世の終わりのキリスト全能神

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聖霊が諸教会に語られた御言葉「神の働きと人の働き 」その1

2018-09-11 20:31:49 | 全能神御言葉

   人の働きはその人の経験と人間性を表す。人が提供するものと、人が行う働きがその人を表す。人の見識、人の推論、人の論理と豊かな想像力はすべてその人の働きの中に含まれている。特に、人の経験はいっそうその人の働きを表すことができ、人が経験してきたことはその働きの構成要素になるだろう。人の働きはその人の経験を表すことができる。人々が受動的状態で経験していると、彼らの交わりのほとんどは消極的要素で構成される。彼らの経験が積極的で、彼らがとりわけ積極的側の道を持っていれば、彼らが分かち合うものは非常な励みになり、人々は彼らから積極的な供給を得られるだろう。働き手がこの時消極的になれば、彼の分かち合うものはいつも消極的要素を含んでいることになるだろう。この種の交わりは重苦しいもので、他の人たちは彼と交わった後は、無意識のうちに気が滅入ってしまう。信奉者の状態は導き手の状態によって変化する。働き手が本来どのような人物かはその人の表現するものでわかり、聖霊の働きは人の状態によってしばしば変化する。聖霊は人の経験に従って働き、人を強要せず、その人の通常の経験過程に応じて要求を出す。すなわち、人の分かち合うものは神の言葉とは違う。人の分かち合うものはその人の個人的見識や経験を伝え、神の働きを基にして見るものや経験するものを表す。彼らの責任は、神の働きや話の後、自分たちが何を実行するべきか、または何において成長すべきかを見つけ、次にそれを信奉者に伝えることである。したがって、人の働きはその人の成長と実践を表す。もちろん、そのような働きには人の教訓と経験、あるいは人間的考えの一部が混入している。聖霊がどのように働こうとも、聖霊が人に働き掛けようと、肉となった神で働こうと、自分たちが何であるかを表わすのはいつも働き手である。働くのは聖霊であるが、働きは人が本質的に何であるかに基づいている。なぜなら聖霊は基礎なしには働かないからである。言い換えれば、働きは無からなされることはなく、いつも実際の状況や現実の条件に応じている。このようにしてのみ、人の性質は変換させることができ、人の古い見解や思考も変えられる。人が表すものは自分が見るもの、経験するもの、想像できるものである。教義、あるいは見解であっても、これらはすべて人が考えれば到達可能である。人の働きは大きさに関係なく、人の経験、見るもの、想像、あるいは思いつけるものの範囲を越えることはできない。神が表すものは神自身であり、これは人の力が及ばないもの、つまり、人の考えの及ばないものである。神はすべての人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人は自分の経験を表し、神は自身の存在を表す—この存在は神に固有の性質であり、人の力の及ばないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。それらは人の本来備わっている性質、および人の実際の力量を基礎に表される。そこで、それらも人の存在と呼ばれる。