おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

09年桜(13) 吉野山

2009年04月23日 | 09年桜
4月19日(日)に吉野山に行ってきました。
昨年も吉野山に行ったのですが、人が多くて金峯神社行きのバス待ちの時間がかかり、
しかも天気の具合が良くなかったので、奥の千本までは行きませんでした。

今年は人も少なくてバス待ちの時間はそれほどではなかったので、
西行庵前まで行くことができました。
西行庵前ではこれまでになく人が多かったのですが、桜は残念ながら
盛りを過ぎていました。


吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき

待たれつる吉野のさくらさきにけり心を散らす春の山風

吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ

          (歌は全て西行の山家集から)


画像は上二枚は金峯神社、次の二枚は西行庵近くの桜、五枚目は水分神社にて、
六枚目は帰り道の八重桜、最後は西行庵です。
















09年桜(9)桃源郷(01)

2009年04月20日 | 09年桜
実際には「桜源郷」という言葉はないけれども、(桃源郷)よりは
(桜源郷)という言葉を使いたい思いです。
ともかくすばらしいものです。言葉を失ってしまいます。
ここに来たのは二回目か三回目ですが、今年の桜は眼を見張らせるものでした。
一本だけの名桜ということでなくして、名所ということであるなら、ここが一番では
ないかと思います。群を抜いているでしょう。















09年桜(7) 仁和寺(1)

2009年04月16日 | 09年桜
仁和寺は花園、双が丘の北に位置し、大内山の南麓にあります。阿弥陀三尊を
本尊とする真言宗御室派の総本山で、御室御所や仁和寺門跡とも呼ばれます。
第58代光孝天皇の御願寺として886年に起工され、887年に完成しました。
始めての門跡寺院として知られています。
御室という地名は、仁和寺一世の宇多法皇が仁和寺の内に御座所(室)を建てた事から
御室御所と呼ばれ、その後、付近は御室という地名になりました。904年のことです。

以来、仁和寺は代々、皇族が住持してきました。鳥羽天皇と待賢門院の五男である
覚性法親王は7歳の時に仁和寺に入り、1153年に第五世として住持しています。
1156年に保元の乱が起こり、敗れた崇徳上皇は弟の覚性法親王のいる仁和寺に
入りました。その時に西行は仁和寺に駈けつけています。

この頃の仁和寺の寺地は広く、二里四方の寺地に100ほどの子院があったと伝えられて
います。菩提院はもちろん、法金剛院や遍照寺も仁和寺の子院でした。
1119年と1153年に火災により大きな打撃を受けています。応仁の乱では山名氏に
よって、ほぼ焼き尽くされてしまいした。
本格的な復興は、徳川家光の援助により1646年に成されました。ニ王門(仁和寺の場合は
「仁王門」と表記しません)や五重の塔はこの時のものです。
1887年(明治20年)にも大火。1913年(大正2年)に、現在の仁和寺となりました。
仁和寺には有名な御室桜があります。お多福桜とも呼ばれています。

初めの画像は鳥羽天皇中宮の待賢門院花園陵。彼女のお寺である
法金剛院の北側にあります。
二枚目は二王門からみた境内。三枚目は勅使門。
五枚目の黄緑色の桜は「御衣黄桜」と呼ばれています。





















09年桜(6)円山公園

2009年04月11日 | 09年桜
今回は円山公園の桜です。円山公園は八坂神社の東に広がる公園です。
明治になって、各お寺の敷地を削って作られました。
古い時代は「真葛が原」と呼ばれていました。

ここには京都の桜を代表する名桜があります。初めの画象の桜です。しかし老樹に
なってしまって痛々しい限りです。
お金になるならということで、無節操にライトを当てたり、かがり火を焚いたりするのは
とても良くないと思います。排気ガスの影響もあるのでしょう。
まあ、この地は昔から、かがり火を焚いて桜を鑑賞していたという伝統があります。
それはいいのですが、植物を本当に大切にするという視点がすっぽりと抜け落ちている、
それは現在においてもいえることです。
円山公園も17時以降は閉園にすると良いとさえ思います。