ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ 男はつらいよ お帰り 寅さん (2019)

2020年01月08日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
“お兄ちゃんがいつ帰って来てもいいように二階は掃除してあるの”・・・ううう、泣かせる。あの初帰郷から50年、91歳の寅次郎はいづこの旅の空。多用される過去と現在の顔のアップに流れた歳月が滲む。半世紀におよぶ“変貌”のアンソロジー映画として完璧。

間取りは変わらぬまま、時の流れが随所に見える「くるま屋(とら屋)」のたたずまいがリアルだ。レジの位置はそのままだが、かつて店の中央にあった卓子はなくなり壁に面してカウンター席が設えられている。もう「だんご屋」ではなさそうだ。甘味喫茶なのだろうか、竜造(おいちゃん)が団子をこねていた作業場はなさそうだ。数々の騒動が繰り広げられた座敷への上がりかまちには、後付けの手すりが見える。老いた竜造やつね(おばちゃん)のために博たちが付けたのだろう。奥の六畳間の仏壇には二人の遺影が並んでいる。今、この屋の住人となった博とさくらも、やがてこの手すりに頼るときがくるのだろう。住人たちとともに家もまた歳をとり“変貌”し続ける。

『ぼくの伯父さん』(89)から『寅次郎紅の花』(95)まで6作。満男(吉岡)と泉(後藤)の青春譚として引き継がれ幕を閉じた寅次郎の物語は、当然のごとく満男と泉の再会譚として復活する。お互いのことしか見えなかったあの“とき”の青年と少女は、40歳代の男と女に“変貌”をとげて相応のポジションを世の中に定めているようだ。互いに思春期の子の親として一心に日々を過ごしているのだろう。今、矢のごとく過ぎてゆくこの“とき”を、二人の人生と呼ぶにはまだ早い。今はまだ人生の半ばだということを彼らが知るのは、もっと先のことになるだろう。ひたすら走り続けられることが幸福だったのだと。

このシリーズが女の幸福をめぐる物語でもあったことに気づく。下町の専業主婦として、市井の喜怒哀楽を生きた諏訪さくら(倍賞)。安住を夢見た結婚に失敗し、さすらいに身をゆだねた松岡リリー(浅丘)。浮気に走った夫を、気性の激しさから許せず娘からも距離を置かれた及川礼子(夏木)。人生の晩年を迎えつつある三人の女の「今」が彼女らの「かつて」の葛藤とともに描かれる。昭和の後半(S44)から平成の初期(H7)まで、女の幸福は結婚(家庭)という価値が世の中のスタンダードだった。今でもそうなのだろうか。家族を持ちながら国連職員として世界を駆け巡る泉は、結婚と仕事の両立に幸福を見い出しているのだろうか。これも“変貌”なのだろうか。そこは描かれない。当然だろう。答えがひとつであるはずがない。

寅次郎がいた場所と、彼に関わった人たちの“変貌”は、私のなかを流れて行った時間の量と、今の私が人生のどのあたりにいるのかを示唆してくれる。先はまだ長いのか、終幕はもうすぐなのか。

最後に。難民会議の会場でさりげなく語られる、第一次大戦、第二次大戦、チェチェン紛争を経験し、三世代の男を戦場に送り出した女の逸話が、この小市民の物語と世界を結ぶために山田洋次が仕込んだ回路なのだと思う。

(1月5日/TOHOシネマズ南大沢)

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