中間玲子のブログ

仕事のこととか日々のこととか…更新怠りがちですがボチボチと。

万里の長城植樹祭

2010-04-30 12:07:38 | 生き方
(写真はwikipedia「宮脇昭」からいただきました。)

先日、たまたま新幹線の隣に座った女性が
話しかけてきてくださいました。
彼女は、今朝中国から帰国し、新幹線で東京から名古屋へ戻られるところでした。

中国に何しに行っていたかというと、
万里の長城の植樹祭に行かれていたのだそうです。
イオン財団が、そういう取り組みをしているのだとか。
彼女自身は今年で3回目、3年ごとの植樹祭に参加していて
今年は100万本の植樹を達成できたのだそうです。
イオン環境財団、中国「万里の長城植樹」活動の植樹本数が累計100万本達成へ

中国は砂漠のようなところが多く、森を育てる必要があるのだそうです。
来年はラオスに行く計画だけどどうしようかなーと
おっしゃってられました。

私の身の回りには自然がいっぱいありますが、
世界をみれば、砂漠に森を育てようとするプロジェクト
盛んにされていますよね。

でもなかなかそういうことに意識を向けず
そういうこととは無縁に日々を過ごしている私であります。

今回、これを機にちょっと調べてみました。
このような活動をひっぱっていらっしゃるのは
「森を蘇らせる男」と呼ばれる宮脇昭という方だそうです。
今日のブログの写真はwikipediaの「宮脇昭」の項目から
ひっぱってきたのですが、今回の万里の長城も
宮脇氏が指導されているのですね。

宮脇氏へのインタビューが載った記事を見つけました。
「大事なのは、いかに本物の師や仲間とつながっていくのか、ということ」

なかなかすごい人ですね。
「生き方」に対する迫力も感じさせてくれ、襟を正される思いです。

この方、「世界で最も木を植えた男」とも呼ばれるのだとか。
絵本『木を植えた男』を彷彿させますね。
この絵本も、いい話です
日常の中でも、本当は、上記のような事に
関心をもつチャンネルはあふれているのに
意識しないとなかなか関心を持続できないでいる自分を
自覚したりしました。

そういえば、2005年に開かれた「愛・地球博」のマスコットキャラクターは
モリゾーとキッコロでした。
・森のことならなんでも知っていて、不思議な力を持っている
 心やさしい森の精「モリゾー」。
 そよ風をおこしたり、疲れている人の心に木漏れ日を届けたり。
・なんでも見てみたい! やってみたい!
 元気で素直で明るくて、好奇心と行動力がいっぱいの
 森の精「キッコロ」。
 いろんな人、いろんな動物や植物と仲良しになることが大好きです。
 ぜひお友だちになってね。
だそうです。

ゆるキャラ好きの私。ここにもチャンネルはあったのですね。
世界中にモリゾーとキッコロが住めるように、
日々の中で、そういうことにもっと関心を持たねば!
と思ったのでした。

現金がない

2010-04-29 19:04:39 | お仕事ウラ話
先週末(金~日)は東京出張だったのですが、
行きの時点からお財布には6,000円くらいしか入っておらず、
現金がないなあとビクビクしながらの旅となりました

金曜日の夜に着き、
夕食に入ったお店ではクレジットカードが使えず、
2500円ほどを現金で支払い、ドキドキ感は高まります

お財布を明けてすぐ目にするのは紙幣のところですから、
そこにペランと1000円札が3枚しか入っていないのは
何とも心許ないものです

とはいえ、ホテルは当然クレジットカードで支払いOKですので、
宿泊手続きは問題なく進みます
研究会へは地下鉄での移動でしたが、
suicaを使えるのでこれも大丈夫です
その日のお昼、先輩と一緒にご飯を食べたため、
780円を現金で支払いました。
これで、お財布を開けたときに目にする1000円札は2枚になってしまいました

でも結局、電車の移動はもちろん、食べ物やさんや売店でも
Suicaでラクラクお支払いができました
というわけで、結局、滞在中、現金を使ったのは、
土曜日の食事と研究会会場のコーヒーのみでした

帰り間際におみやげを買ったら現金払いだったので
また1枚、1000円札を使ってしまい、
とうとうお財布の1000円札は1枚のみになってしまいましたが、
その後飲み物を買った売店でもsuicaで支払い。
あとは家に帰るだけですので、もう現金が減る心配はありません

現金がなくても、なんとかやっていけるもんなんだなと、
今更ながらに実感したのでした

とはいえ、そういう事実とはまた別の問題として、
現金がないという事態は、なんとなく不安にさせられるものです
また、そういうお財布を持っていることはちょっと恥ずかしい気持ちになります
ちゃんとお金をおろして、社会人らしいお財布にしてあげようと思います

学ラン

2010-04-28 09:54:08 | トリヴィア
昔に比べて今では少なくなりましたが、
男子中学生・高校生が着る制服、「学ラン」ってありますよね。

あれって、なぜ「学ラン」っていうんでしょう?


時代は江戸にさかのぼります。
当時の日本人の着物といえば、今でいう和服です。
でも、洋服を目にする機会もありました。

江戸時代、日本は鎖国をしていましたが、
唯一外交を許されたヨーロッパのある国があり、
その国の文化が、唯一外交を許された港・長崎の出島から
輸入されていたわけです。

唯一、外交を許された国とは、阿蘭陀(=オランダ)でした。
今は、西洋のことを表現する際、「洋」とされますが、
(たとえば洋食、洋風、洋楽、洋書など)
当時は、「西洋」イコール「阿蘭陀」ですから、
洋服も、「洋」服ではなくて、「蘭」服と呼ばれていたのだとか。

学ランは、洋服ですよね。
それで、学生さんの着る蘭服ということで、
「学ラン」と呼ばれるようになったのだそうです。

へえ~

ちなみに、「ランドセル」はオランダ語。
「ランセル(ransel:背負い鞄)」が変化したものです。
また、「コップ」もオランダ語「kop」です。

ついでに。
オランダといえば…うさこちゃんです。
うさこちゃんの本名(オランダ名)といえば「nijntje」

以前のブログ、石井桃子さんで、
「うさこちゃん=nijntje」の由来を書いていますので
よろしければそちらも御覧ください

チンパンジーの弔い文化?

2010-04-27 10:30:31 | 研究日記
(写真は京都大学霊長類研究所のページからいただきました。)

京都大学の霊長類研究所のチームが、
次のような内容を発表したそうです。

→NHKニュースチンパンジーに弔いの原形か

まずは概要をニュースから拾ってみましょう。
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 アフリカの野生チンパンジーの一つの群れで、幼い子どもが死んだ母親がその死骸(しがい)がミイラになっても持ち続ける事例が3例確認されたとする研究結果を、京都大霊長類研究所(愛知県犬山市)の松沢哲郎教授らの国際研究チームがまとめ、27日付の米科学誌に発表した。松沢教授は「死の弔いの原点みたいなものではないか」と注目している。
 松沢教授らは34年前から、アフリカ西部のギニア・ボッソウ村周辺に暮らす20頭前後の野生チンパンジーの群れを調査している。この間、1992年と2003年末に、それぞれ2歳半と1歳の子どもが死んだ子育て経験豊富な母親と、同じ03年末に2歳半の子どもを失った若い母親の、計3例の行動を観察した。
 その結果、子どもの体が動かないことは認識しているのに、子どもの死骸にたかるハエを追い払ったり、毛づくろいをしたほか、いずれも死骸がミイラになった後も巧みに背負い、運んでいた。
 持ち運びはたまたま死骸をなくすまで、最長68日間続いた。群れの他のメンバーは、死骸の悪臭を嫌がることもなく、平静に受け入れていたという。
 (中日新聞の記事より)
----------

ニュースを見た時は、
母親チンパンジーの姿がクローズアップされていたため、
「弔い」というのは言い過ぎでは?思いました。
母親が子どもの死を悲しんでいる過程であり、
悲嘆の情動を処理する過程なのではないかと思ったからです。

深い愛着をよせていた人や物を喪失することは
私たちに致命的な打撃を与えます。

ある老婦人は言ったそうです。
「たとえ大地が真っ赤に燃えていても、歩かなくてはなりません」と。

ひどい喪失や心的外傷にみまわれたとき、
あたかも足元の大地が燃えているような感じがし、
苦痛、涙、罪意識、怒り、恐怖に圧倒される、ということがあるのです。
(『癒しとしての痛み』岩崎学術出版社)

そのような喪失感を失うのは、その人との間に
深い愛着関係があったからです。
悲嘆する者(自己)と死者(対象)との間にある絆を断ち切るには
多大な精神的エネルギーを投入する必要があるのであり、
それが「悲嘆作業」とよばれます。
(フロイト『悲嘆と憂うつ』1917年)

母親の行動は、この悲嘆作業なのではないかと思いました。
(とはいえ、その感情過程の存在が認められなければ
 成り立たない説ではありますが…)

ですが、より詳しい記事が京都大学霊長類研究所のページにありました。
そこから重要な情報を補足しましょう。

----------
群れの他のメンバーは年齢や性別に関係なく全員が、子どもの死体に触ったり、手足を持ち上げたり、においをかいだりという行動をみせた。日数がたつと、母親から離れた場所まで、子どもや若いチンパンジーが遊びの中で死体を持ち運ぶようにもなった(下記動画)。動画内の1例をのぞいて、死体への忌避的な行動は観察されなかった。特に死亡後数日は強い腐敗臭がただよい、見かけも生きているときとはまったく違ってしまうにもかかわらず、群れの他のメンバーは攻撃的な行動もせず、非常に寛容だった。
----------

先に書いたような悲嘆の過程をたどることを支えるのは
「喪」の過程といわれます。

「喪」とは「哀悼過程」すなわち「弔い」であり、
「近親者との死別後、分化的に規定されたさまざまな儀式を通して
悲嘆を表現することが許される時期」であるとされます。
そして、「ほとんどの臨床家は、儀式化された喪の期間が
異常な悲嘆反応の発生をふせぐのに役立っていると考えている」
と言われます。(『心理療法事典』より)

群れのメンバーの行動も重ね合わせてとらえると、
確かに「弔い」かも…と思いました。

私が先に思った「悲嘆の作業」は、むしろ、
その「弔い文化」の有無が証明されてから、
その存在理由として、二次的に証明されるものなのだろうと思いました。

いずれにしても、このような動物の行動は
私たちが当たり前の文化として執り行っている事柄について、
改めて考えさせてくれるものです。

個人的には、上記思考の流れにあって、
私たちがどうしても感じてしまう「悲嘆」の意味についても、
改めて考えさせてくれる機会となりました。

今後も続報を楽しみにしたいと思います。

顔の類似

2010-04-26 12:26:29 | 心理学こぼれ話
昨年度の授業(「大人と子どもの発達心理学」)の中で、次のような質問をいただきました。

・遺伝に関して、外見と内面の関係はどうなっているのでしょうか?
顔が似ていると性格も似ていたりその反対だったり…、
相関があるのでしょうか?
また「夫婦は似てくる」という言葉も聞きますが、
環境は外見にも影響するのでしょうか?
そっくりな老夫婦をみかけたりしたこともありますが、まさか…。


「まさか…」の次が何なのか、とても気になるところなのですが
私にはその続きが浮かんできません。

外見と内面の関係はとても私の手に負えるものではないので、
後半のテーマ「夫婦は似てくる」は本当か?について
考えたいと思います。

まずはこの問いに答える前に、
ミスチルの歌「しるし」のフレーズを思い出してみましょう。

「おんなじ顔してる」って誰かが冷やかした写真
僕らは似てるのかなぁ?それとも似てきたのかなぁ?


これは、とりようによっては、
「遺伝か環境か」につながる深い問いです。

人の特質を決めるのは「遺伝か環境か」。
この問いは、かつて大議論が展開された問いですが、
成長した人の特質について、それが遺伝によるものか環境によるものか
厳密に区別して考えることは非常に難しい、
なぜなら、両者の影響が相まってその特質が現れたというのが現実だろう、
ということで、
「遺伝も環境も」という考え方に変わっていきました。
今は、そこからさらに進んで、
遺伝と環境がそれぞれ影響するのではなく、
相互に影響し合って人の成長に影響しあうという考え方になっています。

というわけで、長く付き合っている人たちの顔が似ているということについても、
1.もともとによるもの
という側面と
2.環境によるもの
という側面とを両方指摘することができるでしょう。

言い換えると、
1.もともと似ていた。その人たちが惹かれ合って一緒にいるようになった。
2.似てない人同士が惹かれ合った。一緒にいる間に似てきた。
ということになります。
当然ながら、
3.もともと似ていて、一緒にいる間にさらに似てきた。
ということも考えられますが、それは、1と2におけるそれぞれの
要因が複合したものと思われますので、ここでは1と2を考えます。

ここには時間経過を伴う変化が存在しますから、
そこも説明しないと冒頭の問いの答えとしては不十分ですね。
1.の場合には、「なぜ似ていた者同士が惹かれ合ったのか?」ということについて、
2.の場合には、「なせ一緒にいると似てくるのか?」ということについて
言及しないと不十分でしょう。

順にお答えしていきましょう。

1.の場合:

人は、そもそも、無意識的には自分のことが一番好きだという考え方があります。
なので、無意識的・意識的に、自分に似た者を愛するのだとされます。

また、自分と同じ程度のかっこよさ・美しさの人を選ぶことが
自分の自己評価を守るという考え方もあります。
優れた外見の人をパートナーにすることは
その人の自尊心を高めるという一面もありますが
かえって自身の外見に対する劣等感を喚起させたり、
相手を誰かに奪われてしまうのではないかと不安にさせられたりする。
結局、何となくかっこよさ・美しさの程度が同じような相手と
いるのが居心地がよい、ということになるそうです。

ちなみに、顔ではないですが、趣味や嗜好が似ていると、
たとえば何か計画を立てる際にも気が合いやすく、
居心地のよい時間を共有しやすいため、
結局、自分と似た人を選ぶということも指摘されています。

2の場合:
顔の造作が似ているとまではいかなくとも、
同じ時間を共有する者同士が、似た表情をもつようになることは
考えられると思います。

人は、普通、笑いかけられると笑い返すものであり、
深刻な顔をされると深刻な顔になってしまうものです。

そういった表情は、なんとなくの雰囲気を作り出し、
その人のイメージを抱くときに影響を与えます。

ひいていうならば、顔の表情は、それが長く維持されると
顔の筋肉や皺に影響してきますから、
基本的な顔の造作に影響してくることも考えられます。

また、食生活を共にすると、一緒に太ったりやせたりということが
あるかもしれません。

というわけで、いずれの方向からも説明が可能であるという話でした。

ですがもう1つ。

「『夫婦は似てくる』と言いますが」という下り。
これについては、一般論に展開していいのか?という疑問がわいてきます。
本当に似たもの同士ばかりなのか?ということについては、クエスチョンだからです。
でも、「夫婦は似てくる」という信念をもつと、
私たちはそれを証明する例にばかり、目が向くようになっていきます。

それについては以前のブログ、クリティカルシンキング入門をどうぞ。

平城京遷都1300年

2010-04-25 20:19:01 | 生活日記
私がかつて勤めていた奈良女子大学は、
近鉄奈良駅の近くにあります。
その近くには東大寺薬師寺春日大社奈良公園など、
奈良観光の有名どころが目白押しです。

ですが、奈良といえば、今年はなんといっても遷都1300年祭
数年前から着手されていた平城宮跡の工事も一段落し、
いよいよこの4月24日より、一般公開が始まりました。

710年の平城京遷都から1300年目ということで
奈良の町は盛り上がっています。
近鉄奈良駅の2つ手前・西大寺駅のカフェでは、写真のようなカフェラテを
楽しむことが出来ます。

近鉄奈良駅周辺の商店街の様子も様変わりし、
おしゃれなカフェが数多くオープンしていたりするのですが、
びっくりしたのは「ならクターショップ」の発見でした。

平城京遷都1300年を祝うキャラクター、せんとくんは
もはや全国的な知名度を誇るゆるキャラとなっていますが、
せんとくん以外にも、奈良にゆかりのゆるキャラが、
実に数多く存在するのです。
それらが「ならクター(=奈良のキャラクター)」として集結しているのです。

例をあげますと…

せんとくん:言わずとしれた平城京遷都1300周年の公式キャラクター。
      採用当時は物議を醸しましたが、そのおかげで
      全国区の知名度を誇るキャラクターに成長しました。
      ならクターの王として君臨中。

まんとくん:せんとくんが気持ち悪いということで、
      新たに民間で作られたキャラクター。
      まんとをはおっているところからまんとくん?
      なかなかかわいい風貌で、ゆるキャラの王道を行っています。

なーむくん:せんとくんが気持ち悪いと言うことで、
      奈良の仏教会によって新たに作られたキャラクター。
      せんとくんが気持ち悪いと言って作ったわりには、
      まんとくんほどのかわいさは感じられず、
      せんとくんとまんとくんの中間的なテイストです。

まんとくん・なーむくんは、せんとくんに対抗してできたキャラクターですが、
今は3者手を取り合って、平城京遷都1300年祭を盛り上げようとPR中

せんとくん関連のキャラクターには、もう1人、「蓮華ちゃん」
というのもおりました。
彼女は葛城の姫・中将姫のキャラクターらしいのですが
(そもそも、葛城の姫・中将姫が分からないのですが)
せんとくんに片思い中という設定らしいです。
(ここまで来ると何がなにやら把握しきれません

そのほかにも
はにしか:はにわに鹿の角が生えている
ロクちゃん:かわいい鹿のロクちゃん
など、実にさまざまなキャラクターが一同に会するショップです。

もちろんせんとくんグッズは充実しており、
せんとくんルービックキューブ、せんとくんパタパタメモ、
せんとくんサッカーボールなど
夢に出てきそうなくらい、せんとくんに出会うことが出来ます。

ぜひ一度お出かけあれ

ちなみに入り口のところで大仏プリンも売られています。
平城京遷都に浮かれ、せんとくんに心奪われていた観光客たちは、
奈良に来ていたのに東大寺の大仏を忘れていた
自分にハッとすることでしょう。

トリヴィア

2010-04-24 23:04:21 | トリヴィア
トリヴィアとは、取るに足らない、あるいは、
つまらない知識などの意味で使われます。

とはいえ、私はトリヴィアが好きです。

というわけで、新たにトリヴィアというカテゴリーを立ち上げました。
これまでに「生活日記」に書いてきた記事も、
トリヴィアネタのものはこのカテゴリーに移動することにしました。


ところで、なんで、そういう知識のことをトリヴィアって言うんでしょう?
それこそ、トリヴィアですよね

トリヴィアという語は、tri(3つの)via(道)という意味を
語源にもつのだという説が1つ。
3つの道とは、三叉路です。
ここまでは共通した理解のようですが、それがなぜ、
今の意味になったかということについては、
いくつか説があるようです。

1.「三叉路はくだらない」説
a.かつて三叉路は至る所で見受けられた。どこにでもあるので、
 三叉路が、ありふれている、取るに足らない
 という意味で用いられるようになった。
b.三叉路は、交差点に比べてありふれていた。
 そこから、交差点に比べて、つまらない、取るに足らない
 という意味で用いられるようになった。

2.「三叉路は情報源」説
a.三叉路には、標識や土地の情報などが書かれている
 簡単な掲示のようなものが立てられていた。
 そこには、取るに足らないちょっとした情報などが書かれていたことから、
 今のような意味で用いられるようになった。
b.三叉路は、それぞれの道からやってきた人たちが出会う場所であった。
 それぞれの人たちが、自分のやってきた土地の情報を伝え合って、
 取るに足らない、つまらない情報などもあれこれやりとしていた。
 そこから、取るに足らない知識のことをトリヴィアというようになった。

そしてもうひとつあって、「三科」説。
・中世大学の自由七科(基礎教養科目)のうち、
 初歩的な3科目(文法・修辞学・論理学)を指す形容詞。
 残り4つは「四つの道(quadrivium)」と呼ばれるので、
 それとの対比で単に「3つの道(trivium)」と呼ばれたのかもしれない。
 しかし、初学者向けということで軽蔑感が込められていったらしい。


へえ~

いずれにしても、トリヴィアっていうのは、
無駄な感じ、どうでもいい感じ、くだらない感じという意味を伴うものですが、
2-b.のニュアンスは、トリヴィアを楽しむ私たちの心に
フィットするなあと思っています

チャーリーとチョコレート工場

2010-04-23 10:25:30 | 映画日記
ジョニー・デップ主演、『チャーリーとチョコレート工場』の
映画を見た事がありますか?

舞台は、Wonkaという大人気チョコレートを作っている工場。
この工場、とても巨大な白い建物なのですが、
常に固く門が閉ざされ、数年の間、誰も入った事がありません。
あの中はどうなっているんだろう?と皆が噂し合います。

そんな時、5人の子ども(+その親)だけを工場内に招待するという
企画が発表されました。
工場長ウィリー・ウォンカ直々に、当選者の親子を率いて
工場内を案内するのです。
世界中からラッキーな子ども5人が選ばれるのですが、
それはWonkaのチョコにあるゴールド・カードを引き当てた子ども。
その子どもたちが、工場内に入り、色々な風景に出会い
色々な目に遭うのです。
そういうのを描いた映画です。

詳しく知りたい方はwikipediaへ。

そこにあるように、このお話は児童文学を映画化したものだそうです。
最近ジョニー・デップ主演で話題になりましたが、
1971年版を見て育ったというアメリカ人は、そっちの方が、
ウィリー・ウォンカの描かれ方が魅力的でいい、と言ってました。
DVDがないからチェックできずにいたのですが、
今回wikipediaにより、「夢のチョコレート工場」という
別タイトルの映画だった事が判明しました。
さっそくこちらも借りて観ようと思います。

さて。
それを見た事がある人ならば、絶対、「おお」と
心躍るチョコレートに出会いました。

そう、Wonkaのチョコレートです。
これってネスレから販売されている、実在するチョコレートだったんですね

中身を開けると…こんな感じ。
ウィリー・ウォンカのシルクハットを彷彿させる形です。

そして味は…むちゃくちゃ甘くて濃厚でgood
疲れた時なんかはこれをポイと口に入れたら結構元気になるんじゃないかな。

と濃厚なチョコレートが好きな私は思ったのでした。

パンダの偽妊娠

2010-04-22 21:24:26 | 生活日記
(写真は、Wikipediaからもらいました。)

先日、テレビでパンダの出産記録を見ました。
ぼんやり見ていたので正確でない部分もあるのですが…

そのパンダは、通常と違う時期なのに発情の状態を示していました。
注意深く観察していた飼育員によって、それが発見されました。
ホルモン値の値などから妊娠が予測され、出産が心待ちにされました。

ですが、出産間近になっても、出産する気配がない。
そして、体調に関わる何かの数値(覚えてません)も
出産時と判断できるものではない値を示しました。
(それまでは、妊娠だと判断される数値を示していました)

飼育員が、笹を与えてみました。
すると、笹をなめ始め、一生懸命抱っこするのです。

そこで、飼育員は「偽妊娠」と判断しました。
パンダは、笹を赤ちゃんだと思って、養育行動を見せたのです。

#この記事を書くために、「パンダ 偽妊娠」で検索したら、
#結構こういう例はあるようですね。
#上記の笹や、ニンジンなどを抱く行為は「偽育児」とよばれていました。

さて、その映像を見て、なんだかとても切ない気持ちになりました。
一生懸命、笹を抱っこしている様子が、なんだかかわいそうに思えたのです。
赤ちゃん、欲しかったんだな~と・・・。


とても切なくなって、動物に詳しい妹に電話してその話をしてみました。


すると・・・

「いいじゃん。育児ができない動物もいるんだよ」と。

ああ、そうなのですよね


子どもを育てるのは本能だと思われがちです。
でも、人間社会では、虐待や育児放棄といった話がしばしば聞かれ、
子どもを育てる本能が損ねられていることが嘆かれます。

そんなとき、「動物を見てごらん」と、
動物が、誰に教えられるでもないのに生まれた子どもを
きちんと育てている様子が引き合いに出される事があります。

でも、動物の例においても、子どもを育てることのできない親の例は
報告されているのです。

それらは、育児というものが、たとえ、本能による部分があるにせよ、
本能によってのみ成り立っているわけではないこと、
あるいは、
その本能を発揮して育てることを可能にする条件があること、を
考えさせてくれます。


同時に、同じパンダの偽妊娠の映像も、
見方を変えればこうも違った解釈になるのかと思ったりもしたのでした。

空港での足止め

2010-04-21 17:20:06 | 生き方
アイスランドの大噴火によって、
ヨーロッパの各空港が軒並み閉鎖され、
ヨーロッパにお出かけの方、ヨーロッパから国外に来ていた方は、
大変な目に遭っているようですね。

少しずつ、空港機能が回復されているようですが、
その間、現地で足止めを食らっていた方々は、
心身ともにさぞかしお疲れのことと思います。
皆様の無事をお祈りしております。

ここのところ、ニュースでは、
空港で待機する人々の姿や声が多く流れていました。
当然ながら、皆さん、「疲れた」「早く帰りたい」ということを
言っておられます。

その中で、あるフランス人女性の発言が印象に残りました。

このインタビューは、当然ながら、
空港で足止めされている方々の疲労などを伝えようと
したものだろうと思います。

なので、「早く帰りたい」「疲れた」という言葉が得られれば
十分なインタビューだったんだと思うのですが、、、

こんなやりとりが展開されていました。


インタビュアー「早く帰りたいですか?」(←多分。これは正確ではありません)

女性:「日本は本当にとても好きなのだけど…、
    でもこうなったら、歩いて帰るしかないわね


この受け答え、素敵だなあと思いました。

「日本は本当にとても好きなのだけど」から始まる受け答えには、
日本人であるインタビュアーへの気配りを、
そういうことが自然にできるその人の余裕を感じました。

もちろん本当に日本が好きだというのもあるのでしょう。
でもそうであっても、とても不満足な状況にあったら、
「日本が大好きだったけどもう懲りた」という気持ちに
なってしまうかもしれません。

そういう状況にあっても、好きなものを好きでいられる、
そういう気持ちを持ち続けることができるこの方は、
素敵だなあと思ったのです。

そして、続く言葉「こうなったら歩いて帰るしかないわね」というのも
なんともユーモラスで、
その人の豊かな人柄を垣間見るような気がしたのです。

私たちの感情は、時として、その対象を間違わせるという性質があります。
意味不明な不快感を抱いた時、その時意識に上がった対象を
不快の原因だと見なしてしまうことがあるのです。

でも、その不快感を般化してしまわずに、
自分の中で上手に抱えて、好きなものをそのまま好きでいられるということは、
ストレス状況下にあったときにも、こんなしなやかな応対をしていけることに
つながるんだなあとしみじみ思ったのでした

『成人発達臨床心理学ハンドブック』

2010-04-20 09:18:19 | 研究日記
本日、『成人発達臨床心理学ハンドブック』が出版されました。
中年期のアイデンティティ理論で有名な
広島大学の岡本祐子先生が編者になり、
岡本先生含む総勢28名の研究者が、以下の構成で執筆しています。

* * * * *

第1章  成人期の発達・臨床心理学の理論的枠組
1.ライフサイクルをとらえる視点
2.成人期の発達・臨床の理論
3.伝記分析からみた成人期の人格的成熟
4.発達的危機からみたアイデンティティの生涯発達

第2章  「個」としての発達・変容の諸相
1.自己意識・自己感・パーソナリティ
2.アイデンティティ・親密性・世代性:青年期から成人期へ
3.時間的展望

第3章  「関係性」の発達・変容の諸相
1.関係性から見たアイデンティティの発達:青年期から成人期へ
2.「重要な他者」との関係性の発達・変容:「関係性」の危機から
3.成人期の喪失体験と心の発達

第4章 職業・キャリアの発達と危機
1.キャリアの発達と危機への援助:企業人を中心として
2.職場のメンタルヘルス
3.キャリアの転機の実相と支援
4.教師のキャリア危機とその援助
5.女性のキャリア・パスとキャリアの発達
6.家庭役割と職業役割

第5章 家族の発達と危機
1.家族の生涯発達:社会学的視点からみた課題
2.夫婦関係の発達・変容:結婚生活の維持と配偶者との関係性の発達
3.親子関係の発達・変容(1):妊娠・出産・子育て期の親から見た子どもとの関係
4.親子関係の発達・変容(2):子どもの巣立ち期の親から見た子どもとの関係
5.老親・配偶者の介護と看取り

第6章 成人期の心理臨床的問題の理解と援助
1.成人期に生じやすい心の問題
2.「母親になることの難しさ」の理解と援助
3.「人生の峠」を越える:「中年期危機」の心理臨床的理解と援助

第7節 予期せぬ人生の危機の理解と心理臨床的援助
1.子どもに恵まれないこと
2.障害をもった子どもを育てること
3.愛する人に死なれること
4.人生半ばで障害を負うこと
5.人生半ばで大病に罹ること

第8章 発達臨床心理学の研究法の実際
1.質問紙法:「個」と「関係系」の視点によるアイデンティティ尺度の作成
2.面接法による質的研究:「語り」の聴き方・語り手への向き合い方
3.電気分析法を用いた質的研究法

* * * * *

私は、第2章の「1.自己意識・自己感・パーソナリティ」を
担当しました。

全384頁中、11頁しかない執筆原稿でしたが、
内容との兼ね合いもあって、私にとっては、
苦労を要した大きな仕事でした。

なぜならば。

この原稿を書いていたのは、2009年の1月、福島大学にて、でした。
11日から13日にかけて、締め切り間際の苦しさがあった原稿として
とても印象に残っているのです。
冒頭の写真は、当時の作業風景です。

当時、書いてた某SNSの記事から抜粋しましょう。

「原稿が…書けましぇん…
 今、やっと、半ページ書けた。
 何ページ書くんだっけ?
 ・・・・
 わ。40ページだって
 明日中になんとかしないといけないんだよねえ…
 もう7時前になってしまいました。」(2009/1/11 18:49)

「仕上がりませんでした…
 これ以上遅くなると、暗くて道を歩けなくなるので帰ります。
 (略)
 明日の夜、また大学に来てがんばります。
 うううっっっ」(2009/1/12 22:03)

「今日は福島は雪。
 夕方から降っているため、路面はきっと凍ってます。
 この状態で車で帰るのはあまりに危険だと聞かされ、
 最初は必死で帰りたい気持ちを貫こうとしていましたが、
 あまりに怖くて怖くて、泣く泣く断念しました
 終電で帰るという手段もあったのですが、
 ブーツが雪仕様ではないため、駅までの道のりも恐ろしく…
 これも断念しました。
 残された道はただ1つ… 大学泊です…」(2009/1/14 0:09)

→予期せぬ大学泊に、かなり落ち込みましたが
 (しかも翌日講義有り)
 でもこの日に泊まって徹夜したおかげで、
 無事に原稿を仕上げる事ができました

そんな、とっても印象深いお仕事だったので、
出来上がったのを見た時には感慨深いものがありました。

* * * * *

ただ、そのような状態での提出となったため、
その後、文献チェック漏れなどを多数指摘されてしまい、
編者の岡本祐子先生およびナカニシヤ出版様には
大変ご迷惑をおかけしました

本体価格4800円(税込5040円)と一見お高いですが、
ハンドブックの値段としては妥当なところでしょう。

皆さん、是非お買い求めください。
個人で難しい場合は、大学図書館などに入れてもらうよう、
お願いしてくださいませ

補遺:念のために言っておきますが、
   これは最終原稿に取りかかってた時の記録なので、
   その前から、下書きは何度もしていたのですよー

新社会人の人たちへ

2010-04-19 18:30:42 | 生活日記
新社会人の皆さん、4月からの新しい生活には慣れましたか?
自分がその新しい仕事に慣れるだけでも精一杯なのに
周りからもプロとしての仕事を容赦なく求められ、
それに応えようと必死に頑張り続けている人、しかも、
それを日常の中で吐き出すことができない人は、
そろそろ心身の疲れがたまり始める時期ではないかと思います。

今回はそういう人(新しい生活に疲れてきた人)を
想定して書いてみます。

たとえば新しく先生になった人。
新しい環境、新しい人間関係、そして新しい生活リズム、
それらに自分を合わせていくだけでも大変なのに、
でも、子どもや親からは、同じように先生として頼られ、
プロの「私」として向き合っていかねばならない…

そう思って頑張っている人も少なくないのではないでしょうか。
でもまだきっと頑張ることができているでしょう。
なぜなら、意欲と情熱があるからです。

でも・・・、ご飯、食べていますか?
朝起きたら、カーテン開けていますか?
もしそれが出来てなかったら、結構疲れてるんだと思いますよ…

仕事というのは、続けられてナンボです。
根性だけで乗り越えられそうな気がしても、それは、続くのです。
自分の疲れに鞭打つ日々が重なっていくと、次第に、
こんな仕事いやだ~と思い始めてしまい、
あまり仕事がうまくまわらなくなって、こんな仕事自分に向かない~と
思い始めてしまい、早くもやめたくなってしまう、なんてことも
ないとは言えません。

あれもしなきゃ、これもしなきゃ!と毎日を頑張って頑張って、
気づけば心の余裕が無くなって、泣きそうになっている人、
もしもそういう状況にいるならば、
その1日のスケジュールの中に、たとえば、思い切って
「休む」という時間を組み込んでみましょう。
あるいは、「家事」の時間でもいいのです。
とにかく、1日の仕事の中で、違う頭の使い方をする時間を、
きちんと入れてみるのです。

日本の女性心理学者の草分け的存在の柏木恵子先生が
かつて言っておられました。

家事を含めると、有職女性の方が男性よりも労働時間が長いのに、
男性の方が過労死の割合が高いと。
1つのことばかりの労働が続くのは身体によくないと。
家事でも、趣味でも、筋トレでもなんでも、
違う心身の使い方をすれば働き続けているように見えても、
身体の中のリフレッシュは可能になっているのだと。

「休む」を入れたら仕事がはかどらない!と思うかもしれません。
実際そういうこともあるでしょう。
でも、それでも、休まないといけないのです。
もしも頑張りすぎているならば。
頑張りすぎているかどうか?というのは、
それをずっと(ある程度)続けられるか?というところで
考えてもいいでしょう。
そのうち、適度な休み方というのを身につけることができるでしょう。
でもそれでなくても、無理がたたってポキッと折れてしまうより
ずっといいのです。

何か計画を立てる時、私たちはある目標達成のために「何をするか」を考え、
そのための計画を立てることが多いと思うのですが、
その計画を遂行するには、その遂行する自分を支える計画も必要です。

もしも、仕事がきつくて、こんな仕事いやだ~!となってる人、
自分のコンディションを整えるところから始めましょう。
そしたら、きっと違う感じ方ができるはず
まずは、朝起きたら、カーテンを開けよう

今回は、僭越ながら、応援メッセージとさせていただきました。
だらけている私は、もう少し、「何をするか」の計画をちゃんと立てます

「あんよ」の謎

2010-04-18 10:01:18 | 心理学こぼれ話
私にはとても優秀な後輩がいるのですが、
先日、彼女から教材DVDが送られてきました。

まずは、彼女の家でも見せてもらった衝撃映像の1つ、
ボリビアの「スウォドリング」と呼ばれる子育てを改めて見てみました。


ボリビアのある地域では、
赤ちゃんは、シュンピと呼ばれる布にぐるぐる巻にされ、
顔だけ出したような、ロシアのマトリョーシカみたいな状態で、
ほとんど1日中を過ごすのだそうです。

*これが「スウォドリング(Swaddling)」と呼ばれます。
*swaddle: [動]1 ((古風))〈新生児を〉布でくるむ. 2 …を(包帯・毛布などで)くるむ, 巻く. 3 …の手足をしばる. ━━[名] 1 ((米))うぶ着, おむつ. 2 包帯

お母さんは、その布ごと大きな布にくるんで背中に背負って
農作業などに出かけるのです。
シュンピを外されるのは、おむつを替える2時間ほどだとか。


そんな状態で1年を過ごすのです。


この1年の間、通常の赤ちゃんの場合、

・上から下へ:
  まずはくびがすわるようになり、上体を支えることができるようになり
  そして最後に足で支えられるようになる。 
・全体から部分へ:
  まず、胴体部分の運動ができるようになってから、手足の運動、
  そして指先の運動ができるようになる。

の方向に沿って、運動能力が発達していくことが観察されています。

なので、

・寝返り→上体起こし→おすわり→はいはい→つかまり立ち→あんよ

という過程をたどる、というのが一般的な理解です。
この過程はだいたい1年くらいかかります。


ボリビアの赤ちゃんの場合、この過程をたどる1年間、
ずっとシュンピでぐるぐる巻にされているのですが・・・

1年経って、シュンピを外された赤ちゃんは・・・

なんと、、、

ゆっくりと立って、歩き始めるのです
それまでずっとぐるぐる巻にされ、手足の自由もなかったのに


これはとっても衝撃的でした。

これについては、赤ちゃんの運動の発達は
このようにあらかじめプログラムされているのだ、と
説明されていました。
つまり、ある時期に来たら、あることができるように
プログラムされている、というわけです。
逆に、それ以前に何かをさせようとしても、
無理な場合もあるということですね。
子どもの発達には、やはり、時機というのがあるようです。


ただ、2つの点で、私は多少混乱いたしました。
以下については、もう少し調べていかねば、と思っています。


1つは、「歩行」というものが、それ以前の運動の発達過程を
スキップして成り立っていたということ。

先に示した、
「寝返り→上体起こし→おすわり→はいはい→つかまり立ち」の過程が、
シュンピを外された瞬間に、大急ぎにたどられるというわけではなく、
それらが全部スキップされて、突然、ゆっくり立ち上がり、歩き出す、
という行動が観察されていたのです。
つまり、それまでの段階を全速力で駆け上がったのではなく、
ひょいと突然あんよの段階までジャンプしちゃっていたのです。

ということは、歩くための準備だと思っていた過程は、
絶対に必要なものではなかったのか、ということです。


そしてもう1つは、発達がプログラムされていることは
十分理解できるとしても、その発達における
働きかけは必要なかったのか?ということです。

通常、発達に際し、適切な働きかけが重要であることは知られています。
たとえば、生まれてからずっと真っ暗な状態に置かれたサルの赤ちゃんは、
視神経になんの異常もないのに、その環境下にあって、
視覚を司る脳の神経細胞が発達することができなかったために、
視力を獲得することができなかったことが報告されています。

運動能力の場合、子どもが自ら行動を開始するにしても、
シュンピでぐるぐる巻にされていたら、
筋肉は発達しないのではないでしょうか?
つまり、手足が動かせない環境下にあって、
なぜ自分の身体を支えられるほどの脚力を
つけることができていたのでしょうか?

シュンピの中で、秘かに赤ちゃんは
何らかの筋力トレーニングをしていたのでしょうか?
それとも、映像の示し方で、突然歩けるように見えたけれど
それなりにちょっとタイムラグがあったのでしょうか?

あるいは、実は民族の知恵で1年後くらいにシュンピを外しているから
無事に発達しているだけで、あのまま何年もぐるぐる巻にしていたら
やはり歩けなくなってしまうのでしょうか?
→これは「臨界期」(=発達の締切日)に関わる問題です。


まあ、このような疑問を喚起されたりもしたわけですが、
それらはまたおいおい調べていくこととして、

まずは
「赤ちゃんは発達のプログラムをもって生まれてくる」ということについては
十分すぎるほどに納得させてくれる映像でした。


特に教育に携わる人は、環境の働きかけを絶対視してしまうことが
多いように思いますが(これは私見です)
そういう働きかけも、相手のもっているプログラムに支えられている
(あるいは規定されている)ところがあるということを
十分に自覚しながら、なおかつ、教育の可能性を探る、という姿勢が
重要なのではないかと個人的には思っています。

『いい奴じゃん』:暗闇にとどまらない力

2010-04-17 06:39:45 | 読書日記
とある本によると、A.スミスは『道徳感情論』で
以下のように述べているそうです。

 あなたが逆境に陥っているのなら、
 孤独の闇の中で1人で悲しんでいてはいけないし、
 親しい友達の寛大な同情によって自分の悲しみを調節してもいけない。
 できるだけ早く世間と社会の白日の下に戻りなさい。

至極もっともな意見です。


でも、こういうことは、どのようにして可能になるのでしょう?


大好きな作家の1人に、清水義範さんという方がおられます。
彼の文章は、いつも冷静かつハートウォーミングで
心を穏やかにさせてくれます(とはいえ毒もあっておもしろい)。

その中の『いい奴じゃん』(講談社)という本は、
清水氏の作品の中ではちょっと異色かもしれませんが、
まさに、上記のことを考える上でヒントになる本です。
今日は、このことをテーマに『いい奴じゃん』の紹介をしましょう。

* * * * *

『いい奴じゃん』は、荒木鮎太という青年を主人公とした
清水氏曰くの「明朗青春小説」です。

この本には、全篇通して、
鮎太の心に沿うことで癒されるシーンがいくつも出てきます。
たとえば、、、

・そんなふうに、年齢で人生を制限しなくてもいいのにな、と鮎太は思うのだった。あんまり自分を追いつめては、苦しいばかりなんだから。その年までに自分にできることを発見しなきゃ負け組の生き方になる、というのは生きるってことを狭く考えすぎている。

・いつだって強烈な皮肉を口にして世の中を笑いのめしているようなこいつにも、口に出せない心の傷があるってことなのか、と鮎太は思った。それはとても人間らしいことなんだ、というのが鮎太の心に浮かんだ感想だった。

・「やっぱ私って駄目なんだよ。今度のことで私にはわかったの。私って、つまらない人間で、いいとこなんかひとつもないの」その言葉を聞いて、鮎太の中で何かに火がついて、メラメラと燃えだした。そんな風に考えさせてはいけない、と思ったのだ。人間はまず第一に、自分が好きでなきゃいけないのだ。根本にそれがなければ、ものすごく生きにくい人生になってしまう。

・「一番になりたいと願うのはいいことかもしれないが、一番じゃなきゃ受け入れられないというのは、生きにくくなるだけだよ。そんなふうに思うんじゃなくて、自分らしく生きてそれで満足だっていう生き方もあると思うよ」(略)鮎太がじっくりと主張したのは、ありのままを生きる事にも価値はあるんじゃないか、ということだった。

などなど…。

ああ、でも、こうやって抜粋するとなんだか、せっかくの言葉が
なんだかきちんと響かないような気がします。
清水氏には本当に申し訳ない限りです。
読んでいると、こういう言葉が、本当に、
とても素直に響いてくるのです。
鮎太がそう思うなら、きっとそうなんだろうと、
そう思わせてくれるのです。
清水氏が展開するハートウォーミングな世界のもつ力だと思います。
その世界の中で、これらの言葉は、本当にごくごく自然におさまっているのです。


さて。
で、冒頭の件についてです。


鮎太がよく行く定食屋のアルバイトにナオちゃんという女の子がいます。
ナオちゃんは次第に鮎太に心理的に頼るようになるのですが、
ある日、ぼろぼろの状態で鮎太に連絡をとります。
鮎太は、ナオちゃんを助けようと向き合います。
その時の行動や考え方は、
誰かを支えようとする時にも、自分自身が立ち上がろうとする時にも
とっても本質的なところをついたものがちりばめられています。

そんな中で、私にとって、もっとも印象に残ったのは下記のくだりでした。

・ちゃんと外出着に着替えることは、生活にメリハリがつく、いいことのような気がした。

・食事をすませて、鮎太は皿を洗った。ナオは洗ったものを布巾でふいて、しまう役をした。今日のようなナオには、段取りよくテキパキと生きる姿を見せるのがいいんじゃないか、と思ったからだ。台所の流しに洗い物がだんだんたまっていく、というような生活は人間をゆっくりと蝕んでいくからだ。

「世間と社会と白日の下に戻る」というのは、
こういうところから始まるのかもしれません。
「生活する」ことの大切さ。
それが何よりも、その人を支えるということ。
暗闇に落とされた時でも、とにかくまずは、生活すること。
それが何よりの、「暗闇にとどまらない力」なのだと改めて思わせてくれます。

そんな、本質的なことが、さらりと書かれてあって、
清水氏は本当にすごい人だと思いました。

重たいトーンで書いてしまいましたが、全篇通してとっても明るいです。
興味を持たれた方は、是非是非、読んでみてください

日だまりの中のピアノ

2010-04-12 08:19:52 | 生き方
今朝、6時台に見ていたNHKのニュースで、
こういう話題が紹介されていました。
4/4にNHKの「特ダネ!投稿DO画」という番組で流れた映像だそうです。

まずは、そこで紹介されていたオリジナルの動画を御覧ください。
Mayo Clinic atrium piano, charming older couple...

取りあげられてた話題とは違いますが、
メロディーの明るさもとっても印象に残ります。
時々はさまれる音符の乱れや、テンポのズレも、
より一層、生き生きとした音楽にしてくれています。

クラウンがそこいらでお花をポンポンと出してくれてそう
あるいはウサギを出してみたらそのままウサギが
その辺のロビーを走り回って、フロア中が大混乱→大爆笑
天気はもちろん晴れ、燦々と太陽の光が降り注ぐロビーです。
(おっと、これはそのままですね)
あるいは、アリスのお茶会も顔負けに、角砂糖やらスプーンやら鍋の蓋やらが
ちょこまかと動いてはダンスしたりしていそう。
あるいは、、、

なんて想像が、メロディーからだけでもふくらんできます

そして、画面に出てくるお二人、とっても素敵です
本当に、楽しくて楽しく仕方がないといった感じで
ピアノを演奏されています。

ということで、NHKでは次のような紹介映像が流れました。
「夫婦のピアノ演奏 世界中が感動」
なんだか、お二人のインタビューへの答えも、いい感じですよね。
「You Tube知らないし」「今もよくわからないけど」って。

もともと、職業もピアノ関係のお二人だとか。
ということは…、ここからは私が思った事なんですが、
もともと、とっても愛せる仕事につけたのだろうけれども、
年を重ねるごとに、また、その仕事を共有できる人がいたことで、
もっともっと楽しくてもっともっと幸せなものへと
仕事をカスタマイズしていけたんだろうなあということ。

経験を重ねていくっていうのは、
そういう風に自分なりに仕事を発展させる方向へも
エネルギーを注げるようになるってことだなあということを
再確認したのでした。

そして、これはインタビューの最後でご本人も言ってられますが、
自分が楽しく何かをしていて、それで誰かが楽しんでくれるなら、
本当に嬉しいことですよね。

そのためには、まずは自分が自分の仕事を楽しもう

「やりたいことをやってるだけ」
「年をとっても毎日楽しいです」
この辺りについても書きたい事がありますが、
それはまた別の機会に。