愛だけを語り、愛だけに生き、十字架上でみじめに死んでいったイエス。だが彼は、死後、弱き弟子たちを信念の使徒に変え、人々から“神の子”“救い主”と呼ばれ始める。何故か?―無力に死んだイエスが“キリスト”として生き始める足跡を追いかけ、残された人々の心の痕跡をさぐり、人間の魂の深奥のドラマを明らかにする。名作『イエスの生涯』に続く遠藤文学の根幹をなす作品。
出版社:新潮社(新潮文庫)
『イエスの生涯』の続編である。
というわけで、今回はイエスが死んだ後の弟子たちの姿に視点が移されている。
自分を裏切った弟子たちを恨まず、神への絶対的信仰と共に十字架にかかったイエス。
その死を、裏切った側の弟子たちはどう受け止めたのか。
著者は、彼らの心理をいろいろ推理していて読み応えがあった。
初期の原始キリスト教団の中には、ペトロたちのようにイエスを人間を越えた存在として見なすグループもあったし、ヤコブたちのようにユダヤ教の枠内で、イエスの教えを受け入れた者もいた。
基本的な前提知識である、こういった経緯は、使徒行伝を読んだだけの段階では、まったく理解できていなかった。それだけに、読んでいてもおもしろい。
ステファノを中心としたギリシャに元々いたユダヤ人のグループは、ヤコブたちのように、イエスをユダヤ教の枠内に押し込めることに反発をもっている。。
そんなステファノに対し、ヤコブ側でもステファノ側でもないペトロはあくまで慎重にふるまう。
そこにペトロの個性を見るようでおもしろかった。非常に人間くさい。
一方パウロはペトロと違い、直接の弟子でない分、大胆にイエスの教えを解釈できて、行動にも移すことができている。
そんなことができたのは、パウロのキャラクターもあるが、生前のイエスを知らなかったから、という点は興味深かった。
ペトロがイエスの生涯から何かを探ろうとしたのに対し、パウロはイエスを知らない分、彼の死と神の沈黙、そして復活というキリストとしての視点からイエスを見ている。
だからユダヤ教の枠を超えたもっと広い愛の教義に到達し得たのだろう。
その鮮やかさは読んでいてもワクワクしてしまう。
そしてそれゆえに、ヤコブらエルサレム教会と対立し、皮肉めいた目線を送る点には、彼のちょっと傲慢な姿を見るようで、忘れがたいものがあった。
ともあれ、彼らの活躍によって、キリスト教は世界に広がっていった。
だがその教えが現実を救うことはないのだ。
キリスト教は迫害され、ペトロは死に、パウロも死に、ヤコブも死に、ローマの攻撃でエルサレムは破壊される。
そんな中にあっても、神は沈黙し続ける。
それは皮肉とも言えるだろう。
しかしながら、その沈黙に神の不在を見るのではなく、神の意思を見て、その意味を追い求めることが、信仰のエネルギーとなっていくという点は、宗教に疎い僕には、どこか痛ましく見えてならなかった。
ともあれ、キリスト教史を大胆の推論の元に概括していて、ユニークな作品であった。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
そのほかの遠藤周作作品感想
『イエスの生涯』
『わたしが・棄てた・女』