ぽんぽこタヌキの独り言 Solilokui dari Rakun Pompoko

日本を見て、アジアを見て、世界を見て、徒然なるままに書き記す、取るに足らない心の呟き

「玉ねぎ文化」について

2013年01月14日 08時59分08秒 | Weblog
フィリピンの文化のことを「玉ねぎ文化」という。「表の顔」=「表面の皮」を1枚、1枚、丁寧に剥いていくと、いろんな顔が見えてくるからである。その表向きの顔は、アジア通貨危機後における、昨今の「復活するフィリピン経済」であり、その少し前の「アジアの病人」ともいわれた「停滞する経済」であり、また、その前の「アジアの優等生」と言われた「フィリピン経済」であった。その表向きの「優等生評価」の裏で、蔓延して、しっかりと社会に根付いていったのが、「マルコス大統領」そして「イメルダ夫人」の下での「汚職体質」だったのである。

「フィリピン」という国は非常に面白い国である。フィリピン人という国民は、語族で分類すれば、「オーストロネシア語族」であり、これは「インドネシア」とか「マレーシア」で話されている言語と同じ語族に属する。この地域には、詳細な記録には残されてはいないが、「カラーオ人」と呼ばれる、いわゆる「先住民」が生活をしていて、そこに「ネグリト人」が渡来してきたとされている。古くは「マレー人」の来訪をうけ、また、インドからの「仏教」や「ヒンズー教」の伝来もあったようである。記録に残されている国家としては、「ルソン王国」/「ルソニア」の存在があり、また、ジョホール王国からの来訪者が「ミンダナオ島」に王国を建立したり、ビサヤ人による「セブ王国」が「中継貿易地」として栄えたり、南宋時代に「中国人」が来訪して国家を建立した事実などの記録もあるようだ。日本の安土桃山時代には、日本の堺商人「納屋助左衛門が交易のために来訪していたり、キリシタン大名で高槻城主である「高山右近」が移住してきたりといった事実も確認されている。

最終的に、現在の「フィリピン」の国家領域が確立されていったのは、スペイン人来訪以降である。1522年にマゼランがセブ島に隣接するマクタン島に辿り着き、その地域の「バランガイ」=‘Barangay'の首長であった「ラプラプ」=‘Lapu-Lapu’と対峙することになり、「マゼラン」=‘Majellan’はそこで殺害されたが、それ以降、まず、「ポルトガル」-「スペイン」間の領有権を確立させたのは、1529年の「サラサゴ条約」であり、1543年に1543年にはルイ・ロペス・デ・ビリャロボス率いるスペイン船団がサマール島とレイテ島に到着、この島々にフェリペ皇太子(後のフェリペ2世)にちなみ「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas,フェリペナス諸島) 」と命名し、1565年にミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いる遠征隊がメキシコからセブ島に到着し占領、植民基地を作ったことを端緒として、スペインによる支配が進められたのである。その後、1898年にアメリカに移譲されるまでの333年もの間、スペイン統治下にあり、様々な影響を受けてきたわけで、「数字」を口にする場合は「英語」「タガログ語」「スペイン語」が通用する。挨拶の「元気ですか」を意味する「クムスタ」=‘Kumsta' はスペイン語の「コモエスタ」=‘Como Esta' の影響を受けている。
また、「マタ」=‘Mata'「プキ」=‘Puki'「スソ」=‘Suso’「カナン」=‘Kanan’「シコ」=‘Siko'「リマ」=‘Lima’など「マレー語」と同じ、あるいは類似している語彙がたくさんある。
国内に存在する企業を見てみると、当然、小規模ながら数多くの民族系企業も損じしている。しかし、国内経済を支配しているのは、永年の人的交流の中で発展を遂げた、華僑系資本の企業も存在するし、スペイン系のコングロマリットと呼ばれる企業グループも数多く存在しており、不動産、海運、商社、インフラ関連、食品、小売り関連とかなりの広汎な業種において幅を利かしている。

独立後は「マルコス体制下」急速な経済発展を実現し、日系を含む数多くの外国資本に成功し、一時は「アジアの優等生」としての地位を確立したかに見えたが、「マルコス」の失脚を機に、そのあとに続く、初の女性大統領「コラソン・アキノ」による「アキノ政権」により、経済混乱をきたしたため、「アジアの優等生」は忽ちのうちに「アジアの病人」と言われるまでの経済的停滞を招くことになったのである。その後「ラモス大統領」の指導下で復活を果たし、それを引き継いだ「エストラーダ大統領」の時期に「アジア通貨危機」の直撃を受け、第9代マカパガル大統領の娘「アロヨ大統領」を経て、「コラソン・アキノ」の息子の「ベニグノ・アキノ3世」が大統領に就任して、現在に至っている。

以上の独立後の経済状況の皮を剥けば、先に述べた、1898年から1945年の独立までのアメリカ統治時代の約50年間の影響、そして、333年間続いたスペイン統治時代の影響が見えてくるわけで、家庭に来て働いてくれているお手伝いさんや運転手さんと仲良くなって、膝つき合わせて、話をしていると、そこに「スペイン」でも「アメリカ」でもない、「家族」や「親類縁者」を大切にする「フィリピン人の本来の姿」が見えてくるのである。

日本から見ていると、その時その時の経済状況くらいしか新聞報道されないので、昔、「やくざ屋さん」が頻繁に訪れ、たくさんの「じゃぱゆきさん」が日本にやってきた、そんな国で、「外国人の誘拐」があり、「犯罪者が逃げ込む国」みたいな「イメージ」になってしまうわけだけれど、「聞くと見るとじゃ大違い」の典型みたいなもので、この「フィリピン」の「玉ねぎ文化」は外から見るだけじゃわからないわけで、「行って、見て、触って」そして「1枚、1枚、皮を剥いてみて」初めて「理解」できる、いや、そう簡単に「理解できる」とは思わないけれど、少なくとも「理解」へのアプローチが可能になるのではないかと思うのである。

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