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何故日本での「ゆとり教育」は失敗したか

2009-04-09 23:29:49 | りんどう・エッセイ
りんどうです。

ICUの研究会で米国のケーススタディの発表や国内インターナショナルスクールの事例を伺ってきました。

どうして日本において「ゆとり教育」が失敗したのか、という検証について、最大の要因としてある一つの答えが提示されていました。

ゆとり教育・総合学習というのは確固とした教育理念の下に作られたものですが、日本に上陸した際に中途半端な輸入をしてしまったため、上流工程は別として少なくとも現場ベースで固まってしまい、現在の状況を産んだとも言われます。

つまり文部科学省が提示したモデルプランを皆でそのままマネしただけのような感じになってしまって、本来の肝の部分が抜け落ちてしまったのだ、ということでした。

Learning Scenariosということで、プロジェクトにあたる総合学習を、教員自身が最後にオリジナルで自らの授業を創造して行う、というのが一連の学習の中にあって、それこそが教育の肝の部分だというのです。

内容重視・生徒中心・体験重視という思想の下で、動機付けを行い目的を持って学習の高度なレヴェルでの参加を通して、自律的学習者を育成する目的で教育活動が展開されていくという考えは、考えとしては導入されたわけですが、実は以上の話がカギであったのです。・・・ということは初めに自らの授業や理念に基づいたオリジナル総合教材が作れるような教師養成から先にすべきで、土台を築いてから行わなければいけなかったのだ、というのです。

そのために私が見る限りでも、自らで授業をクリエイティブ性を持って創造できるような力量をもち、なおかつ同様の教育思想をもった公立・私立学校の一部で成功を収めているとも言えます。
・・・ただ全体としては理解不十分のために出来なかったと認めざるを得ないのは残念でもあります。

この教育を充分に行うには、国語・英語のようなことば関連であるならば、教師は言語の専門家であるのと同時に、自らの専門分野をもった実際の内容の専門家としての役割を果たすべきであるということも言われていました。

成果発表の一例としては、国語であれば作品をテクストとして読んだ場合、共通のテーマを通して、背景知識を発展させながら、内容を多角的な視点を通してグループで考え、さらに自分たちで咀嚼しなおし、論文形式に限らず、パフォーマンスを含めたドラマやシナリオプレゼンテーション等の複数ある形式から選択して発表するというような形態です。

自律学習の理念に立ち戻り、内容重視教育・プロジェクト化等の学習方法開発等、先端を行く学校を参考にしつつも、自らが創造していくような教育への挑戦が、教師側に強く求められていたのでした。

今度は脱ゆとり教育ということで、別の方向へシフトするようですが、反省・総括をした上で、良い部分は学んで活かすということも前進の一歩のように私は考えます。

追記:当該記事に関して、日本におけるこの理念でのオリジナル総合教材を作成できるような教師養成について、そもそも教師にその内容を誰が教えられるのか、教えられるような養成講座講師として誰が考えられるのか、という問題についての議論はどのようになっているのか、というお話を頂戴しました。

・・・塾のような私教育であれば、自己研修は自らの責任において行うのですけれども、ここでは公教育としての話ですので、教師養成を具体的に施策として考える必要があるわけです。
確かにおっしゃる通り、そこが肝でありながら議論が抜けている部分で、おそらくその点がクリアにならずに現在に至ったとも考えられます。
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