戦場スケッチ - 戦後 70 年の追悼 -

掲載のスケッチは田端敏雄さんの作品です。
リンク切れがありますが、ご容赦ください。

本当の世界戦争

2006年03月07日 | 戦争体験談

前文の「英軍の反撃」の項は、次の英文サイトを参照しています。 

インド空軍ナヌ・シトレー准将

インド空軍のサイト(公式サイトでは無いようですが)の中に、英軍による反撃作戦に輸送及び偵察任務を与えられたインド人飛行士について述べられている上記のページがありました。 当時の貴重な写真も数多く掲載されています。 又、敵(日本軍)に対しても礼節を尽くした記述が印象的です。 

機上から敵の展開を的確に把握し報告する。 緊急の場合は報告書や撮影フィルムを自陣に投下する、ことまで行なわれていたようです。 1944 年 12 月から、翌 1945 年 4 月あたりまでの部分を、翻訳 してみました。

メークティラの飛行場におられた川畑さんも、次のように述べられています。 1944 年(昭和 19 年)末から、翌年初めの状況です。

「戦場には P51 等、新鋭機が続々に現れて日本兵を見つけると容赦なく襲いましたが、飛行場の上空に毎日現れた観測機は、日本で俗に云うアカトンボと呼ばれている複葉機でした。 毎朝決まった時間に現れるので、業を煮やした飛行場警備隊からの要請でタイの飛行場から隼 2 機が飛来、上空で待ち伏せ攻撃をかけ急降下、不意を喰らった観測機は火だるまになり墜落。 しかし、そのお返しは、3 時間ほどしたら飛行場の端から端までゴッソリ B24 等、戦爆連合の大爆撃を喰らいました。 その日を境にして観測機に護衛が 1、2 機付くようになったと思います。 (5-3-05)」

又、「上流のイラワジ 3 号作戦では第 19 インド師団が、日本の第 15 師団(祭)を攻撃した。  このためミンギャン近くにあった「安」を巧みにここへ索引誘導して打撃を加え、続いて 2 号作戦(英第 20 師団)では中央突破の主攻の構えを実現しながら、突如 4 号作戦(英第 17 師団)では「弓」と「策」の隙間(「安」の守備地域)をついて主力機甲師団が奇襲的な渡河、タウンタ、メークテーラに進撃したのは誠に巧みな戦法であった。 つまり、日本軍のマンダレー地区に大部隊の集め過ぎが失敗であり、そのため「安」、「菊」、「狼」を急遽増援せしめたものの、結果的には孫子の兵法を誤った日本軍首脳の責任といえよう。」との、第 53 師団(安)のイラワジ作戦回顧録の中から、インド師団の記述を見つけていただきました。

Burmese図② インド人も、「アカトンボ飛行隊」による空からの索敵のみならず、地上では、陽動作戦の最前線に立って奮闘していたのです。

日本軍が開戦から終戦まで陸上で継続した実戦は、中国大陸とこのビルマしかありません。 唯、多く目にする当時の中国の写真などで受ける印象と、ビルマ戦線の雰囲気は相当違います。 田畑さんのスケッチからも、明らかに中国と違う光景を目にすることができます。

勿論、気候・風土だけではありません。 未だ英国から独立の叶わないインド人、ビルマ人は、それぞれの陣営に分かれて戦いに飲み込まれる他ありませんでした。 しかも、上述の通り常に最前線で! 更に、先陣を務めた中国・重慶軍、あるいは英軍が雇傭したネパール出身のグルカ兵などなど、実に多くの民族がこの戦場に集結しています。 まさしく、日本人にとって初めての世界戦争でした。 そして、これが最後の経験であることを信じたいと思います。


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