向があります。だから、男性ホルモンを抑制する薬物を投与し続けることを条件に、釈放を許すのです。(実際に、ノルウェーで実施している。詳しくは●こちら
  よく「性犯罪者に発信器になるチップを埋め込め」(●こちらのHPの「論陣」参照)などと言われますが、こういう連中は発信器など付けても、やりたくなったらやります。もともと我欲を我慢できないから犯罪者になってしまうのです。その根っこを断つというのは、社会防衛のために必要です。

  よくこういうことをいうと、「個人の尊厳が損なわれる」「犯罪者も人として幸せにいきる権利がある」などと言い出す馬鹿がいます。そういう「人権派」の方々に訊きたいのですが、自分の7歳の娘が強姦されたあげく殺されても、まだそんなことを言っていられるのでしょうか!?

  日本が変わってしまったことを嘆く前に、我々は、高度成長が残した負の遺産である「負け組犯罪」ときちんと向かい合わなくてはいけません。このブログが、その一助になれば幸いです。

 

「負け組犯罪」は、なぜ起こる!?(前編)

2005年12月14日 10時07分56秒 | 生き方・人間関係
  近頃、どうも子どもを狙った犯罪が多いですね。
  21世紀に入ってから、まず、●大阪教育大学池田小での児童殺傷事件がありました。そのあとしばらくして●奈良県女児誘拐殺人事件、そして最近では、●広島での日系ペルー人の女児殺害もありましたし、●栃木県では通学路で女児が殺される事件など、まだ(05年12月14日現在)犯人が見つかっていません。
  そして、なんといっても、土曜日の●例の事件です。(不謹慎ですみません、私昨日の授業で、「私はハンマーと包丁は持っていません。御安心ください」という発言等、笑いのネタにしまくりました。幸い、みんな楽しく笑ってくれたのでよかったです。結構、関心が高いようで・・・。)

  個別の事件をいちいち分析しても、後々の役に立たないと感じています。報道での取り上げ方が、どうもそのような傾向があるので、私なりにこれらの一連の事件から学ぶことができる事柄をまとめたいと思います。
  ちなみに、私は例の事件の容疑者のように、犯罪学を学んではいませんが、理論的裏付けがない点についてはご容赦ください。
 
  結論から言ってしまえば、上に挙げた犯罪は、「負け組犯罪」と名付けるべきかと思います。
 「負け組犯罪」とは、我欲の充足による自己実現を充足できない者(男性)による犯罪のことを言います。典型的なのは、性犯罪です。●こちらの資料でも、上に挙げたような事件が起こり始めた辺りから増加に転じているのがわかります。

  さて、勝ち組、負け組という表現は、近年マスコミが意味もなく吹聴している概念ですが、私は、「負け組」というのは、「こうありたい」「こうしたい」という願望と、実際の自己が置かれている状況が著しく乖離している人を言うのではないかという気がしています。つまり、年収が引くかろうと、社会的地位が低かろうと、「自分には満足だ」「これで十分」と心から感じている人は、負け組ではありません。
  自分が「こうありたい」という観念と、現実の自分には開きがある人は、いつの時代にも少なからずいたはずですが、ここに至って日本で「負け組犯罪」が増えたのはどうしてか。
  識者でも犯罪学専攻の大学生でもない私ですが、以下のようなことを思いつきました。

1.高度成長の頃のメンタリティなのに、パイが小さいのでうまくいかない

  経済白書で「もはや戦後ではない」と言われたのが、1956年のことです。それ以降、日本は一貫して好況でした。特に60年代から70年代前半は高度成長期と言われています。石油ショックという「事故」はありましたが、それでもそのあと安定成長→バブル景気です。
  そして、戦前育ちの人々が子育てを離れると、子どもを持つ大人のほとんどが右肩上がりの時代しか知らないことになります。
  高度成長の時代は、「努力すれば何とかなる」「夢は叶う」という考えに、かなりのリアリティがあったと思うのです。また、夢破れたとしても、ちゃんと働けば車やら家やら家族(配偶者)やらを手に入れることはできたのです。
  ところが、今はグローバルな競争を強いられる時代です。なにしろ、日本の隣りにとにかく安くものを作れる国(その内情は●こんな感じですが)があって、日本のお家芸である製造業は青息吐息です。切りつめて、競争力を付けなければやっていけないわけです。小泉首相が「改革!改革!」と叫ぶことには(是非はともかく)、ある種必然性があります。そうしなければ、日本が滅んでしまうという思いもあるのでしょう。まあ、だからといって、2000年以上続いた皇室制度を変えていいなどとは絶対に思いませんが。(詳細は、●こちらのサイトをご覧ください)
  ともかく、そういう時代ですから、望む仕事について、なんとなく過ごせば思い通りに「自己実現」ができるという時代ではないのです。私も同じ試験に4回も落ちているので(笑)、「こんなはずでは・・・」と嘆きたい気持ちは分からなくもありません。幸いにも、犯罪をやりたいと思うまでは至りませんが・・・。

 2.学校教育やコマーシャルで「なりたい自分」「やりたいことをやる」という自己実現至上主義ばかりが吹聴されている

  1.のような状況にも関わらず、高度成長の時代しか知らない親御さんは(ペルー人の彼にはこの定義は当てはまりませんが・・・)、がんばれば何とかなると思って、子どもたちの置かれた状況を顧慮しません。それ以前に、親や教員が「夢を持て」「頑張れば必ずむくわれる」と吹聴している以上、後に引けなくなっているのです。
  そればかりでなく、広告も我欲の充足としての「自己実現」を煽るような商業広告ばかりが目に付きます。
 我々も、日常生活の中で、いろんな願望を口にしますね。

「みんな持ってるからプレステほしい」
「(異性の気を引くため)きれいになりたい」
「クリスマスにステキなデートをしたい」
「車を買って彼女とドライブがしたい」
「安定した職業につきたい」「自分の望む仕事をしたい」
「綺麗なお嫁さんがほしい」
「一軒家がほしい」「息子は○○高校に行かせたい」
「老後は海辺の家で静かに暮らしたい」


・・・一応人生の時系列に沿って並べてみましたが、どうやら我々の生活は、ことごとく商業主義の餌食になっている(笑)ようですね。年代別の雑誌でも買えば、そういう広告を全てチェックできます(というか、無理矢理させられる)。
  しかし、残念ながら、このような事象を通じて自己実現できる人々はあまり多くありませんもともとある種の素質や、家庭環境や運に恵まれていないと実現が困難なものもあるからです。
  それにも関わらず、教育や広告が「なりたい自分になれる」「楽しくなければ人生じゃない」という文句で欲望を煽り続けるのです。能力や財産に恵まれない人間には、毎日が生殺し、欲求不満の日々でしょう。飢えて苦しんでいるときに、分厚いガラスの向こうで豪華な立食ディナーパーティーを開かれているようなものです。
  そのような絶望感が、弱者に欲望を向ければよいという形で転化すると、「負け組犯罪」ができあがるというわけです。

3.女性の立場が「向上」し、男性が女性を巡って過当競争をしている
  
  高度成長期に、いわゆる「団塊の世代」の人々が一般化してしまった行動様式の中に、「個人の自由意思に基づく恋愛」や「同年代との恋愛結婚」というものがあります。
  団塊の世代の人々は、戦前を「ひきずった」(戦前=悪という匂いがして、管理人はこの言葉は好きではない)社会に生まれたにも関わらず、初めて「戦後民主主義教育」や、日教組の「平和人権至上主義」に洗礼された世代です。彼らが大人になる頃、まるでホームドラマにあるアメリカ人のような自由な恋愛、そして幸福そうに見える結婚に憧れたのも無理はありません。団塊の世代にとっては、自由な恋愛こそ「個人の尊厳」や「男女平等」の具現化だったのです。
  もちろん、全ての人が望むような恋をして、望むような伴侶を得たわけではありません。しかし、戦後の経済成長が物質的欲求を次々満たすことによって恋愛や結婚に関する不満を吸収していたので、問題が起こらなかったのです。
  しかし、現状は1.で述べたような状況であるわけです。女性を、高度成長の時代同様の生活スタイルで養えるような経済力を持っている男性はそう多くはありません。それにも関わらず、家庭というのはそういうものだと教わってきているので、なかなか結婚ができないわけです。
  しかも、商業主義がやたらと女性、女性と吹聴するので(たとえば、「レディースデー」。管理人は「メンズデー」というのを聞いたことがない)、女性の意識は相当高くなっています。恋愛で言えば、もともと男女の数が不均衡であるのも手伝って、完全に女性が選ぶ時代になっていると言えます。
  これに文句を言っても始まらないのですが、小さい頃からメディアや親によって、大人になれば彼氏や彼女がいて、恋愛結婚するのが当然だと植え付けられているとなると、いささかまずい事態になります。そういうことができない自分は、規格から外れた人間であるという認識を持ってしまう人が出てくるわけです。
  上に挙げた「奈良県女児誘拐殺人」の小林薫被告にしても、経歴・職業・見た目どれをとっても異性に対して訴求力がありません。ああいう人間がもともと歪んでいることは確かでしょうが、このまま生きていてもどうせろくなことがないという絶望感が、異常性に磨きをかけたのは間違いないでしょう。程度の差こそあれ、異性問題についての不全感は多くの人が抱えているのではないでしょうか。
  恋愛や異性について問題は、個人の主観が大きく左右するものなので、私自身客観的に分析できているかは疑問ですが、あえて説明させてもらいました。

  「負け組犯罪」がこのような背景を持って生まれてきている一方で、大きな問題があります。それは、刑事司法制度が「負け組犯罪」の犯罪者に対して何の役にも立たないということです。
  たとえば「模範囚」や「仮出獄」という制度は、犯罪者を野に放つのを早めるだけの結果に終わっています。刑務所の中で規則正しく振る舞っていても、「負け組犯罪」の根っこは残ったままです。
  矯正教育が、そもそもダメなのです。規則正しい生活をし、職業訓練をすれば犯罪者にならずに済む、というのは、高度成長が更生した人間を労働力として吸収していた時代だからこそ意味があったのです。
  悪いことだったと自覚させるのも無駄です。「池田小事件」の宅間守死刑囚は公判廷で、「世の中のやつは全部敵や」と発言しています。また、小林被告は取調べに対し、「悪いことをしたとは思っていない。」と供述していたそうです。世の中が自分のやりたいことをやらせないからいけない、という反社会的思考に陥っている負け組人間に、矯正教育などやっても無意味なのです。

  同じくらい意味がないのは、とにかく厳罰を科せばよいと言う考えです。
  「負け組犯罪」は、窃盗や詐欺のような「ビジネス」に近い犯罪と異なり快楽計算によって行われるものではありません。極端な話ですが、負け組にとっては望む仕事にもつけず、異性とも付き合えない人生そのものが地獄なのです。だから、性行為目的で誘拐した後、殺すような馬鹿な真似まで出来てしまうのです。これでは厳罰で威嚇しても、効果は薄いのが目に見えています。
  死刑を科せば、犯罪者を「駆除」できるかも知れません。しかし、「負け組犯罪」を醸成するような社会環境を放置すれば、このような犯罪は決して無くなりません。それこそ、アメリカと原理主義テロリストのようないたちごっこになるのがおちです。一定の厳罰化は国民の意識の高まりから必要でしょう。しかし、それをもって犯罪の発生自体は抑止できません。死刑判決をたくさん出しても、儲かるのは葬儀屋だけです。

  では、「負け組犯罪」はどうやったら少なくできるのでしょうか。
  私は、どこかの馬鹿な教職員組合のように、「社会がおかしい」とか、「学校で平和や人権の尊さを訴え続ければ、犯罪はなくなる」などと思っていません。それどころか、今の学校教育が依って立つ理念そのものに、「負け組犯罪」を生む根っこがあるとさえ考えています。
  次回は、私自身の体験も踏まえながら、解決方法を具体的に論じたいと思います。(後編は●こちらです)

知ること=実際に見てみること

2005年09月22日 02時29分55秒 | 生き方・人間関係
  私は小中学生に社会も教えていますが、どうも歴史について本当に知っておくべき事実を、教え手も読み手も(テキストや入試問題の)作り手も知らないことが多いようですね。

  私の塾の社会のプリントでも、

 「韓国人に日本語教育を強制した」
 「朝鮮の農民から所有権のはっきりしていない土地を奪った」
 
  などと、まるで日教組が検閲をしたかのような選択肢があって、情けなくなるときがあります。そもそも首都の人口の40%が奴隷だったような朝鮮に、所有権などという概念があったのかとは思いますが・・・。

  歴史教育がおかしい、というのが議論されるようになってきたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」のおかげでしょう。
  以前も私はここの教科書について懐疑的だったのですが、その実物を読んでみて、びっくりしたことがあります。
  それは、この教科書が、期待に反して全く右翼的でなく、戦争を賛美したような記述もどこにもないのです。みなさんも、是非、実際に手にとって読んでみてください。本当に、普通の歴史の本です。

  大事なのは、伝聞ではなく、自分で・実際に手にとってみることです。もし、「ここが軍国主義的だ」とか「こんなに戦前の天皇主権を賛美している」という箇所があったら、是非コメント蘭で私に教えてください。
  もっとも、そういう煽りは、読んだこともない(それか、意図的に愛国心を否定しようとしている)売国左翼の人々がやっているのだとわかるでしょうけどね。
 
  私が最近、自分の言動について大いに反省していることがあります。

  それは、「実際に見もしないで、知ったつもりになっていた」ということです。
  そう思うようになったのは、夏に西日本の各地をバイクで旅行した後です。

  四国の県境などは、本当に不便なところが多いわけです。特に思ったのは、持ち合わせが無くなったとき、預金をおろすのが大変だな、ということでした。
  香川の真ん中にある満濃町から、讃岐山脈の向こうにある吉野川市まで、主要地方道を通ってきましたが、銀行というものが一つもないのです。それにも関わらず、どの町や村にも、必ず郵便局はありました。
  もし自分がここに住んでいて、「この郵便局は赤字だから、閉鎖します」と言い始めたらどう思うだろう?ここ以外にどこか金融機関と呼べるものがあるのか?
  それからどうも、今やろうとしている郵政民営化というのは、どこかおかしいのではないか、と思えてきたのです。

  以前の私であれば、マスコミの言うように、郵政民営化を行えば改革が進む、と思い、田舎の郵便局がどうなろうとしったことではない、と簡単に割り切っていたと思います。
  いや、むしろ、政治家に公共事業を回してもらって生きているような馬鹿な連中は、苦しんで当然だ、ということさえ考えたことでしょう。

  しかし、実際に田舎に行ってみると、そこにも人がいて、ちゃんと暮らしているのを目の当たりにするわけです。そして、東京に集まっている顔のない人々より、人に対して優しいことが多かったりします。
  そこで考えてしまうのです。こういう人たちが、本当に政治家のおこぼれをもらって生きているような愚かな人種なのだろうか?きっと、それに頼らざるをえないような仕組みが出来上がってしまっているのではないか?自分の生活のためだったら、多少納得できないことがあっても、地元の名士として政治家を頼ってしまうのは仕方のないことなのではないか・・・と。
  そうしてはじめて、地方の連中は馬鹿だから、と、よくわかってもいないのに、勝手に決めつけていた自分を、心底恥ずかしいと思いました。

  五木寛之さんの著書である『養生の実技』に、以下のようなくだりがあって、なるほどと思わされたことがあります。

「萩だけでなく、全国どこを歩いても、地方都市は閑散としている。
 郊外の大型店に押されて、街なかの商店がのきなみシャッターを
 おろしている様子も寂しい。
 (中略)
 私の考えは末端が大事、ということだ。中心が元気であるためには、
 末端の部分がいきいきしていなければならない。人間だと手、
 足の先、皮膚や、指先や、とにかく末端が元気である必要がある」

  考えてみれば、地方というのは、我々が日々口にする農作物の生まれるところでもあるわけです。
  だから、地方が死に絶えてしまえば、我々は毎日の糧食にも事欠くようになってしまうわけです。そして、こんなひどい環境で安いだけが取り柄の農作物を作っている国から食料を買わなければならなくなってしまうのです。
  郵政民営化の前に、地方がどっぷり浸かってしまった、土木事業中心の産業構造の転換を実行すべきです。
  例えば、ぜひともやってもらいたいのは、建設会社の数を減らす措置です。建設業は公共事業に依存する割合が相当大きな業種であり、生き延びるためには結局政治献金や談合に頼らざるを得なくなっています。その数を適正規模に減らせば、税金の無駄遣いや自然破壊は絶対に減ります。その分、農業や伝統工業の分野で参入規制を緩和すればよいのです。
  食糧自給率が低いというのなら、なぜもっと農業に従事する人口を増やそうとしないのでしょうか。いまだに農家の息子娘以外の新規参入が困難な仕組みを変えれば、農家の数は見違えるように増えるはずです。そういう仕組みを作ることこそ、本当の「地方活性化」なのです。
  それもせずに、何が「自己責任」、何が「自助努力」でしょうか。羽振りの良いときには票を取る道具として扱っておいて、今になってはしごを外すとは、本当に卑怯なやりかたです。
  まあ、その旗振り役をしているライオンヘアーの誰かさんは、地元の横須賀に米軍さえいてくれれば、地元に失業者が増えることもなく、地方の困っている人たちの声など気にする必要がないのでしょうがね!!
  
  補助金は減る、公共事業はなくなる、それでいて農業経営には制約が多い、、あげくの果てには郵便局まで取りつぶされてしまう・・・地方が兵糧責めにあっているようなものです。こんなのが、健全な国だとは私には思えません。

  これらはみんな、都会だけで生活していたら、頭でしか分からなかったことです。違う場所で暮らしている人にも、それぞれの生活や利害があるのだと知り、私は自分のものの考え方がずいぶん落ち着いたような気がします。

  マスコミが短い記事を断定的に書いているだけで、わかったつもりになっているようなことって、他にもありますよね。

  その最たるものは、子供を教えたことも触れたこともない人が唱えている教育制度の問題点でしょうね。まあ、これについてはまた別の機会に述べるとしましょう。

  これからも、口を出す以上はいろいろなものを実際に見て、聞いて、味わって、判断するようにしたいものだと思います。
  

台風が来たら考えること(その2)

2005年08月25日 22時46分03秒 | 生き方・人間関係
 旅の途中で雨に降られたとき、私は何度か天気を呪いました。バイクで旅行をしているから、それも当然だと、ずっと思っていました。
 しかし、そうなると、自分の思い通りにならないものに、いつも腹を立てなくてはいけない。これでは、疲れます。

 そこで、少し考え方を変えました。

 四国でも何度か夕立に降られたことがありました。
 田舎は遮蔽物が少ないので、これから行く先の空がどうも変だ、というのはすぐ見て分かります。それに、何度か同じ状況に陥って気づいたのですが、なんとなく、空気が湿っぽい感じもしてくるのです。
 そういうときは、もうそろそろ来るだろう、と、心の準備をしておく。降り始めたら、2、3分のうちに、雨宿りできる軒下を探す。1時間以上降り続く夕立はありません。その間、コンビニなら立ち読みをしたり、そうでなくても地図を見て予定を立てたり、携帯電話をいじって待つことにしました。
 この方法で、夕立はあまり障害だと感じなくなってきたのです。

 こういうことは、毎日の生活でもよくあると思うのです。
 嫌なことがあるが、本当はそれは大したことではなかった、ということはよくあります。それなのに、嫌で嫌でたまらない、というのは、そもそも嫌になってしまうような「前提条件」を捨てることが出来ないからです。
 バイクに乗っていて、雨が降るのが嫌なのはどうしてでしょう。それは、「濡れずに快適なツーリングを楽しみたい」とか「早く目的地に着きたい」といったような、自分の心の中に定められている「前提条件」との間に矛盾が生じるからです。
 濡れても、滑って転倒しなければいいし、目的地に着くのは1時間くらい遅れても構わない。そう考えてしまえばいいはずです。

 それなのに、我々は、なかなか「前提条件」の方を捨てられません。こうあるべきだ、と決めてしまうと、人間はなかなかそういう望みを捨てられないものなのです。それゆえに、無用の苦しさを抱えてしまうのです。
 そうならないためには、開き直ることが必要です。多くなりすぎた前提条件の、全てを捨てられなくても、どうでもいいものが必ずあるはずです。そういうものは、もう思い切って無視してしまうのです。
 西日本までバイクで行った私であれば、とにかく「8/19の徳島発のフェリーに五体満足でバイクごと乗船する」ことができれば、あとは何でもよかったのです。そう考えると、ずいぶん気楽になります。

 今何かを悩んでいるという方も、それは夕立に過ぎないのだと思うことです。そして、雨宿りする勇気を持つことです。あなたに雨宿りをさせないのは、あなたが心に抱え込んだ「こうあるべき」「こうでなければ」という前提条件なのかもしれませんよ。

 なんか、内容がこの方http://blog.goo.ne.jp/hiro4381のパクリと思われてしまいそうですね。(笑)
 

台風が来たら考えること(その1)

2005年08月25日 22時32分38秒 | 生き方・人間関係
 雨って嫌だなぁ・・・と、思う人は多いですね。
 しかし、私は四国を旅行して、「雨は有り難い」と改めて思いました。
 
 さて、この写真は一体なんだかお分かりですか?
 これ、実は「噴水」なんです。
 ちょうど、四国の水がめである「早明浦(さめうら)ダム」の貯水率がひと桁台に入った辺りに撮影したものです。ストーンサークルみたいな「オブジェ」あるので、何かなと思って近づいたら、張り紙があったというわけです。

 東京では、取水制限が続くと、讃岐うどんが食べられなくなる!?などという報道もされていたようですが、現地では全くそんな素振りはありませんでした。どうやら、水が少ないという事態には慣れっこになっているようです。しかし、学校のプールは閉鎖されていました。
 もっとも、テレビのトップニュースはいつも早明浦ダムの貯水率でした。そういう状況にいると、不思議なもので「雨でも降らないかな」と思い始めます。雨が降らないと、水が飲めなくなってしまうのだから、当然です。それくらい、水は大事なのだということは、どうも東京にいるとわからないものです。

(次回につづく)


失敗や挫折がくれるもの

2005年08月22日 23時37分25秒 | 生き方・人間関係
 最近、私のところに「うちの親が・・・」と泣きついてくる小6の女子生徒がいます。
 親御さんとも面談済みで、受験をしたいと言い出したのは生徒本人のようです。理由は、自分の学区内にある中学には絶対に行きたくないから、というものです。

 それが、どうも夏休み辺りから、本人が妙なプライドをひけらかすところがある、要するに受験勉強をしているから偉いというような意識を持ち始めた(私には全く思い当たる節がないのですが)らしく、お母さんが「受験はさせない」などと言い始めたのです。
 本人はかなりねばり強い性格なので、それでも勉強をやめようとはしません。受験も絶対にすると言っています。

 すると、今度はお父さんの方が、「合格するような勉強をとてもではないがしていない」と、毎日本人に文句をつけるようになったのです。

 確かに、本人はあまり頭の回転が早いほうではないのですが、反復してきちんと理解することは十分にできる能力があります。試験の偏差値も決して悪くありません。出した課題もサボったことはないのです。
 私には、何が不満なのかよくわかりません。

 話をいろいろ聞いてみると、どうやら父親の考え方にかなり強烈な「クセ」があるのだということがわかりました。
 その父親は、とある大学付属の高校(偏差値が相当高い、いわゆる難関校)に行っていたのですが、学内の推薦で希望の学部に入れないとわかり、わざわざ一般入試を受け直してその学部に合格したそうです。
 私立大学の中では1、2を争う難関大学の、最も人気の高い学部です。
 また、家の裕福さから見ても、会社で相当いい役職についているのではないか、と思われます。

 こういう経緯を聞けば、私はだいたいその父親がどんな人間かわかります。
 おそらく、自分が成功したやり方を、そのまま下の立場の人間にやらせようとするタイプです。
 こういう人は、何でも自分の「成功体験」から減点法で評価してしまいがちです。失敗する経験を積んでいない(あるいは、それを巧妙に避けている)ので、失敗する人間はみな努力が足りないと思ってしまうのです。

 そして、なんと、家族のメンバーは、父親以外みなそのことをちゃんとわかっているのです。
 娘である生徒本人も「あの人は何でもできるから・・・」などと言っていましたし、奥さんである母親も、面談のときに似たようなことを洩らしていました。
 

 高度成長期やバブル経済の時代に「成功」した人には、上のような傾向が強いのではないでしょうか。
 時代がたまたま敗者復活ルートを沢山用意してくれているときがあります。たとえば、1970年代前半なら、オイルショックが深刻なときでも、大卒で仕事がないということはありませんでした。バブル経済のときも、大学生は「売り手市場」でしたね。
 こういう時期には、何をしても「成功体験」になってしまいます。間違ったやり方や相当回り道をしたやり方でも、自他ともに満足のいく結果(たいていは、就職先や結婚相手)にたどり着くことができたからです。
 そういう経験しかしてこなかった人は、「敗因」の研究というものをほとんどしていません。だから、自分以外の人間が同じことを(違う能力や状況で)やってつまづいた場合、どうしてそうなるのかわからないのです。
 
 自分の能力を信じ、失敗した人間やうまくいかない者を蔑むのは、ある意味若者特有の行動だと思います。
 司法試験のような難しい試験には、10年くらい受験生をやっている人が結構沢山います。
 もちろん、ただ単に不真面目なだけなのかもしれません。本当に才能が無い人もいるかもしれません。
 しかし、そういう受験生だけが何度も受験しているわけではありません。仕事と両立しながら受けるといった時間的なハンデがあったり、予備校の講座等を受講するだけのお金が無かったり、何らかのハンデを負っている場合や、惜しいところで何度も涙を飲んでいる受験生も、たくさんいるのです。
 ところが、受験したての若い受験生は、「何回も受けるなんて、要領が悪いに違いない」と、ほとんどみんなが思ってしまうのです。そして、「自分はそうはならない。さっさと要領よく受かってみせる」と。

 私自身の経験からも分かるのですが、そういう思い上がった態度は、ただ単に「子供」なだけなのです。
 「子供」というのは、失敗や苦労の経験がなく、他者への共感に乏しい人間、という意味です。また、言い換えれば、「自分だけは何でも出来る」と勘違いしている状態だと思っても良いでしょう。
 子供が「子供」なのは当然です。しかし、社会生活で失敗を繰り返していく中で、だんだんと慎重になっていくものです。
 そうやって、同じものを目指すとしても、人それぞれいろんな到達方法があるんだ、と思えるようになる。それが、「大人」になるということです。

 私も、受験指導については「正しいやり方をすれば必ず受かる」と100%信じていた時代がありました。
 しかし、やはり個人の差はあるのです。それは、頭の程度だけではなく、目指そうと思う動機付けの濃淡であったり、その人を取り巻く人間関係だったりします。一見デメリットとしか見えない要素も、その人の個性であることは違いありません。だから、服を着たり脱いだりするように、一朝一夕で変えることはできないのです。
 そういう色々な条件を考慮しながら、それでも最良の目標はどこか、そのためにした方がいいことは何か、今では生徒毎に考えて接することができるようになりました。

 羨みでも妬みでもなく、上に出てきたようなお父さんは「かわいそうな人」だと思います。
 きっと、お父さんには、娘がどうして自分の「有り難い」アドバイスや激励に従わないのか、さっぱり理解できないにちがいありません。
 自分のやり方や考え方であれば失敗などするはずはないのに、どうしてこいつは俺の言うことを素直にきけないのだろうか?
 娘の要領の悪い(これもまた一つの個性だと思うのですが)勉強のしかたを見ていると、お父さんにはそんな疑問がふつふつと湧いてくるでしょう。そして、思い通りにならないことに苛立って、「受験なんてするな」と言ってしまうのでしょう。
 ひどい言い方をするようですが、テレビゲームで思い通りのプレーが出来なくてかんしゃくを起こしている小学生と、考え方は同じです。
 
 うまく行かないと言うのなら、なぜその「本人」のいる場所まで降りていってあげられないのでしょうか。
 受験なんてしなくていい、と言えるなら、なぜ要領の悪い勉強法にいちいちケチを付けるのでしょうか。好きなようにやらせて、失敗するのも勉強だと腹を括ればいいだけの話ではないでしょうか。
 どうせ勉強するなら、塾にお金を払うなら、きちんと「結果」を出さなければ気が済まないのでしょうね。

 自分に対して異常に高い基準を課す人を、私は別に止めようとは思いません。その人が苦しむだけだし、それを克服してしまえるだけのものを与えられているなら、きっと何か大きな仕事でもやってのけるでしょう。

 しかし、それを他人に当てはめようとするのは、大反対です。
 自分ができたから、おまえもできないわけがないだろう・・・こういう考え方が出来る人は、要するに「幼稚」なのです。
 最近よく話題になる「金さえあれば何をやってもいいだろう」と公言している、某IT企業の社長が良い例です。まあ、彼は子供がいないので、主義主張を押しつける相手、すなわち「被害者」が出ていませんが・・・。

 もちろん、こういうタイプの人に、「あなたは人の気持ちがわからない幼稚な人ですね」と正面から指摘してもわかるわけがありません。怒ってしまうに決まっています。
 だから、できるだけ機嫌を損ねず、おだてるところはおだてて、有利な条件を引き出すようにすればいいのです。
 もちろん、そんなのは小6の生徒ひとりでは無理ですから、私が間に入りながら、のらりくらりとやっていくしかないでしょう。こちらが切れてしまったらおしまいです。

 私がこう考えられるようになったのも、仕事や試験において、人格がおかしくなりそうな失敗や挫折を何度もしてきたからだと思います。こういう、ある意味袋小路のような状況の生徒対応になると、やはりそういう経験がある方が腹が据わりますね。

 失敗や挫折は、した方が絶対にいいです。すればするだけ、自分の方法論を他人に応用するための微調整が利くようになるからです。

 ただし、卑屈にならないことです。それだけを守れば、失敗は成功体験よりも役に立ちます。
 バブル崩壊以降、どうも日本がぱっとしないのは、結局この国の上層部にいる人間(だいたい「東大法学部卒」が多い)が、マイナス局面での対応をする訓練ができていなかったからです。
 逆説的ですが、成功こそ転落への第一歩なのかもしれません。誰も優勝した直後に、その日したミスを振り返ったりしませんから・・・。

悩み事をシンプルに考える方法

2005年08月07日 23時31分07秒 | 生き方・人間関係
今日、吉祥寺で友人と会いました。
付き合いの長い男なので、忌憚なくお互いの悩みを
相談し合いました。
一人で悩むと、どうも自分の世界だけが絶対だと思って
しまって、いけませんね。
友人のように、同性中の彼女とうまくいかない悩みや、
僕と異なる「まっとうな」業界で働く苦労など、
いろいろわかりました。

悩みを相談するというのは、解決を目的としているわけでは
必ずしもないと思います。
今日の私のように、「自分だけが苦しんでいるのではない」と
自分の置かれた状況を「相対化」するという効果もあるのです。
「相対化」というのは、他に比べるものを置くことで、
自分の立場を改めて捉え直すこと、という意味です。
そういえば、「相談」というのは、「相対化」と、
「相」という字が共通ですね。

ただ、やはり悩みを解消したいと思うのが普通でしょう。
そこで、悩みというものを簡単に捉える方法を
今日はお伝えしたいと思います。
あくまで、私の私見ですので、軽く参考にする程度で
構いませんが・・・。

悩みというのは、大きく分けると三つしかありません。

まずは、「物理的な悩み」です。
家が狭いとか、クーラーが無くて暑いとか、お金がないとか、
そういう人間の心理とは関係ない悩みです。

「物理的な悩み」の解決方法は、二つだけです。

一つは、その状況を我慢することです。
お金がないなら、お金を使わなければいいだけです。
家が狭くても、死にはしません。クーラーも同じです。
だいたい、これで済んでしまいます。

もう一つの方法は、物理的な原因を取り除くことです。
クーラーがないなら、買うか、クーラーのある場所
(図書館や喫茶店)に逃げ込めばいいのです。
お金がないなら、借りるか、稼ぐかすればよいのです。


次の悩みは、「自分に対する悩み」です。
例えば、第1志望の大学に落ちてしまったが、浪人すべきか
それとも第2志望の学校に行くか、という悩みです。
だいたいは、自分が本来そうありたいと思う理想と、
現実の間に開きがあることが原因です。

この悩みは、複雑なようでいて、答えは二つしかありません。

一つは、諦めてしまうことです。
先ほどの例なら、第2志望の学校に行けばいいだけです。
それを他人がどうこう非難する資格はありません。
親御さんであっても、難癖をつけるのは間違いです。
第2志望の学校に行ってほしくないなら、受けさせなければ
いいのです。
ここで肝心なのは、決めてしまってからああでもない、
こうでもない、と、文句をつけないことです。
自分から子供に次善校を受けてもいい、と意思表示した以上は、
後から「こんなはずでは」などと言うのはおかしいのです。

次善の道を行くというのは、決して恥ずかしいことではありません。

そして、もう一つの解決方法は、
あきらめずチャレンジすることです。
そのチャンスが完全に途絶えてしまったなら、
もう諦めるしかないでしょうが、そうではないなら、
もう一度やってみればいいのです。
ただ、一度自分が拒絶されたのは確かな事実です。
同じ失敗を二度と繰り返さないよう、最善の策を
講じるべきです。
もちろん、再チャレンジを選んだ以上、やっぱりやめて
おけばよかった、というのは無しです。
それは、単なる甘えです。

「自分に対する悩み」で、一番ダメな対応は、
いつまで経っても自分でどうするかを決めないことです。

自分の問題は、自分で決めるしかありません。
人に決めてもらいたい人は、そうすればいいでしょう。
ただし、それにあれこれ文句をつけないことです。
これは、絶対に守らなくてはならない。
守れないなら、やはり自分で決めるべきでしょうね。


そして、最後の悩みは、「他人に対する悩み」です。
恋人とうまく行かない、というのが典型でしょうか。
これが一番厄介ですが、シンプルに考えることはできます。

人間関係のうまく行かない原因は、以下に挙げること
ぐらいしかありません。

①相手の言動が間違っている・自分にとって不利益
②自分の言動が間違っている・相手に不利益を与えている
③相手の言動が間違っていないとわかってはいるが、
 素直に納得することが出来ない
④以上の①~③に当てはまらない、よく分からない

①は、二つの方法で解決できます。
一つは、相手の言動が間違っていること、自分にとって
迷惑なことを、伝えることです。
もちろん、言い方は気を付けてくださいよ。
初めから喧嘩腰では、結論が決まっているようなものです。
そして、それができないというなら、我慢するか、相手と
なるべく接触しないような状況に自分を持っていくしか
ありません。

②は、自分の言動を変えるしかありません。
どうしても変えられない、というなら、悩むのは
やめてください。悩んでも解決しないのですから、
悩む必要はないのです。

③は、多くの場合、「言葉に出来ない本音」が
邪魔をして、心が素直でなくなっている可能性が
あります。
たとえば、ある特定の部下にきつく当たってしまうのは、
その部下に対して、学歴や容姿などのコンプレックスを
持っているのかも知れません。
そういう、言葉に出来ない本音を、捨てることができないか、
捨てられないとしても、表面化しないよう努力するか、
やりやすい方法を考えてみてください。

④は、自分の心に嘘をついている可能性があります。
①から③のどれかに当たらないか、よく考えてください。
そうでないなら、悩む必要はありません。


人間の心はそんなに単純ではない、ということを
思われる方もいるでしょう。

しかし、上に挙げた方法は、「解決するための」方法です。
人間の心理を事細かに探り当てることが目的では
ありません。
だいいち、心という実体のないものについて、
客観的に言葉で言い当てて、どうしようと言うのですか?

悩みを解決するには、具体的に考えるしかないのです。
そのとき、なるべく分岐点を単純にすることが、
行動を起こしやすくする鍵です。

一番最悪な対応方法を言っておきましょうか。
それは、
「自分で考えず、他のものに悩みを転嫁する」
ことです。

悩みが高じてストレスで一杯になり、
子供や動物を虐待しているような人間は、考えることを
放棄しているのです。
自分と向き合っていないという点で、最低の人間です。
虐待や、あるいは他の方法(麻薬やらセックスやら)で
いっとき悩みを忘れることはできるでしょう。
しかし、悩みが生じた根っこの部分を取り除かなければ、
絶対にまた同じことを繰り返します。

いきなり解決が無理、という人は、信頼できる人に
相談してみるといいでしょう。

そうすれば、悩みを相対化して、悩み事の解決に
向けて、素直に頭を使うことができるかもしれません。
例えば、カウンセラーの方に相談するのも一つの手です。
私のブログのブックマークに登録されているような、
現役のカウンセラーさんに相談してみてはどうでしょう。

悩んで立ち止まっている自分に酔ってしまわないうちに、
とにかく、何かをしましょう、前に向かって。



人生の分かれ道にて

2005年07月30日 22時10分05秒 | 生き方・人間関係
どうも、ろろです。
あいつ、死んだのかな?という声がついに出始めたので、
久しぶりに更新いたします。

7月17日、18日にとある資格の試験日があったのと、
その直後から夏期講習が始まった関係で、ずっと
更新しませんでした。

出来が悪く、かなり落ち込んでいたので、この掲示板で
愚痴を書いてしまう恐れがありました。
このブログを見ていただいている皆さんは、何かプラスに
なるものを得ようと覗いていただいているわけで、
そこに「もう人生おしまいだ」とか
「5年間全くの無駄だった」などという否定的なテクストを
びっしり書き込んではいけないと思ったのです。

試験に、人生を賭けている人は、少なくはないでしょうね。
中には、私のように、今の生活に不満で、人生を切り開くために
何かの試験を受けようとしている人もいるかもしれません。
そして、うまく行かなくて、嘆いている人もいることでしょう。

そんな人に対して、「またがんばればいいよ」とか、
「努力したことはきっと無駄にならないよ」と、
声をかけるのは別に構いません。
しかし、悲観している受験生に何を言っても無駄です。

本当にこの子は自殺してしまわないかしら、と
心配になる親御さんもいるかもしれませんが、
この問題は、二つしか解決方法はありません。

一つは、もうその道を諦めてしまうことです。
試験に受からなくても、今自分が受かっている学校に進んだり、
今自分ができることだけをする。
そのことは、決して「負け」を意味しません。
本人がそれを受け容れるなら、負けでも何でもないのです。

そして、もう一つは「受かるまでやる」ことです。
正直、これは賢明な手段とは言えません。
一度拒絶されたものに、再び取り組むには相当なエネルギーが
要ります。周囲の支えも必要でしょう。
もう後はないのだと、死ぬつもりで挑まなくてはなりません。
そのうち受かる試験はその程度の価値しかありません。
そうでない試験は、受かろうと思っても受からない試験なのです。
決して、上の表現はオーバーではありません。

悩んでいる人は、そのどちらかしかないのだ、と
単純に考えてみることです。
立ち止まっていても、何も変わらないのですから。

そうはいっても、
こう言っている当の本人が、
まだどうすべきか決めかねている状態なのですが・・・。

もう暫く、考えてみます。
明日は、台風のせいで、休日返上です。
こういうのは、誰も恨めないから困りますね・・・。

早起きできない=受からない

2005年06月08日 23時52分56秒 | 生き方・人間関係
どうも、みなさんお久しぶりです。
 
少し休止期間がありましたが、これは試験勉強の方が
影響しております。

私の受けている資格試験は試験が三回に分けてあります。
そして、一回目に当たる択一式試験の合否が、6/1に出たのです。
受けた直後、自己採点して、もうだめだと思っていました。
来年の勉強をすでに始めていたら、合格していました。
心配をかけてしまった私の親しい方々には、この場を借りて
謝らせていただきます。すみませんでした。m(_ _)m

次の論文式の試験が天王山なので(最後の面接はそれほど
落ちないし、もしダメでも翌年がある)、それに向けて
朝6時おきでいろいろやっております。
一人暮らしだと、勉強だけやっているわけにはいかない
もので・・・洗濯や掃除、買い物などを効率よく
済ませなくてはいけません。

今のところ、早起きは成功しています。
去年は早く起きられないことも多く、起きたとしても
朝からの予備校の講座にひきずられて、どうも
「勉強させられている」ような感じでした。

原因はいろいろあるのですが、要は私自身が
「早く起きさえすればいい」
と、腹を括ったからではないかなと思います。

早起きして勉強することを継続しようと
いうとき、いろいろ障害が出てくると思うのです。
例えば、うまく起きられない、起きたとしても
眠気が襲ってくる、体調が優れない、
無理をして病気を引き起こしたらどうしよう・・・
いろいろ考えますよね。
私は、特に先のことをいろいろ考えてしまうたちなので、
上に挙げたようなことは、過去の試みで全て
熟慮済みです(笑)。

しかし、今は思うのです。
それらは、全て「できなかったときの為の言い訳」に
すぎないのではないか、と。

やる、と決めたら、そのことだけを考えればいいのです。
早く起きようと決めたら、早く起きればいい。
それを実行したことで生じる弊害というのは、起こったときに
対処すればいいだけのことであって、
まず「やる」と決めたことを実行する。

クレマンソーというフランスの首相は、第一次大戦のとき
議会で戦争の目的についてきかれて、
「戦争の目的は、勝つことである」と、答えたそうです。
これなど、まさに「やると決めたことだけを考える」という
ことですよね。
集中力というのは、その場その場の事務処理だけでなく、
大きな戦略という点でもあてはまるのです。

こういうことは、受験勉強でも言えます。
だいたい、受験生というのも、本当に受かりたいと思って
受験勉強をしているものでしょうか。
なんとなく流れに乗っていればそのうち受かる、と思って
いる人が、大半なのではないでしょうか。

もちろん、1年中緊張していたら、人格が破綻して
しまいます。
しかし、ここが一生の分かれ目、と思うようなところで
ある程度無理をするというのは、仕方がないと思うのです。

そして、その無理を、「自分から選ぶ」ことができるかどうか、
それが一番重要なことなのだと思います。

去年の私は、眠い目をこすりながら予備校の講座
(本番で出そうな論文の答案を書く講座がある)に出ていましたが、
それは、どうもその講座に無理を「させられていた」ような
気がするのです。
だから、簡単に起きられないし、起きたとしても起き抜けが
非常に悪かったように思います。
結果は推して知るべき・・・といったところですね。

どんなに可能性が低いチャンスでも、自分でたぐり寄せる
という気持ちがなければ、かけた時間や記憶した物事が
無駄になってしまうのです。
気持ちが全てではありませんが、何かをやろう、成し遂げよう
というのは、自分の内側から引っぱり出さないといけない。
最近、つくづく思いました。

それでは、また時折更新いたします。
ちょくちょく除いてみてくださいね。それでは。
 

「結果を出せばいい」というビョーキ

2005年05月15日 22時46分10秒 | 生き方・人間関係
この前、授業が終わって職員室で机の上を
片づけていたときのことです。

真後ろにいる先生(文系)と、その受け持ちの生徒が
何か話しています。どうやら、今度漢字検定が
あるので、その勉強方法についてのようです。

「他の塾に行ってる子が持ってるプリントがあってー」
その女子生徒が、友達から借りてきたらしいプリントを
取り出して、その先生に見せました。
私が振り返って見ると、なんのことはない、普通の
プリント2枚です。
そして、その女の子が言った言葉が、

「その(プリントを作った他の塾の)先生が、これを
 全部暗記すれば絶対合格できるってー」

だから、あんたもそういう教材を作ってくださいよ、
というような趣旨のことを彼女は言ったと思うのですが、
私は、どうも釈然としません。

上の言葉、どう思われますか?

実は、この言葉、かなり問題が多いのです。

私は、他の塾の先生の作った教材そのものに
いちゃもんをつけるわけではありません。
その先生が、添えた言葉が問題なのです。

「○○を完全に暗記すれば、必ず××できる」
というのは、ふたつの「無責任」によって
支えられています。

ひとつは、
「他にあれこれやらせるのも面倒だから、これを
やらせて済ませてしまおう」という、
「供給側の無責任」です。

そして、もう一つは、
「自分でいろいろ工夫するのも面倒だから、これを
覚えるだけで済ませてしまおう」という、
「受け手の無責任」です。

どんなことでもそうですが、これさえやっておけば
100%大丈夫、という教材や講座や方法論
というものは、絶対にありません。
だから、今自分に足りないものは何か、それを
埋めるために何をしたらいいのか、少しずつ軌道修正
しながら、目標に向かっていくしかないのです。

このことと、優先順位をつけて物事を片づけるというのは
まったく次元の異なる話です。
ほとんど白紙のことを勉強するとき、いきなり分厚い
参考書を隅から隅まで読んで理解しようとするでしょうか。
その場合は、まず記憶の幹になるようなものを作るため、
薄く、基本事項を網羅しているような問題集を
やる方がいいのです。

上に出てくる漢字検定のプリントの先生も、
「まず、これをきちんと繰り返しやって覚えてから、
 まだ時間に余裕があれば、違うものをやる」
という言い方をすべきなのです。

だって、漢字検定の目的は、それを通じて
漢字を覚えることでしょう??
検定に受かったけれど漢字は知らない、というのでは
何の意味もないんじゃありませんか?

それなのに、何でもかんでも「これを完全に覚えれば
受かる」などと言ってしまい、また、言われた側も
それにすがってしまうのは、
過程はどうでもいいから、結果を出せばいいんだ
という考えが頭の中を支配しているからではないですか?

○○を完全に暗記すれば必ず××できる、というのは
勉強でも何でもありません。
何度も書いているので「しつこいです」と言われてしまい
そうですが、理解力や事務処理能力といった
能力を身につけるためにするのが勉強です。
そういう能力を付けようと思って勉強した方が
絶対に受かりやすいのです。

私が教えている子供でも「それって入試に出ますか」
ということをやたらと訊いてくるのがいたります。
もちろん、そういう事項を教材にしているのですが、
教えられたものがそのまま入試に出てこないと
物を覚える気が起きない、という子供は
将来どんな人間になるのか心配になります。
そういう人間は直に結果が返ってくることしか
やりたがらないので、思い通りの結果が出てこないと
すぐに物事を投げ出してしまう可能性が高いからです。

教える側の人間も、安易な結果主義に走ってはいけません。
結果を出す、というのは、教育の目的ではないのです。
なにかの漫画で、学校の先生が

「はいー、この応用問題チェックー、テストに出るぞー」

と言っているコマがあったのですが、
こんなことを言わなければ知識や学問体系を教えることが
できない人は、教師として失格だと私は思います。

塾の先生も、事の性質上、「○○によく出る」などと
言ってしまいがちですが、本当は少し遠回りになるくらいの
勉強をさせる方が、本人のためにも、合格のためにも
いいことが多いのです。
それどころか、何も考えないで、とにかく、「出るぞ」
と言っている先生も結構多いです。
「よく出る」を連発する塾講師には要注意です(笑)。


業務用に使用されている塩の大半は、塩化ナトリウムが
100%近い、いわゆる精製塩なのだそうです。
海水のミネラルがほどんどないのですから、身体にいいわけが
ありません。それにも関わらず、精製塩が使われるのは、
「塩の味がして、安い」からに他なりません。

結果主義も、これと同じことなのです。

とにかく、覚えておいて点が取れさえすればいい、という
勉強は、精製塩と同じように味気なく、つまらないものでしょう。
よしんば、それで結果が出たとしても、苦労して達成したという
ある種の充実感は伴いません。
結果を出そうとしたことが、かえって中身を伴わないという
馬鹿げた事態が起こってしまうのです。

塩ならまだ洒落で済むところがありますが、
人間の生き方がこれでは困ります。
自然塩も、いろんな混ざり物があって初めて、精製塩にない
味わいというのが生まれるのではありませんか。

「最小限の努力で、無駄なく、スマートに結果を出そう」
などと言うのはもうやめにして、
「結果が出るまでの苦労をとことん味わえ」と
言ってやれるようになりたいものですね。

「仲間がいる」ということ

2005年05月13日 00時13分54秒 | 生き方・人間関係
自分の指示したことをやってこない生徒がいると
私はすぐに頭に血が昇る方です。

人間は思い通りにならない、確かにそうです。

しかし、自分が伝えたい、と思っていることを、
ないがしろにされているように感じ、憤りや
もの悲しさを感じてしまう・・・・
そんな経験は、大人ならば誰しも一度はしたことが
あるでしょう。
私も、せっかくその生徒のためを思っていろいろ
やっているのに、恩を徒で返すような行動に
出られることもあります。
こちらが努力しても、相手がそれを汲み取ろうと
してくれないことは、もっと沢山あります。

どうしたら、そんな「ずれ」を避けられるんでしょうね?

結論から言ってしまえば、
「ずれ」を完全になくす方法は、ありません。

上のような「分かってもらえない辛さ」は、人と
人がコミュニケーションを図る際に、絶対に
生じるのです。
(もちろん、頻度は少なくできる)
これが嫌なら、もう人と会話をしない、接しない
そうするほかありません。
でも、なんかそれも変ですよね。

「ずれ」を100%を避けることはできないのですが
そこから生じる辛さや苦しみを、比較的短時間で
終わらせる方法なら、ひとつだけあります。

それは、「人に話してしまう」ということです。

私が恵まれているなと思うのは、職場が文系理系で
ペアを組んで指導に当たれるということです。
例えば、良くないことが授業であったとき、
「今日○○が嘗めた口を利いてきたので、怒鳴ってやった」
などと、授業後に相方に洩らすことができる、
それだけでどんなに楽になるかわかりません。

精神性疾患のため、2003年度に病気休職した全国の
公立学校教員は、過去最多の3194人もいたそうです。
(昨年12月11日の朝日新聞朝刊より)

もちろん、教師になる人間自体がひ弱になってきているとか
今の学校における問題点は過去のそれよりもはるかに
複雑化しているとか、いろいろな要因はあるでしょう。
それでも、私は教師が追いつめられてしまうのは、
ちょっとした日々の不満を話してしまえる
「仲間がいない」ことが原因だと確信しています。

小中学校の担任制度は、ある子供集団に複数の大人が
関わるということをしていません。
これは、すごく残念なことです。
いろいろな目で見れば、子供のいい面が発見できる・・・
などと、きれいごとを言うつもりはありません。
複数の大人が子供たちを見ることになる一番の利点は
悩みを共有できることです。
「話してしまう」ことができる仲間がいれば、
相手や自分のことを冷静に捉え直すこともできます。

教える立場の人間が、ひとりぼっちで問題と向き合う
ことを避けることができる、これこそが
「セーフティネット」というやつではありませんかね。

歌手の「チャゲ&飛鳥」が長続きしている理由は、一人が
調子が悪くても、もう一人がカバーするという関係が
しっかりできているからだ、と言います。
あんなの、どっちか一人にしてコーラスは雇えば
済むじゃないか、とか思う人もいるかも知れませんが、
飛鳥はチャゲがいなければ、チャゲは飛鳥がいなければ
どこかでダメになっていたかも知れません。

仲間と支え合う、というのは、問題が生じたときに
破綻せずに済むための、もっとも良い方法なのです。

30人学級も結構ですが、ホームルームなど先生が
二人いてもいいんじゃないですかね?
ゆとりだの学力低下だの学級崩壊だの言う前に、
先生が孤立しがちな職務分掌を変えた方がいいと
思いませんか?

みなさんも、仲間を持つようにしてください。
ネット上でもいいのですが、できれば
目の前で話ができる仲間を、です。


そういう意味で、日本人の旦那さんは、もっと
奥さんがたの「仲間」になってあげてほしい
ですね。(もちろん、その逆も言えます)
夫婦がお互いを仲間だと思えるなら、子供は絶対に
歪まないはずです。
そのためには、すかさず「言ってしまう」ことです。
そして、それを「聞いてやる」、たったこれだけ
ですよ。

これを見た旦那様がた、身近な仲間を大切にして
あげてくださいね(大切にしているかたは、さらに)
妻のいない私からの、ちょっとしたやっかみです(笑)

「日々是勉強」の中で想うこと

2005年05月05日 23時59分53秒 | 生き方・人間関係
いやはや、まったくタイトル通りの状況です(^o^;)


実は、わたくし「受験生」なのです。
もちろん、高校・大学受験ではありませんが・・・。

毎年母の日に、マークシートの試験がある資格試験・・・といえば
分かる方にはわかりますかね?
最後の仕上げということで、連休中はもう勉強一色という
わけです。
去年と一昨年は5月の方にかなり時間をかけてきたので、
「もう大丈夫だ」と言える状態で本番に臨めたのですが、
今年は正直焦りを感じております。

ここ1週間くらいで、「これでは受からない」と思ったり、
もう大丈夫だろうと気持ちが上向きになったり、
精神的に安定しているとは言えませんね。
おそらく、自信のない受験生というのは、こういう気持ちに
なるんだろうな、と、身をもって実感しています。
来年の2月には、もう少し優しい言葉をかけてやれそうかも?

私は、

「努力していない奴が悪い」

という言葉に、何か他人への共感を欠いているような、
鼻につくものを感じることがあります。

最近よく分かったのですが、それは、うまくいかない、
どうしようもない状況を経験したことがなかったり、
あったとしても、そういう経験を忘れてしまうことから
くるのでしょう。
こればかりは、頭でわかっていても難しいものですね。
「腹に沁みる」という言葉がぴったりくる、そんな
ものだと思います。

「苦労は買ってでもしろ」という言葉は、
他人への共感の幅を増やすという面で一番大切な
側面を、多少オーバーではありますがよく言い当てている
そんな気がします。

子供に対しても、そんな気持ちを忘れずにいたいものです。


では、試験勉強に戻ります。
また少しの間、さようなら