敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

昭和19年5月7日、9日の日記から

2006-12-29 00:30:47 | 日記 戦中編
昭和十九年五月七日 晴 公休
 よく晴れて暑い日だった。朝フキを摘んだ。茎が目籠に一杯あり、葉が大きいバケツに一杯あった。その後 馬鈴薯の土寄せをした。芽を二本立てにしてその他を抜いた。その芽を昼に胡麻和えにして食べた。少々何所かにエゴイ所ろはあるが食べるには差し支えなかった。何でも食べられるものだ。うまいかまずいか、かたいかやわらかいかといふ別はあるが食べれば大抵は食べられるものだと思った。此れも戦時生活の一つの副産物である。午後南瓜を植える穴を七つ程掘った。

昭和十九年五月九日 晴 二,三直出勤
 戸袋の下の園に吾妻菊が咲いた。二三本切って来て躑躅と一緒に花瓶に差した。非常に美しくって室内がなごやかになる。戦時下だ。庭をつぶしても野菜を植えろ。南瓜を植えろと言うが、それも必要だが又花も必要だ。戦時下だけにいらだつ心を幾分でも和らげる事も必要なのである。

昭和十九年五月十二日 曇 明け
 ・・・・・・ 矢車草が今日、一二輪咲いた。長い間子供等が水をかけて楽しみにして居た矢車草である。初花を仏前に供えるように妻に言っておいた。鈴蘭も咲いた。




昭和19年5月1日,4日、5日の日記から

2006-12-25 23:40:18 | 日記 戦中編
昭和十九年五月一日 晴 明け
 夕方、K君の昇格祝いに出て来てくれと言うので行った。ご馳走は随分沢山あった。闇値なら何でもあるものだ。先ず するめいか、数の子、里芋、人参、牛蒡、蕗、蚕豆(そらまめ)、何一つとして今日、八百屋にないものばかりである。酒も沢山出た。

昭和十九年五月四日 曇 明け
 ・・・・・それ程目下の生活は詰まって居るのだ。斯様な苦しみしつつ私達は大東亜戦争を戦って居るのだ。日本の偉大な繁栄の基礎工事のために苦しんでいるのである。この苦しみがなければ後世の繁栄日本が到来したとき。我々は誰にも。自分自身にさえも誇る事は出来ないのだ。

昭和十九年五月五日 雨後曇 二、三直出勤
 五月の節句だが戦時下の節句は何もない。相変わらず粥、而も豆粕の入った粥である。只人形だけは子供にせがまれて妻が昨夕出してやった。人形も可愛そうだが子供も可愛そうだ。

昭和19年4月18日の日記から

2006-12-20 23:45:21 | 日記 戦中編
昭和十九年四月二十八日 雨 二、三直出勤
(前略) 親戚のY君の出征を送りに五時に新宿へ行って来た。帰途食事をしようと思って食堂を探したが何所も休業である。食券を持っていても休業が多くて食事をしかねた。外食者の不平が時々新聞に出ているのを見たことがあるが成程と思った。とうとう歩き回って新宿の寿司清まで行った。五六十人の列である。ようやく入って持って来た食事を見て驚いた。「ちらし」四十銭でほかは何もない。皿に盛ってどんどん持ってきて配る。それを食べてどんどん出て行く。早くてよいが其の「ちらし」がおよそ今迄の観念では思い依らないものである。
こんな事でも戦時下の食生活の一部の記録として書いてみよう。玉蜀黍の入った玄米飯がチョッポリ。其の上に昔し刺身の妻に使ったウゴが乗っている。塩気も何もない。それに大根葉の塩漬け。切昆布。此れだけをちらした傍らに肴が一寸四方位なのが一切である。此れが今の「ちらし」なのだ。
  

昭和19年4月7日、13日の日記から

2006-12-18 20:21:56 | 日記 戦中編

昭和十九年四月七日 晴後曇り 賜暇 
今日野菜の配給で人参一本小松菜一握り(十七銭)しかなかった。それで三日分だ。昨日隣家のMさんの話では駅で買出し部隊をやかましく言うので朝霞、新倉方面から川上に出て堤づたいに戸田橋に出てくる人が沢山あると云う話だった。随分骨の折れる話だが斯様な配給では之も一概に笑えまい。

 昭和十九年四月十三日 晴 明け 勤労奉仕で駒沢まで行かねばならないのである、降らなければよいがと気使いながらもいつもの時間に家を出た。車庫で一旦集まってバスで渋谷に出て玉川電車で駒沢へ行った。元の駒沢ゴルフ場跡で実に広いのと芝の美しいのに驚いた。斯うした広い場所を而も莫大な金をかけて芝原にして遊場にしていた金持ちが面憎い感じがした。しかし時移り節変わって私達がヒマと蔬菜を植え付けるために開墾したのだ。(後略)

昭和十九年四月二十一日 雨後晴 公休 都電の勤労奉仕に出掛けた。六時半過町会事務所前に行く。区役所前で点呼を取り警察前の挺身隊集合所に行き国民儀礼。署長の訓示等を聞いて居るうち雨になった。雨が止んで仕事割があった。私達は線路の中に枕木を二尺間隔位に入れる仕事だった。十一時までかかった。

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 <13日の勤労奉仕は勤務先ので、21日のは町内会からのもので仕事の休みを 取っている。> 


昭和19年3月5日、19日、28日、31日の日記から

2006-12-16 00:31:49 | 日記 戦中編
昭和十九年三月五日 雪 明け
 (前略)米が足りないので妻が豆腐からを雪の降る中を中板まで買いに行った。五合枡半分位で五銭だと言う。それでも列を作り、一人三十銭しか売らないと言う、大した話だ

昭和十九年三月十九日 晴 二,三直出勤
 朝食。 麦入粥。大根味噌汁
 昼食。 大根混入カレー味付雑炊
 夜食。 鮫大根入りかれー味付き雑炊
此処一月程三食の状況を書いたがもう此れ以上書く必要もなくなった。此れで戦う都民の生活が判ったと思う。後世の面白い記録となるであろう。

昭和十九年三月二十八日 雨 一直出勤
 昨夜、訓練警報で出動してから引き続き勤務してしまった。夜中三時に又空襲警報(訓練)が発令になり同時に新宿車庫に百kg爆弾3コ落下車両十輌破損す。工作隊の出動を乞う旨の電話があったので大久保から出動した。雨が盛んに降っていて足が冷たくって困った。四時半解除になる。

昭和十九年三月三十一日 晴 二,三直出勤 
 長女(15歳)は兵器廠へ勤労奉仕に行った。来月の八日まで休みだし家に居て
ブラブラして居るよりは余程有意義だ。昼飯(十四銭)は向こうで食べれるので米の節約にはなるし。一日一円四十銭くれるという。一石二鳥とでもいうべきだ。のみならず働くという事から得る精神的収穫はより以上であるし、国のためにもなるのだから二鳥ばかりでなく何鳥になるか知れない。

昭和19年2月10日、22日、26日、29日の日記から

2006-12-08 00:26:05 | 日記 戦中編

昭和十九年二月十日 晴 明け  帰宅すると妻は隣家の奥さんと買出しに行っていなかった。一時半頃帰ってきた。芋三貫目(六円)人参二貫目(三円)買ってきたと言う。志木 から一里歩いたと言っていた。随分高いものだ。


  昭和十九年二月二十二日 晴 明け 昨夜のニュースの時間にトラックの戦況が発表されたが日本の損害が大きいのに驚いた。なかなか此れから戦争も大変であろうし国内ももっと切詰られるであろう。


  昭和十九年二月二十六日 晴 明け 昨夜の大本営発表で又マーシャル群島で六千五百名の戦死したと言う。洵に気の毒であると同時に米国をなんとかして吠顔かかしてやりたい思いがする。それのみならず刻々に空襲の危険が迫って来る。しかし我々としてはどうする事も出来ない。只自分の持場を守るより外はない。毎日の食事を書いてあるが斯様な状態に対しても不平を言ってはならない。感謝せねばなるまい。


昭和十九年二月二十九日 晴 二,三直出勤  政府の戦時非常対策要綱が発表になり、来月五日より高級料理店。待合。演劇場などが向こう一ヵ年営業を停止する事になった。どうして今までこんなものを存続させて置いたのか不思議に思って居た。見ように依っては社会の弱い部面に対してのみ,統制だとか整備だとか言う名前で圧力が加えられて居た様にも見えた。遅いとはいえ営業を停止した事は大きな進歩である。最近発表された数々の施策の中で今回のが一番気持ちのよいものであった


昭和19年2月7日、8日の日記から

2006-12-03 23:09:00 | 日記 戦中編
昭和十九年二月七日 晴 公休
 三男と次男(4歳、8歳)の頭に白雲と銭たむしできて永い事になる。ホルム軟膏をつけるとすぐなほった事があるので買わせてつけたが近頃の薬の質が悪いためか栄養のせいかなかなかなほらない。

昭和十九年二月八日 晴 賜暇 
 (前略) 前にお握りを食べたがおいしかったね と三女(6歳)が云う。菓子やパンはさて置いてお握りさえもたべられないのである。三度三度粥や雑炊だからお握りに出来ない。この言葉を聞いてつくづくいじらしくなった。しかしいつまでも斯様な状態では居まい。必ず 米国 に勝って斯様な事が昔語りになる時期がくるであろう