戦場スケッチ - 戦後 70 年の追悼 -

掲載のスケッチは田端敏雄さんの作品です。
リンク切れがありますが、ご容赦ください。

懐かしい思い出

2006年12月31日 | 戦争体験談

殺伐とした戦争のさ中であっても、日本兵と地元の人々との交流があったことを物語る、心温まるエピソードで、2006 年を締めくくりましょう。

「戦時中の泰緬鉄道に関係した日本兵を探すタイ人の著名ビジネスマン、ビクロム・クロマディットさん (53) が、鉄道第 9 連隊第 6 中隊で、彼の母親を知る大塚高二さん (91) と対面したのだ。

泰緬鉄道は日本軍が英蘭捕虜を酷使したことから、『死の鉄道』といわれた。 ところが、ビクロムさんの母は、日本兵が本当はやさしい人々であったと息子に話していた。 娘盛りだった 17 歳の彼女は鉄道を使って果物を売り歩いていた。

彼は自らの半生記を書き進めるうち、母が接した旧日本兵に話を聞きたいと思った。 駐タイ日本大使だった太田博さんに相談すると、元大使の心に火がついた。 小欄にも情報がよせられ、第 9 連隊の一員がもつ戦友会名簿から、ついに大塚さんを探し当てたのだ。

先月末に来日したビクロムさんは、相模原市の大塚さんを訪ねた。 当時、20 代だった大塚元軍曹は『あなたのお母さんはきれいな人だった』と目を細めた。 通訳をした太田元大使は、2 人が『夢のようだ』と繰り返す言葉が印象的だったという。」

と、12 月 7 日付「産経抄」は伝えています。 この記事も、川畑様にお伝えしたところ、泰緬鉄道の思い出を次のようにお話し戴きました。

「泰緬鉄道の良い話を有難うございました。 昭和 19 年 8 月、まだこの鉄道が完成して一年ほど経った頃に、マレー - バンコク経由、無蓋車に乗車、ノンブラドック - ビルマのタンビサヤ迄 414.9 キロメートル、雨季で土砂降りの中をお世話になりました。 無蓋車なので衣服が穴だらけ皮膚は火傷で散々でした。

私の分隊は南回りでタイに撤収したので、昭和 20 年 5 月にも、又々、雨季に入ったばかりの熱帯雨林と遙か眼下に広がる転落車輌の残骸を眺めながら、薪を焚き超スローで動く列車で、タンビサヤ - ノンブラドックを 3 日掛かりの転進でした。

昭和 19 年には鉄道沿線では多くの英蘭豪の俘虜がドラム缶等を運ぶ作業をしていました。 中には骨と皮だけの骸骨の様な者もおりました。 昭和 20 年の 5 月ともなると捕虜達を余り見かけなくなったのは、ビルマから撤退するボロボロの兵士の姿を見せぬためだったのでしょうか。

散々痛めつけられながらも、無事にタイに撤退出来たのも泰緬鉄道のお陰と感謝しています。」


最新の画像もっと見る

コメントを投稿