★昨日はアメリカから帰省している娘が、免許の期限が切れて、その書き換えをするというので、1日明石の免許試験場につきあったのである。
その時間待ちの間、戦後引き揚げてきてから、最初に過ごしたところや、明石上の丸の私の生地(私の本籍)を孫を連れて久しぶりに訪ねてみた。
60年以上も経って様相は一変しているが、随所に昔の面影は残している。
★私自身は空襲を知らない。
空襲の話などは戦後帰国していろんな人に聞いたりはした。
ただ、空襲の跡はこの目でしっかりと見て知っている。
伯父一家が住んでいた明石上の丸は明石公園の東側の外堀、薬研堀にずーっと面していて、普通に考えて空襲など受けたりする環境ではない。
疎開などは勿論していないし、神戸の知人などからは疎開の荷物などを預かっていたほどである。
明石の人たちも、空襲警報が発せられると、みんな明石公園に避難したようである。
川崎航空機が明石の西の方にあったので、空襲はあると思っていたようだが、まさか明石公園の中に爆弾や焼夷弾が落ちるとは思っていなかった。
公園の外堀に隣接した伯父宅にも爆弾3発、焼夷弾は数えることが出来ないぐらい落ちて築山のガレージの防空壕にいた一家で叔母だけが即死の状態であったという。
外堀は、死骸でいっぱいだったという。
★家も完全に焼失してしまってから、今は神戸市になっているが、伯父たち一家は伊川谷、白水の家を借りて移り住んでいたのである。
明石の上の丸から北に4キロほど入ったところである。
当時は全くの田舎そのものであった。
ソウルから引き揚げた私たちは、この伊川谷白水の家で、伯父たち一家と同居で戦後がスタートしたのである。
持ち帰った荷物は担いできたリュックだけ、多分現金は一人1000円だけだったはずだから、当時の生活費は、すべて伯父がまかなってくれたのだと思う。
伯父と父は非常に仲が良かったし、財産分けなどは祖父の遺言か何かでしていなかったので、伯父に世話になることに、父は何のためらいもなかったような感じであった。
12月8日に引き揚げてきて、伊川谷に落ち着いた。先に日本に引き揚げていた二人の妹達も岡山から移ってきたが、そのころどんな連絡をしたのかなどは全然解っていない。
伯父は毎日のように私を連れ歩いて、一緒に行動した。
とにかく跡取りが無事戻ってきたのがうれしかったのは、私にもよくわかった。
自転車はすぐ3台も買ってきて、明石まで毎日自転車で通っていた。
★出かけた先は、明石の相生町に住んでいた叔父夫婦の屋敷跡、父の妹に当たる叔母と叔父は二人とも爆撃で亡くなってそのあとには、
後、明石商工会議所会頭をされた辻勝一さんが何人かで建設業をはじめたばかりであった。
京都宇治のご出身だが、なぜか伯父と気があって、叔父夫婦の屋敷跡をどうしたのか詳しくは知らぬが、そこが、事務所だったのである。
現在は辻さんの居宅になっているところである。
辻さんは多分まだ30代の若さだったと思う。憲兵大尉をされていたとかで元気が良かった。父よりもだいぶ若かったように思う。
そんなことで中学生の私は、毎日のように辻さんと伯父たちの会話を横で聞いていたし、お話もさせていただいた。
その中学生のころ、明石でもう一人伯父が懇意にしていたのが、後川崎重工の社長をされた砂野仁さんである。
砂野さんは当時は川崎機械の社長をされていたのだと思う。
砂野さんとは、前に書いた錦江ホテルの売買からの関係であったのだと思う。
よく上の丸の家に来られて、伯父と酒を飲んでおられた。
砂野さんのご子息の耕一さんが神戸一中に通っておられて、そんな関係で私も神戸一中に入るように勧められたようである。
中学1年で12月に引き揚げてはきたが、学校にも行かずに伯父のあとについて、辻さんやら、砂野さんやら、当時の神戸銀行にもよく連れて行かれた。
そして翌年4月、神戸一中の1年生に入学したのである。
どうして、無試験で入れたのかは、よくわからない。
伯父や父が、何とかうまく計らってくれたのだと思う。
伯父が死んだ後も、砂野さんや辻さんには何かとお世話になった。
中学1年当時にいろいろと話などさして頂いたのが、いろんな意味で私の財産として残っているように思う。
★昨日は、そんな戦後をスタートした懐かしい場所を時間つぶしに歩いて写真を撮ってきた。
まずは、伊川谷の白水。 現在は繁華街の様相である。
白水のお稲荷さんのあるお宅のヨコだった。お稲荷さんのある旧家は今もそのままであった。
多分、この建物の場所の平屋であった。
そのころは、田舎の川だったのに、今はこんな都会の様相である。
『伊川谷』 もう『谷』という感じは何ものこっていない。
★上の丸は、今も200坪ぐらいは、まだ残っていて、従兄弟が住んでいる。
戦後、伯父が建てた家は取り壊して、今風の住宅が建っている。
このあたりは、昔の武家屋敷で道は狭く車などでは通りにくい。
Google earth で眺めてみたら、
外堀沿いにあったかっての敷地内に、今は30軒あまりの住宅が建っている。
戦前からの、YさんやMさんと言った懐かしい門札も近所には残っていた。
道はこんなに狭い。
外堀は昔のままだが、ここでも魚釣り禁止の立て札があった。
明石公園の方からのながめである。
この対岸あたりで庭から下りてきてよく魚釣りをしたものである。
こんな写真から、当時の家も一つも建っていない、何にもないタダの焼け跡に、爆弾の落ちた跡にできた池が3つ、2,3メートル間隔に突き刺さった焼夷弾の数々。
この綺麗な池が死体でいっぱいになった光景など、
誰も想像も出来ないだろう。
戦後の明石公園は、ほとんどの木が焼けてしまっていた。
松はそのまま枯れてしまった。
樫や楠などの広葉樹は、焼けただれた幹から芽を出して、60年たった今は鬱蒼とした森になっている。
若し、戦災で焼失していなかったとしても、この土地屋敷をそのまま持ちこたえることは、多分出来なかったと思う。
そのことに特に想いなどはない。
生まれ故郷の明石を離れて三木に移ってきたのは正解であったと、正直そう思っている。
ただ、ほんとに小学校の頃、一瞬のあいだだがこんな環境の中で、過ごした経験だけは貴重だったのだろう。
その時間待ちの間、戦後引き揚げてきてから、最初に過ごしたところや、明石上の丸の私の生地(私の本籍)を孫を連れて久しぶりに訪ねてみた。
60年以上も経って様相は一変しているが、随所に昔の面影は残している。
★私自身は空襲を知らない。
空襲の話などは戦後帰国していろんな人に聞いたりはした。
ただ、空襲の跡はこの目でしっかりと見て知っている。
伯父一家が住んでいた明石上の丸は明石公園の東側の外堀、薬研堀にずーっと面していて、普通に考えて空襲など受けたりする環境ではない。
疎開などは勿論していないし、神戸の知人などからは疎開の荷物などを預かっていたほどである。
明石の人たちも、空襲警報が発せられると、みんな明石公園に避難したようである。
川崎航空機が明石の西の方にあったので、空襲はあると思っていたようだが、まさか明石公園の中に爆弾や焼夷弾が落ちるとは思っていなかった。
公園の外堀に隣接した伯父宅にも爆弾3発、焼夷弾は数えることが出来ないぐらい落ちて築山のガレージの防空壕にいた一家で叔母だけが即死の状態であったという。
外堀は、死骸でいっぱいだったという。
★家も完全に焼失してしまってから、今は神戸市になっているが、伯父たち一家は伊川谷、白水の家を借りて移り住んでいたのである。
明石の上の丸から北に4キロほど入ったところである。
当時は全くの田舎そのものであった。
ソウルから引き揚げた私たちは、この伊川谷白水の家で、伯父たち一家と同居で戦後がスタートしたのである。
持ち帰った荷物は担いできたリュックだけ、多分現金は一人1000円だけだったはずだから、当時の生活費は、すべて伯父がまかなってくれたのだと思う。
伯父と父は非常に仲が良かったし、財産分けなどは祖父の遺言か何かでしていなかったので、伯父に世話になることに、父は何のためらいもなかったような感じであった。
12月8日に引き揚げてきて、伊川谷に落ち着いた。先に日本に引き揚げていた二人の妹達も岡山から移ってきたが、そのころどんな連絡をしたのかなどは全然解っていない。
伯父は毎日のように私を連れ歩いて、一緒に行動した。
とにかく跡取りが無事戻ってきたのがうれしかったのは、私にもよくわかった。
自転車はすぐ3台も買ってきて、明石まで毎日自転車で通っていた。
★出かけた先は、明石の相生町に住んでいた叔父夫婦の屋敷跡、父の妹に当たる叔母と叔父は二人とも爆撃で亡くなってそのあとには、
後、明石商工会議所会頭をされた辻勝一さんが何人かで建設業をはじめたばかりであった。
京都宇治のご出身だが、なぜか伯父と気があって、叔父夫婦の屋敷跡をどうしたのか詳しくは知らぬが、そこが、事務所だったのである。
現在は辻さんの居宅になっているところである。
辻さんは多分まだ30代の若さだったと思う。憲兵大尉をされていたとかで元気が良かった。父よりもだいぶ若かったように思う。
そんなことで中学生の私は、毎日のように辻さんと伯父たちの会話を横で聞いていたし、お話もさせていただいた。
その中学生のころ、明石でもう一人伯父が懇意にしていたのが、後川崎重工の社長をされた砂野仁さんである。
砂野さんは当時は川崎機械の社長をされていたのだと思う。
砂野さんとは、前に書いた錦江ホテルの売買からの関係であったのだと思う。
よく上の丸の家に来られて、伯父と酒を飲んでおられた。
砂野さんのご子息の耕一さんが神戸一中に通っておられて、そんな関係で私も神戸一中に入るように勧められたようである。
中学1年で12月に引き揚げてはきたが、学校にも行かずに伯父のあとについて、辻さんやら、砂野さんやら、当時の神戸銀行にもよく連れて行かれた。
そして翌年4月、神戸一中の1年生に入学したのである。
どうして、無試験で入れたのかは、よくわからない。
伯父や父が、何とかうまく計らってくれたのだと思う。
伯父が死んだ後も、砂野さんや辻さんには何かとお世話になった。
中学1年当時にいろいろと話などさして頂いたのが、いろんな意味で私の財産として残っているように思う。
★昨日は、そんな戦後をスタートした懐かしい場所を時間つぶしに歩いて写真を撮ってきた。
まずは、伊川谷の白水。 現在は繁華街の様相である。
白水のお稲荷さんのあるお宅のヨコだった。お稲荷さんのある旧家は今もそのままであった。
多分、この建物の場所の平屋であった。
そのころは、田舎の川だったのに、今はこんな都会の様相である。
『伊川谷』 もう『谷』という感じは何ものこっていない。
★上の丸は、今も200坪ぐらいは、まだ残っていて、従兄弟が住んでいる。
戦後、伯父が建てた家は取り壊して、今風の住宅が建っている。
このあたりは、昔の武家屋敷で道は狭く車などでは通りにくい。
Google earth で眺めてみたら、
外堀沿いにあったかっての敷地内に、今は30軒あまりの住宅が建っている。
戦前からの、YさんやMさんと言った懐かしい門札も近所には残っていた。
道はこんなに狭い。
外堀は昔のままだが、ここでも魚釣り禁止の立て札があった。
明石公園の方からのながめである。
この対岸あたりで庭から下りてきてよく魚釣りをしたものである。
こんな写真から、当時の家も一つも建っていない、何にもないタダの焼け跡に、爆弾の落ちた跡にできた池が3つ、2,3メートル間隔に突き刺さった焼夷弾の数々。
この綺麗な池が死体でいっぱいになった光景など、
誰も想像も出来ないだろう。
戦後の明石公園は、ほとんどの木が焼けてしまっていた。
松はそのまま枯れてしまった。
樫や楠などの広葉樹は、焼けただれた幹から芽を出して、60年たった今は鬱蒼とした森になっている。
若し、戦災で焼失していなかったとしても、この土地屋敷をそのまま持ちこたえることは、多分出来なかったと思う。
そのことに特に想いなどはない。
生まれ故郷の明石を離れて三木に移ってきたのは正解であったと、正直そう思っている。
ただ、ほんとに小学校の頃、一瞬のあいだだがこんな環境の中で、過ごした経験だけは貴重だったのだろう。