英雄的でもなく、美しくもなく、人人の誤解と嘲りのなかで死んでいったイエス。裏切られ、見棄てられ、犬の死よりもさらにみじめに斃れたイエス。彼はなぜ十字架の上で殺されなければならなかったのか?―幼くしてカトリックの洗礼を受け、神なき国の信徒として長年苦しんできた著者が、過去に書かれたあらゆる「イエス伝」をふまえて甦らせたイエスの“生”の真実。
出版社:新潮社(新潮文庫)
福音書は、新共同訳聖書と岩波文庫で読んだことがある。
だからざっくりした流れは知っていたけれど、聖書にはそういう読み方もあったのかと、読んでいて驚かされる面も多かった。
そう感じたのはまず、イエスが生きてた頃の時代背景を知らなかったということにある。
けれどそれ以上に、本書では新しいイエス像が提示されていて、そのことに新鮮な印象を感じたからかもしれない。
イエスの教えの中心にあるのは、愛だ。
それまでの厳格なヤハウェと違い、イエスの示した神は、「哀しい人間に愛を注ぐ」存在だ。神という形而上学的存在に、新しい視点を示したとも言える。
そのことを、イエスの生涯と、彼が住んでいた土地のイメージと重ねて、著者は読みとろうとしている。
だがそんな新しい宗教を提示するイエスに対し、人々は、宗教的側面よりも、反ローマ運動の指導者、ユダヤ教の改革者としての姿を求めていく。この齟齬が悲しい。
というよりも、このような着眼点があったことを知らなかっただけに、驚きは大きかった。
なるほど当時の政治宗教の状況を鑑みればそういう推理も成り立つらしい。
目から鱗の思いだ。
それにつけても、イエスの愛の概念は、苛酷なことばかり起きる現実においては、非現実的なものなのだ。
それだけに、イエスは神の愛を証明することが困難だった。
だから弟子たちにもそれが伝わらなかったのだろう。民衆が求めるのは、結局のところ、現世利益的な「奇蹟」でしかないからだ。
だから離れていく弟子もいたし、反ローマ運動の指導者、つまりは「地上のメシア」たりえないと失望する者もいた。一方でその影響力を危険視し彼を監視する勢力もいた。
その情勢の描き方は、憶測まじりとは言え、やはり読み応えがある。
圧巻はやはり受難を巡る物語だろう。
そこに提示された物語も、この本の多くがそうであるように、憶測混じりではある。
しかしそのようなできごとも、ありえたかもしれないと思えるだけに、目を見開かれる思いがするのだ。
イエスは宗教者の死刑方法である石打ちではなく、政治犯として十字架刑に処せられる。
そのとき弟子たちは、イエスを裏切り、見捨てて逃げた。
にも関わらず、弟子たちがイエスの教えを命がけで伝道するのはなぜなのか。
その謎に対する著者の推理の鮮やかさはどうだろうか。
自分を裏切った者を決して憎まず、十字架の上でさえ、神への絶対的信頼をささげるイエスの姿は感動的でさえある。
弟子たちが自分を裏切った師の本当の偉大さを理解できたのも納得できるのだ。
ともあれ、イエスの生涯について、このような見方もあることを知らされ、感激した。
著者の読解力とイマジネーションと、偉大な人物に対する理解、とが深く胸に響く一品である。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)
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