戦場スケッチ - 戦後 70 年の追悼 -

掲載のスケッチは田端敏雄さんの作品です。
リンク切れがありますが、ご容赦ください。

帰 還

2006年04月18日 | 戦争体験談

父が筆者と母の元に戻って来た日は、しっかりと覚えています。 ヤセこけて真っ黒な顔、ボロボロの服装、一目見るなり、本当に怖くて一目散に二階へ駆け登ってしまいました。 筆者と違って本当は色白な父なのだと解ったのは、これからズッと後、一緒に風呂に入れるようになってからでした。 父の手記、最終章を綴ります。

「英軍の厳しい強制作業は五ヶ月間で終了した。 泰面鉄道の苦役で夥しい捕虜が死んだように、我々もこの作業で殺されるのではないかとしばしば思っていたが、彼等は常に我々の健康に注意し、病人には薬を与え、衛生面や流行病の予防に心を注いでくれた。 お陰で食糧こそ乏しかったが、病気による落伍者は一人も出さずに、最後まで生きながらえることができた。

労役作業が 4 月の末に終わると、我々は再びタンビザヤのゴム林の中に移動させられた。 ゴム林の囲った柵の中で、強制労役はおろか作業らしい作業は何一つない毎日を無聊に苦しみながら、日本送還の日をただひたすらに待った。

待ちに待った帰還命令が、昭和 21 年(1946 年) 6 月 19 日に発表された。 この報に接し、嬉しさのあまり発狂する者まで出た。 乗船命令を受けて、モールメンの河口に集結すると、眼前にアメリカの巨大な輸送船が待ち受けていた。

6 月 21 日に乗船したが、タラップを上るとき、栄養不良で干からびた私の身体を、逞しいアメリカ兵が手をさし延べて、軽々と抱え上げた。 今更ながら、戦勝国の強兵と敗戦国の弱兵の差を、はっきりと見せつけられた気がして情けなかった。

祖国の土を踏んだのは、良く晴れた 7 月 9 日の朝で、広島県大竹港の岸壁であった。 昭和 18 年(1943 年) 1 月 10 日に召集令状を受け取ってから、ちょうど 3 年 6 ヵ月が経っていた。」


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