敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

とんぼ返りで帰京

2011-05-08 00:22:01 | 日記 戦後編
昭和二十一年五月二十五日 曇後雨 休み

 荷を作って七時四十五分家を出た。 汽車は三十分遅れて来たので混雑して居ると思ったが さ程でもなく中に入って行けた。 山形でどっと降りたので腰かけられた。
 曇っていて朝日岳も蔵王も頂上は見えないが八合目辺の雪景色が雲の間から少し見えるだけだった。
 福島着一時。一時着の殆ど全客が一時五分の上野行きに乗ろうとするので混雑は非常なもので、私は三時十分発の急行に乗った。
 沿道の新緑は美しかった。 殊に関東に入ってから雨になったので那須野の新緑は美しく食糧の心配なしに見たいと思った。
 九時日暮里着。 池袋から東上線に乗換え大山駅まで来ると電車が故障になってしまった。 歩こうか、動くまで待とうかと思っていると 突然ドシン、バリバリと云う音とともに身体を投げ出され頭を何処かえ打ちつけた。 何が何だかわからないが兎も角荷物をと見ると腰掛の下に落ちて居た。 後方から来た汽車が追突したのだった。
けが人も出たらしい。 大勢の人が怒鳴ったり罵ったりしていた。 額にこぶが出来ただけだったのは幸いだった。 仕方なく歩いて帰った。帰宅十時半。米は二斗二升あった。 家に食物があればもう一晩も泊って蕗でも取って来るのであるがそれも出来ず、常に食糧がなくて慌てて旅をせねばならぬ。敗戦国とはこんなものか。

田舎(山形)行き

2011-05-07 23:29:48 | 日記 戦後編
昭和二十一年五月二十三日 曇 公休

 目が覚めたのは二時だった。 妻が簡単な食事を作ってくれた。
未だ早いと思ったが三時五分に家を出た。 まだ暗く糠雨が降って居た。 歩いて巣鴨まで行った。 一番の省線(四時二十五分)で上野へ行った。 窓口で売ると云う話だったが それは新潟方面だけ。 仕方がないので交通公社に行った。 前回は七十五番だったが今日は何番かわからないほど後方であった。 公社の人が整理して居て、二十三日分は売り切れである。 急行ならあると云う。 仕方がないので急行の申し込みをしてようやく買う資格?が出来た。 
 食糧が足りないのと 買い出しを認めると云う風評でどっと人が殖えたらしい。
八時二十分頃から売り始めて 買って出たのは十時頃。
楯岡往復と急行券(六十五円)を買って帰って来た(十一時)。
 幸い雨も降らず時々薄日が出多りしたのでよかった。 帰宅後準備した。 一時頃雷が鳴ってパラパラと雨が来たが大したことなく終わった。
 三時頃家を出て上野に行った。 人は大変なもので、殊に仙台廻り青森行きの人は大変なものだった。 幸いにも鉄道の人と一緒に職員通用口から入場して五番線に行って乗車した。 相変わらず大変な混雑。 一睡も出来なかった。