敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

食事の工夫

2009-01-22 22:52:55 | 日記 戦中編
昭和二十年八月五日 晴 二,三直出勤

 昨夜、寝不足したので身体がだるくて何もせず半日ぶらぶらして暮らした。
 
 昨夕、豆粕の粉を馬鈴薯をすったのと混ぜて油を引いた鍋で焼いて見た。 食べられない事もないがボソボソする。 尚、馬鈴薯をすったのだけでよくまとまる。

 又、今日は豆腐からに馬鈴薯をすって入れ杓子でポンポンと油を引いた鍋に入れて焼いて見た。 矢張り大してうまくない。
 豆粕も豆腐からも馬鈴薯をすったのを入れてすいとんにした方が良いかもしれない。 今度はそうして見よう。 兎まれおからと藷の焼いたので一食節約した。

 午前八時頃第一回警報発令。 B29侵入したらしいがラジオの調整が具合悪いので情報は不明だった。
 次は十一時半頃警報発令。五分たって空襲警報になった。 B公に誘導された
P51 百五十機が房総方面からと相模湾方面からと侵入した。 十二時五十分空襲警報解除になった。

 今日、来月六日迄の分の米が配給になった。 何も入らないよい米だった。

 夜九時頃警報発令。 南方洋上より数目標伊豆列島東側を北上中との情報である。 警戒していると九時半頃空襲警報発令。 B29百五十機関東西北部の高崎、前橋、渋川を焼爆した。 

煙草の配給

2009-01-22 22:10:05 | 日記 戦中編
昭和二十年八月四日 晴 明け

 今日も晴れて暑い日だった。 こんな天気が少し続けば米も大丈夫取れるかも知れない。

 帰宅後、バケツや肥汲桶などにコールタールを塗ったり、豆をつぶしたり、蕃茄に散水したりして一日を過ごした。

 十一時四十分頃警報発令、B29一機八王子辺に侵入したが西北方に方向をとり新潟に入ってしまった。 この奴の帰りか、一時頃又警報発令になった。

 夜になって煙草(鵬翼 二十本入り一ヶ、みのり二ヶ)配給があった。 早速久し振りで一本吸った。

 九時頃寝に就いたがのみが多くて眠れなかった。 仕方がないので起き出して豆つぶしをした。 豆つぶし中、一時四十分頃警報発令。 東海軍管区に入ったB29二機が関東に入った。 解除は二時半頃だった。









豆ばかりの配給

2009-01-15 16:27:52 | 日記 戦中編
昭和二十年八月一日 晴れ 明け

 帰宅後豆つぶしをした。 今日初めて夏らしく暑く、蝉が庭でないていた。
この天候が続けば米も大丈夫かも知れない。
 
 昨日、又豆が十六㎏来た。三人で十六㎏だ。 一ヶ月分殆ど豆ということになる。 それに今に馬鈴薯やパンも来る。米の来るのがなくなる。

 夜八時十分頃警報発令。 南方洋上よりB29が来るという。 準備している中八時半頃空襲警報発令。 B29が一機宛川崎、鶴見の工場地帯に爆弾攻撃を加えた。 時々硝子戸がビリビリと震えた。 また一隊は八王子、水戸、長岡等にも焼夷弾攻撃をした。 
 三時四十分警戒警報解除になったが 八時から三時半まで七時間半では長くて困った。


昭和二十年八月二日 晴 一直出勤

 長い昨夜の空襲警報で今日は眠くて困った。
 帰宅したら町内会費や国民貯金を支払って貰いたいとAさんから言伝があったのでHさんの家に行って支払ってきた (九円五十五銭)

 夜一度も来なかった。久し振りにゆっくり眠った。


昭和二十年八月三日 晴 二、三直出勤

 又、豆つぶしをした。 十時少し前警報発令。又一機かと思っていたら P51
の編隊だと判明した。 始めは宇都宮や前橋等関東北部にばかり行ったが終わり近くなって 成増の方へ来たらしく 爆弾の音、高射砲や機関砲などの音がした。 飛行機の音も聞こえたが P公は見えなかった。

 十二時半頃又警報発令。 B29一機西より帝都に侵入、 伝単を撒いて行った。
 夜は来なかった。