入院中、「猫間川源流探検記」というサイトを熟読した。
前から知ってはいたのだが、かなり内容の濃い長編のレポートなので
部分的にちらちら見ていただけだったが、今回時間がいっぱいあったので。
猫間川というのは、玉造・森ノ宮のJR環状線の際あたりを通り、今の
大阪城公園駅の近くで第二寝屋川に合流していた古い自然河川で(もちろん
鉄道ができる前からある)、早いうちから暗渠化され埋められてしまった。
このサイトによるとその源流は南田辺の長池・桃ヶ池あたりという。
私も前から猫間川は気になっていて、何度かふらふら歩いてみたことは
あったのだが、これが全くと言っていいほど痕跡がない。
道路の形だけは確実に川跡なのだが、一般的な廃川跡のしるし、例えば
道路の盛り上がりや段差、橋の欄干の跡、コンクリート堤防の残骸、
古い石積み、川に背面を向けた建物群、などがまったく見当たらず、
川がありし頃の風景を想像しにくいのだ。
このサイトでは、実地探索はもちろん周辺に住む老人や関係者への
インタビューや社寺に残る石碑や、公的資料、文学作品などいろんな資料を
参考にしながら仮説を立てては検証し、猫間川の全貌を描きだそうとしている。
めちゃくちゃ面白い!
私ももう一度行きたくてうずうずしていて、それでさっそくうろついた。
・・・とは言っても、まぁお散歩程度に(笑)、森ノ宮から。
JR駅の1本東側の道が川筋であることは間違いないのだが、
気になったのは、建物と道路の間1mあまりのこの変なスペース。
おそらく建物のつらまでが川幅だったのではないかと想像する。
中央大通を北へ渡ると、この道がさっきの続きの位置にある。
この道の西端のラインはさっきの建物のつらとぴったり合う。
この道は北上するとすぐにJRの車両基地に当たって右へ曲がっている。
フェンスの門から車両基地を覗くと、プラットホーム状の部分が、
さっきの道の西端ラインを延長したところにある。偶然だろうか?
そしてよく見ると、コンクリートのプラットホームが終わった向こう側には
草の生えた地面の段差が続いているのが分かる。
車両基地内の地面にわざわざ段差を作る必要性はないと思うので、
もしかすると、猫間川の堤防を一部利用したのか??な~んて。
先述のサイトによると、猫間川が最終的に埋め立てられたのは昭和34年頃。
そんな時代から今まで、土の山が残っているなど普通ありえないと思うが、
そうだったらいいな~という期待。。。
道は第二寝屋川の手前にある猫間川抽水所で行き止まり。延々引き返す。。。
さてもう一つの興味は、猫間川は第二寝屋川に合流する手前で環状線の線路を
くぐって西側へ出ていたのだが、その場所がどこであったか?
写真の通り森ノ宮~大阪城公園間は築堤であり、川があった時には
おそらく築堤の一部が石積みによって切れていて、ガードになっていたと
想像される。
痕跡が残っていないかと見ていると、こんなのを見つけた。
ガード??いや、ケーブルを通す函だ。他の部分はコンクリート製トラフだが
この部分だけ鉄製、しかも色も形もずいぶん古めかしい。そこだけ鉄製に
しているのは、下に何かが通っていたからと考えられる。もしや・・・!?
しかし、この部分の長さは10m程度、川は斜めに横切っていたはずなので、
幅が狭すぎる気が。。。
この部分の公園側の道路を見ると、歩道のインターロッキングのパターンが
明らかにここだけ違っている。車両乗入れ部でもなさそうなので、これは
何らかの境界を示す目印と思われる。やはり・・・!?
いや、でも線路に対して完全に垂直というのはおかしい。。。う~ん
疑問を残したまま帰宅したが、地図を見ると、位置的にどうも違っているようだ。
猫間川が環状線をくぐっていたのは今の大阪城公園駅のプラットホームの南端
からすぐの位置らしい。これでは駅の工事の時に跡形なく造成されているだろう。。
ではあの鉄製トラフは何だったのか?
いくつかの昔の航空写真を見ていると、砲兵工廠内の通路が環状線の線路を
くぐっていたようだ。あれはその痕跡にほぼ間違いないと思われる。
・・・こんなことをいろいろ考えながら歩いていたら、ついつい3時間も
歩いてしまったというわけで(笑)
前から知ってはいたのだが、かなり内容の濃い長編のレポートなので
部分的にちらちら見ていただけだったが、今回時間がいっぱいあったので。
猫間川というのは、玉造・森ノ宮のJR環状線の際あたりを通り、今の
大阪城公園駅の近くで第二寝屋川に合流していた古い自然河川で(もちろん
鉄道ができる前からある)、早いうちから暗渠化され埋められてしまった。
このサイトによるとその源流は南田辺の長池・桃ヶ池あたりという。
私も前から猫間川は気になっていて、何度かふらふら歩いてみたことは
あったのだが、これが全くと言っていいほど痕跡がない。
道路の形だけは確実に川跡なのだが、一般的な廃川跡のしるし、例えば
道路の盛り上がりや段差、橋の欄干の跡、コンクリート堤防の残骸、
古い石積み、川に背面を向けた建物群、などがまったく見当たらず、
川がありし頃の風景を想像しにくいのだ。
このサイトでは、実地探索はもちろん周辺に住む老人や関係者への
インタビューや社寺に残る石碑や、公的資料、文学作品などいろんな資料を
参考にしながら仮説を立てては検証し、猫間川の全貌を描きだそうとしている。
めちゃくちゃ面白い!
私ももう一度行きたくてうずうずしていて、それでさっそくうろついた。
・・・とは言っても、まぁお散歩程度に(笑)、森ノ宮から。
JR駅の1本東側の道が川筋であることは間違いないのだが、
気になったのは、建物と道路の間1mあまりのこの変なスペース。
おそらく建物のつらまでが川幅だったのではないかと想像する。
中央大通を北へ渡ると、この道がさっきの続きの位置にある。
この道の西端のラインはさっきの建物のつらとぴったり合う。
この道は北上するとすぐにJRの車両基地に当たって右へ曲がっている。
フェンスの門から車両基地を覗くと、プラットホーム状の部分が、
さっきの道の西端ラインを延長したところにある。偶然だろうか?
そしてよく見ると、コンクリートのプラットホームが終わった向こう側には
草の生えた地面の段差が続いているのが分かる。
車両基地内の地面にわざわざ段差を作る必要性はないと思うので、
もしかすると、猫間川の堤防を一部利用したのか??な~んて。
先述のサイトによると、猫間川が最終的に埋め立てられたのは昭和34年頃。
そんな時代から今まで、土の山が残っているなど普通ありえないと思うが、
そうだったらいいな~という期待。。。
道は第二寝屋川の手前にある猫間川抽水所で行き止まり。延々引き返す。。。
さてもう一つの興味は、猫間川は第二寝屋川に合流する手前で環状線の線路を
くぐって西側へ出ていたのだが、その場所がどこであったか?
写真の通り森ノ宮~大阪城公園間は築堤であり、川があった時には
おそらく築堤の一部が石積みによって切れていて、ガードになっていたと
想像される。
痕跡が残っていないかと見ていると、こんなのを見つけた。
ガード??いや、ケーブルを通す函だ。他の部分はコンクリート製トラフだが
この部分だけ鉄製、しかも色も形もずいぶん古めかしい。そこだけ鉄製に
しているのは、下に何かが通っていたからと考えられる。もしや・・・!?
しかし、この部分の長さは10m程度、川は斜めに横切っていたはずなので、
幅が狭すぎる気が。。。
この部分の公園側の道路を見ると、歩道のインターロッキングのパターンが
明らかにここだけ違っている。車両乗入れ部でもなさそうなので、これは
何らかの境界を示す目印と思われる。やはり・・・!?
いや、でも線路に対して完全に垂直というのはおかしい。。。う~ん
疑問を残したまま帰宅したが、地図を見ると、位置的にどうも違っているようだ。
猫間川が環状線をくぐっていたのは今の大阪城公園駅のプラットホームの南端
からすぐの位置らしい。これでは駅の工事の時に跡形なく造成されているだろう。。
ではあの鉄製トラフは何だったのか?
いくつかの昔の航空写真を見ていると、砲兵工廠内の通路が環状線の線路を
くぐっていたようだ。あれはその痕跡にほぼ間違いないと思われる。
・・・こんなことをいろいろ考えながら歩いていたら、ついつい3時間も
歩いてしまったというわけで(笑)
私も猫間川を探してあるくことをしているのですが、ケーブル溝や歩道の色については気にすることがありませんでした。見つけられた場所は確かに見覚えがありますが、頭をひねるにいたりませんでした。
川の痕跡は書かれているように道としてしかのこっていないのですが、玉造駅近くには橋の残骸が残っています。また、その橋の材が近くの神社に残されていますので、もしまだ見ておられなければ、歩いてみてはどうでしょうか。
玉造も歩いたのですが橋の残骸は気づきませんでした。
神社に材が残されているのですか、これまた知りませんでした。
玉造以南はまだたどっていません。近鉄をくぐる部分も気になってはいますが
商店街があるので見づらいですね。
また続きの探索に出かけようと思います。
これからもよろしくお願いしますね!
私は、よくよく見ると猫間川のほとりにすんでいることがわかりました。
読ませていただいて、とても興味が湧いています・・
ありがとうございました。
「猫間川のほとり」、いいですね~~!
身近な風景に興味を持たれるきっかけになったのは
とてもうれしいです。
いつも見ている風景も感性次第で面白くなりますよ!
探検してみて下さいね。
多くの方が猫間川に興味を持たれている事にびっくりしました。
私は生まれも育ちも寺田町です。
私の住んでいた裏の通りを子供の頃より猫間川と呼んでおりました。子供ながらに川も無いのに何故、猫間川かと母に聞いた事があります。
その、答えは猫間川と言う川があったけど埋め立ててしまい、名前だけが残ったと聞きました。
今も我々近辺の方は猫間川を真っ直ぐ行ってとか川名をそのまま使っています。
ちなみに私は現在60歳です。
猫間川のほとりに住んでおられたのですね!
すでに埋められてからも旧川筋の道を「猫間川」と呼んでいた、
いや、今もまだその呼び名を使っているというお話は
とても興味深く、まさに、「猫間川は生きている」のですね!!
いや~ぞくぞくします。
また思い出されたら猫間川についていろいろ教えて下さいね。
猫間川に掛かっていた中野橋・・・の情報で
むかし中野と言う大きな昆布屋さんの横に掛かっていた橋らしく、昔はたいそう大きな昆布工場だったみたいです。
ちなみに、今はファーストフードの「なかう」のご先祖さんらしいです。
では・・・
その昆布屋さんがお金を出して架けた橋なのではないでしょうか。
今は実家に帰省しており資料がないので、帰ったら
また調べてみようと思います。
あのなか卯は猫間川のほとりが発祥地とは!へぇ~
前も書きましたが「猫間川のほとりに住んでいる」という響き、
いいですねぇ~
名刺に「大阪市○○区猫間川のほとり」と書いておいたらいかが!?
すでに消滅したと聞きましたが、猫間川抽水所という名前が今も残っているのですね。
ちょうど十五夜お月見を歌っていて、毎年この時期に飾っては楽しんでいます。
猫間川に移る満月はさぞかしきれいだったでしょうね。
猫間川は160年も古い掛け軸の和歌に出てくるほど由緒ある川なのですね。
今では雑多なあの街の中を流れていた川に、映る満月を愛でていたというのは
今ではなかなか想像しにくいですが、風流な情景ですねぇ。