敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

一日に五回の空襲警報

2007-10-28 16:57:48 | 日記 戦中編
昭和二十年二月十日 晴 二、三直出勤
 九時半頃警戒警報発令になった。 敵一機関東東部より侵入、北部をうろついた後、南下して京浜西郊を通過相模湾から南方海上に去った。投弾した様子もない。別の一機は静岡に入り北上して信州地方に行き東進して関東西南部に来て東進してから退去した。

 午後出勤してから間もなく一時半頃警戒警報発令、二時頃空襲警報発令になった。
五編隊に分かれて房総方面より約九十機侵入。主として太田付近を爆撃した。航空機工場を狙って来たらしい。四時頃空襲警報解除、間もなく警戒警報も解除になった。

 夜、九時半頃又、警報が出た。敵一機が甲駿地区から関東北部に入り信州南部に行き甲駿地区から海上に出て行った。

 第二回目は十一時警報発令。関東西南部に入った敵一機は帝都上空を西から東南へ出て去った。

 第三回目は午前二時半発令。房総方面より関東北部に入り反転して東進、海上に出て行った。十五分で解除になった。 斯う度々来たので四時過ぎまで眠れなくて困った。

 

ガソリン不足

2007-10-14 22:15:28 | 日記 戦中編
昭和二十年二月九日 晴れ 明け
 大久保電車営業所の荏原と言う職員が死亡、本日告別式だという通知があった。
十一時から正午まで焼香をしても火葬場と霊柩車の都合で出棺が出来ないとの話だった。
 帰宅すると近所のHさんが死んだと言う。Hさんの家はこのの旧家で地主である。処が霊柩車がなかったのでリヤカーで出棺したとの話であった。 金に不自由のない家でも時世には勝てないのかも知れない。 霊柩車がないのではなくガソリンがなくて動かないのであろう。
 交通局の脱線事故の応急車さえガソリンがなくて動かない。 交通の第一線でさえも斯様な有様である。民需の而も霊柩車用のガソリンなど全く配給が無いのかも知れない。此れに依っても戦争の苛烈さを思わせる。

風呂

2007-10-02 21:53:24 | 日記 戦中編
昭和二十年一月二十九日 晴 賜暇
 今日は風がなくよい日だったので朝食後風呂の薪切りをした。
燃料は垣根を毀して作った。 先日(二十一日)子供等には沸かして入れてやったが、私は今月二日か三日頃入ったきりである。手足や頭は度々勤め先で電熱器で湯を作って洗ったが身体は洗えない。
 後に斯様な事が嘘としか思えないかも知れないが大東亜戦下の我々の生活が斯様なものである。