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 歳歳年年 人同じからず 

人類の進歩につくした人々ー「雨ニモマケズ」の「ヒドリ」が「ヒデリ」に誰が何時変えたか

2011年08月01日 | 随想・日記

       (小さな画像は、クリックすると大きく変わります)

 

 一昨年の九月に「オツペルと象」をここで採り上げた。「雨ニモマケズ」に(つづく)として他に進んでしまった。日にちがたち過ぎたがきょうはそれのつづきである。

 「雨ニモマケズ」の後半の詩が、賢治詩碑第一号として桜の地に建立されたのは、昭和十一年十一月廿一日である(詩碑裏に記名あり 前面高村光太郎・建立日佐藤隆房揮蒙)。「雨ニモマケズ」手帳の発見の経緯は、あまりにも有名であるのでここでは省略しますが、この有名な「雨ニモマケズ」が何時どのようにして世に知らされてきたのかには、間違いの記述や定かに記されたのをわたくしはあまり知らない。

 「宮澤賢治全集」に収録されたのは、昭和十八年十月三十日発行の十字屋版第六巻(雑編)が最初であるが、それ以前に見られるのは、昭和九年九月二十一日の岩手日報夕刊4面に「宮澤賢治追悼号」、そして上記の本に見られた。これが早い時期のものである。以後「宮澤賢治名作選」松田甚次郎編には昭和十四年三月七日発行に「雨ニモマケズ」が収録されている。

 さて 間違って記述されているのは何処であるかだが、それは「宮澤賢治全集 別巻」(昭和十九年二月廿八日発行)の年譜である。

 上記十字屋版 「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」の昭和十一年(没後四年)に、日本少年(ママ)国民文庫「人類の進歩に尽した人々」に詩「雨ニモマケズ」掲載

とあろ。その前列には、

 七月十五日、山本有三氏編日本少年(ママ)国民文庫「日本名作選」に「オッペルと象」選定せらる。

である。この七月十五日と、十月一日、「歴程」の間に記されているのが写真掲載の上記の本である。

 これ以外の本は、草野心平編 「宮澤賢治研究」十字屋書店 昭和十四年九月六日発行が有るが、清六編の年譜に『「雨ニモマケズ」を掲載』とある。この本には「雨ニモマケズ」の本文は掲載されていないが、桜の詩碑の写真が有る。

 筑摩版の「宮澤賢治研究」「宮澤賢治研究文献目録 小倉豊文編」にも、没後四年が三年に変っているが、昭和十一年の七月に「雨ニモマケズ」収録とされているとあるだけで、「雨ニモマケズ」の本文の記載は無い。小倉さんは以後「手帳研究」でもこの件には触れていない。

 上記の写真でご覧戴けるように、本として世に出たのは昭和十二年一月十一日であるが、清六さんがこの本を紛失されたかどうかで、確認をされていなかった。この記載間違いが、小倉編にも引き継がれた。上記写真の本は第三回増刷のものであるが、現今では発行日はPCでも調べられる、上記の発行日は間違いない。

 本題に入るが、「雨ニモマケズ」の詩句「ヒドリ」が「ヒデリ」に変えられたのは、全集に収録編集以前に宮澤家の手中にあった経緯をみて、間違いなく宮澤家が変えたと確信できると思う。時期は新聞発表の前頃で有ろうか。

 

 (「ヒドリ」「ヒデリ」の昨今の話題に付いては、別のきかいに記す。ここでは入沢さんが勝手に「ヒデリ」と変えたのではない事を書きたかったのである。)

 


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2 コメント

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Unknown (point)
2011-09-01 00:00:06
私も「雨ニモマケズ」の初出には興味があります。
賢治は行ツテを4回書いているのですが、どのような経緯で校訂されたのかが不明です。
草野さんの「宮澤賢治研究」の中にはあったと記憶しています。9月に花巻に行った時に確認してきます。
Unknown (point)
2011-10-04 22:08:36
先の文の書き方が変ですみません。
賢治は手帳には「行ッテ」と鉛筆で3回書き、赤鉛筆で1回書いています。小倉さんの「雨ニモマケズ手帳」新考では草野さんの「宮澤賢治研究 2」昭和10年6月10日発行 発行所 宮澤賢治友ノ會 が印刷になった初出であろうと記されています。この本を確認したところ、8-9ページに現在流布しているものと同じ詩が掲載されています。
小倉さんに依ると昭和10年2月16日に新宿の「モナミ」で第一回の宮沢賢治友ノ會の会合が会った時に雨ニモマケズの手帳を披露したと記されています。であるとすれば、昭和9年の岩手日報の記事が確実であれば、つじつまが合わなくなってしまいます。
ところで、11月の浅草ご一緒しましょう。

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