敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

大本営発表で大戦果  ???

2007-08-31 23:55:44 | 日記 戦中編
昭和二十年一月十五日 晴 二、三直出勤
 夕方、一昨日の名古屋来襲の際に於ける戦果が発表になった。
六十機中四十三機を撃墜破したと云う。実に来襲機数の七割強である。

昭和二十年一月二十四日 曇後晴 二、三直出勤
 今晩も敵機は来なかった。
二十三日の名古屋侵入の際の戦果が発表になったが、七十機来襲の中九割の六十三機が撃墜破と言う大戦果である。
洵に有難い事である。

豊受大神宮に爆弾

2007-08-31 22:38:35 | 日記 戦中編
昭和二十年一月十四日 晴 一直出勤
 今日は敵機が来なくて幸いだと思って居たら、七時の報道の時、大本営発表があり名古屋方面に来襲。
所もある事か豊受大神宮境内に数発の爆弾を投下したと言う。
とんでもない奴等だ。今に神罰を思い知る時が来るであろう。覚えて居るがよい。

帝都上空で空中戦

2007-08-18 21:44:50 | 日記 戦中編
昭和二十年一月九日 曇後晴 二、三直出勤
 午後一時半頃警戒警報、十分程して空襲警報発令になった。 
三機又は八機位の編隊で侵入して来た。
激しい空中戦が帝都上空で戦われた。 一機は体当たりをして、敵機は白煙を噴いて編隊から遅れて行った。
しかし体当たりをした我が軍の機は火を噴いて墜ちた。 落下傘で降下したのを見たという人もあったが私には見えなかった。
人の云うようにうまく降下してくれれば良いものだ。
 三時半に空襲警報解除になった。 夕方の放送に依ると約六十機が名古屋、静岡、東京と分散来襲したと言う。

空襲に対する自覚

2007-08-15 16:26:42 | 日記 戦中編
昭和二十年一月五日 晴 公休
 三十一日夜、末広町、竹町付近に焼夷弾を投下された時、寝巻き姿が非常に多かったと言う。 未だ一般がこの事態に目覚めていないらしい。
 昨夜、第一回の警報の時(夜七時)、東隣のMさんが西隣のNさんの台所から光が漏れている、叫んでいる。
私が裏に廻ってみると成程光が見えるので私が取り次ぐと、光を消さないで板戸を閉めてしまった。
 情報は、静岡地区に侵入した敵機は東進中なりと言っている。
其れ故、私の処では板戸を皆開いて万一に備えて外に出て警戒していた。
万一の場合の為には板戸を開いて何所からでも出入り出来るようにして置くべきなのだ。

今日の大本営発表

2007-08-15 15:50:52 | 日記 戦中編
昭和二十年一月三日 晴 二、三直出勤
 今日も敵機は東京に来なかった。
夕刻の報道に依ると名古屋方面に百機来襲したと言う。
 二日未明我が航空隊がサイパンの基地を叩いたという大本営発表も有ったが百機も来ている。
なかなかもってあなどれない。