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弁護士・元ロースクール教授宮武嶺の社会派リベラルブログです。

山口仙二さん逝く

2013年07月07日 | 感動と人生

写真は2002年、長崎にて。

1995年、ハーグにご一緒したときに、荷物を持って差し上げ、コートを着ていただいたのが私の誇りの記憶です。核兵器廃絶を目指す世界法廷運動の真っただ中で、仙二さんの荷物持ちをできるというのが、駆け出し弁護士にはなにより嬉しかったのです。

周りから仙ちゃん、仙二さんと呼ばれて誰からも愛される人。そして、他人にも本当に優しい方でした。人は絶望を知れば知るほど優しくなれるのかと思います。

故人のご冥福を祈り、安らかにお眠りくださいとお祈り申し上げます。

仙二さん、ほんとに亡くなっちゃったんですね。さようなら!

長崎を忘れないで

被爆者の思い

日本被団協、5度、ノーベル平和賞候補となる

 

 

合掌。

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ノーモア・ヒバクシャ訴えた山口仙二さんが死去

 被爆者の代表的存在として核兵器廃絶運動の先頭に立った日本原水爆被害者団体協議会(被団協)顧問の山口仙二(やまぐち・せんじ)さんが6日午前9時36分、亡くなった。

 82歳だった。告別式は8日午後1時、長崎県雲仙市小浜町北本町905の58来迎舎小浜斎場で営まれる。自宅は同町1056の3ケアハウス桜花苑。喪主は妻、幸子(さちこ)さん。

 長崎市の兵器工場に学徒動員されていた14歳の時、爆心地から1・1キロ離れた場所で被爆し、顔や胸などに大やけどを負った。植皮手術で入退院を繰り返す一方、1955年に長野県で開かれた原水爆反対集会で被爆体験を証言したことをきっかけに、反核運動に身を投じた。

 56年には、若い世代の被爆者で長崎原爆青年乙女の会をつくり、主要メンバーとして活動。長崎原爆被災者協議会(被災協)設立の呼びかけ人にも名を連ね、国内外で核兵器廃絶を訴え続けた。

 81年に被団協代表委員に就任。翌年には米ニューヨークでの国連軍縮特別総会で、被爆者として初めて国連本部の演壇に立ち、やけどの痕が残る自身 の写真を掲げ、「ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ(戦争をなくせ、被爆者を二度と出すな)」と訴え、国際社会に強烈な印象を与えた。その後も、被 爆者援護法制定運動などに力を尽くした。

(2013年7月6日20時10分  読売新聞)
 
 

山口仙二さん 身を削り反核運動

 山口仙二さんを取材したのは二〇〇五年夏、戦後六十年の節目。七十四歳だった山口さんはノーベル平和賞候補に挙がっていた。

 穏やかな笑顔に、優しい語り口。しかし、被爆体験や平和運動について語るうち、眼光は力に満ち、往年の闘士の顔つきになった。

 長崎では原爆を一人一人が受忍しなければという空気が強く、被爆者が声を上げるのは難しかったという。

 被爆から九年後。長崎大学病院で受けていた治療の費用が、国費でなく大学研究費で賄われていると知り、怒りがはじける。戦争責任のある国は被爆者を放置している。一人で電車に飛び乗り、国会へ。議員は不在で、広島の議員秘書に要求項目書を渡したという。

 身を削って国内外で反核運動を繰り広げたが、戦争や核兵器はなくならない。それでも山口さんは悲観していなかった。「核戦争を起こさせなかった六十年でもあった。政治家の力ではなく、市民運動が世論を動かし、政治家たちの手足を縛ってきたからだ」と。

 原爆を落としたのは人間。それを止める意志と力があるのも人間。絶望のふちにたたき落とされながら、人間を信じ、良心に懸けていた。米国での反核運動も、まず相手の無名戦士の墓をお参りし、戦争被害を同じ人間の痛みとして分かち合うことから始めた。

 「長い時間がかかるんですよねえ、平和運動は。前進と後退を繰り返しながら、だんだん一部の私利私欲より社会の良心や人々の知恵の方が大きくなっ ていく」。東日本大震災と福島第一原発事故後の、ままならない世の中を生きる今、この言葉が、聞いた当時よりさらに深く、胸に染み込む。 (柏崎智子)

 
 
被爆者の山口仙二氏が死去
長崎新聞文化章受章が決まった後のインタビューで、自身の半生や核兵器廃絶への思いを語る山口さん=2010年11月、雲仙市のケアハウス
長崎新聞文化章受章が決まった後のインタビューで、自身の半生や核兵器廃絶への思いを語る山口さん=2010年11月、雲仙市のケアハウス

 長崎原爆で被爆し、日本の被爆者援護運動、反核・平和運動をけん引した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)顧問で元代表委員、山口仙二氏が6日 午前9時36分、心不全のため雲仙市小浜町南本町の公立新小浜病院で死去した。82歳。五島市玉之浦町出身。自宅は雲仙市小浜町北本町1056の3、ケア ハウス桜花苑。通夜は7日午後7時から、葬儀は8日午後1時から、いずれも雲仙市小浜町北本町905の58、来迎舎小浜斎場で営まれる。遺族は家族葬で執 り行いたいとしている。喪主は妻幸子(さちこ)さん。

 1945年、旧県立長崎工業学校(現県立長崎工業高)1年生だった14歳のとき、学徒動員先の三菱長崎兵器製作所大橋工場の敷地内(爆心地から1・1キ ロ)で、防空壕(ごう)を掘る作業中に被爆。顔や上半身が焼けただれた。貧困の中、やけどの引きつり、ケロイド、被爆の後遺症に苦しみ、植皮手術などのた め入院や自宅療養を繰り返した。

 米国が太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験による第五福竜丸事件をきっかけに反核の世論が高まり、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された55年、 長崎原爆青年会(後に長崎原爆青年乙女の会)を設立。56年、被爆者への国家補償実現などを目指して発足した長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の結成呼 び掛け人の一人となった。

 被爆体験と反核を訴える活動は海外に広がり、82年、米ニューヨークであった第2回国連軍縮特別総会で被爆者として演説。自身のケロイドの写真を掲げ、 「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と訴える姿が、世界に発信された。

 長崎市の平和宣言文起草委員を務めたほか、長崎被災協会長などを歴任。被爆者援護法の実現や原爆症認定集団訴訟の支援など、被爆地からの運動の中心的役割を担い続けた。

 ケロイドや肝機能障害に加え、慢性ぜんそくが悪化し2003年、長崎市内から雲仙市のケアハウスに転居。第一線から退き、ベッドで過ごす状態だった。

 05年には米国の歴史学者によってノーベル平和賞候補に推薦。10年度長崎新聞文化章を受章した。

 
 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (琉璃亜)
2013-07-11 01:03:54
お二人のおそろいっぽい帽子もいい感じで
素敵な写真ですね^‐^
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本当に (時々拝見)
2013-07-14 14:49:19
神から使命を託される人って、実在するんですね。
返信する

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