戦場スケッチ - 戦後 70 年の追悼 -

掲載のスケッチは田端敏雄さんの作品です。
リンク切れがありますが、ご容赦ください。

インパール作戦

2006年03月02日 | 戦争体験談

作者、田畑敏雄さんは、第15軍隷下の第 15 師団、歩兵第 60 連隊(祭)に所属されていましたが、1944 年(昭和 19 年) 3 月 15 日、チンドウィン河の渡河では先頭部隊となり、「インパール作戦(正式には『ウ号作戦』」に参加されています。 インパールはインド北東部の町ですが、ビルマのほぼ全土が実際の戦場となりました。

アラカン山脈を 4 日で越え、3 月 18 日にはビルマ、インド国境線を突破。 4 月上旬にはインパールへ数十キロの地点まで肉薄しています。 しかしながら、例年より早い雨季のため補給が絶たれ、アメーバ赤痢、悪性マラリア、飢えと疲労のため完全に孤立。 ようやく 7 月 15 日、転進(退却)命令が出されましたが、時既に遅く、ぬかるみの中、飢えと寒気と、英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめることになりました。

Muddy_field図① ジャングル内の道は、軍服を着たまま白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は 72,000 人。 生き残った兵士はわずか 12,000 人に過ぎなかった。 - 『決定版昭和史第 11 巻 138 頁』)、「靖国街道」・「白骨街道」と呼ばれることになりました(『新聞集成・昭和史の証言』第 18 巻 333 頁)。 

祭 60 連隊も、ようやく 12 月 28 日、イラワジ河畔に集結しましたが兵員は 600 名にまで激減。 翌日より、イラワジ河を渡り対岸の防衛に付いています。 翌 1945 年(昭和 20 年) 1 月 17 日、追撃してくる英印軍と激戦(イラワジ河の会戦)。 少ない兵力で 4 ヶ月に亘る攻防戦を展開しましたが、命令によりタイへ転進。 8 月 11 日、タイ国バンポン・タモアン地区に集結、同地で終戦を迎えました。

参考にさせて戴いたサイトは、

たむたむページ」、「ぶらり重兵衛の歴史探訪

です。 インターネット上で、「インパール作戦」について詳しく説明しているサイトの中に、最後まで日本軍と共にあった チャンドラ・ボース 氏に関するサイトがあります。 同氏が後年どのように評価されようとも、インド独立への純粋な思いだけは、正しく理解すべきでしょう。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2018-12-07 19:39:40
半年先行して、アラカン山系内に、民間開拓村(補給基地)イノブタ/山羊牧畜、焼豚、山羊チーズ、ヤムイモ栽培干しイモせいぞうびちく。乾季にチンドウイン河渡川補給隊輸送しておく。浮橋製造しておく。

天正11年次「賤ケ岳の戦い:美濃オオ返し:羽柴筑前?」どの見習うべし!!

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