欧州では、既に連合軍がノルマンディーに上陸しており、1945 年(昭和 20 年) 2 月のヤルタ会談と、世界の趨勢が大かた決まる中、ビルマでも英軍を中心とする連合軍の戦意が高まっていたのは明白です。 速やかにビルマの首都ラングーンを奪還し、日本軍の占領を収束させる。 しかも、自軍戦力の消耗は最小限に抑えて!
圧倒的な戦力の差のみならず、正確な索敵、諜報活動が、河を利用した巧みな陽動作戦を生み、日本の実戦部隊をマンダレー近辺に集中させ、その南方にあるもぬけの殻となったメークティラに、本隊を前進させました。 メークティラ陥落からラングーンへは僅か 1 ヶ月で到達します。
日本軍は前述の通り北部ビルマを失い、何とか、失ったメークテイラの再奪還を計りますが、同奪還作戦も、同 3 月末に中止され、ビルマ方面軍司令部は、同 4 月 23 日、ラングーンを放棄、シッタンの対岸モールメンに移ります。 連合軍のラングーン奪還は同 5 月 3 日。 日本軍はインパール作戦の失敗から、一年にも満たない内に、ビルマの大半を失ってしまいました。
我が父は、メークティラの陥落からラングーン陥落までの間隙をぬって、僅かに先行しながら、連合軍が通過した同じ街道沿いに徒歩で、(途中、タンダイゴンでは追いつかれているようですが)ともかくも逃げのびたようです。
しかし、大半の日本実戦部隊は、インパール死の撤退から、再び目標の無い撤退を経験することになります。 敵の前線に先を越され、取り残された戦場から山を越えタイ方面へ。 悲劇は繰り返されました。
体験記には、タイの山中、クンユァムにある「旧日本軍博物館」のサイトの中に収録されている、彷徨ビルマ戦線 (井上朝義さん)、
あるいは、「くすくす」さんの お父さんの回想記、などもあります。