ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

慶派仏教彫刻探訪 奈良編①

2013-12-22 08:36:30 | 仏教彫刻探訪

12月14日(土)、昨夜の底冷えに恐れをなして鞍馬行きを断念し、一人室生へと向かった。
ところが…、室生も小雪がちらつき、恐ろしく寒い。
室生寺は主に平安期の仏教彫刻が多いが、金堂の十二神将は伝運慶造とされている。
この日は、金堂の特別拝観の期間にあたっており、金堂内に上がって諸仏を拝観できる。
拝観料を払うと、十二神将が印刷されたチケット用クリアファイルと
日付のスタンプが押された散華が記念品としてもらえて、嬉しくなってしまった。
この金堂内も、三十三間堂と比べれば規模は小さいものの
その構成美といい、仏教彫刻の充実さといい、引けをとらない空間となっている。
何度訪れても、室生寺は良い所、というか、私の好みにあっている場所だ。
ちょうど居合わせた大学のゼミの講義を聞きつつ、さらに係の方に説明してもらい
いくらでも金堂内に留まりたかったが、何せ寒くて足が痛くなるほど冷たい。
係の方も
「今日の寒さは今迄でいちばんですよ。私もさすがに応えております。」
というではないか。
このまま留まっていたら、間違いなくしもやけにまっしぐら

名残惜しかったが、弥勒堂・潅頂堂・五重塔を経て奥の院へ向かう。
奥の院には舞台造りの位牌堂と御影堂がある。

御影堂は、屋根の頂上に石造りの露盤が置かれており、こうした造りは外に例を見ないそうだ。
露盤とは、方形・六柱・八柱の屋根の頂部を押さえる方形の台のことで、仏塔の基盤である。
奥の院から来た道を戻ると、雪はますますその勢いを増し、吹雪になってしまった。
室生でゆっくりと過ごすつもりだったが、予定を早めてバスで室生口大野駅に戻る。
これなら桜井に出る前に、初瀬にも寄れそうだ。


近鉄で榛原を越えると雪はやんでいたが、やはり寒さは厳しかった。
長谷寺駅から歩いて長谷寺へ向かう途中、門前で昼食を済ませる。

長谷寺の仁王門をくぐると登廊で、ここを歩きながら本堂に至るまでの風情がなかなか良い。
国宝の本堂は舞台造りで、江戸時代の築ながら国宝。
この本堂におわすのが、3丈3尺(10m余)の十一面観音菩薩だ。
初めてこの像を見たのが高校生の時だった。
その時は、下から巨大な仏を見上げることのすごさ(としか言いようがない、とにかく、すごさ)
まさしく古人はそのすごさに打たれ、仏に帰依したしたのだろうと感じた。
そうしたあまたの人が、今日までこの仏の足元で手を合わせ、顔を見上げてきたことを思うと
歴史の重みと人々の願いの集積を痛感したのである。
長谷寺を後にすると、近鉄で長谷寺駅から桜井駅へと向かった。


桜井では、安倍文殊院聖林寺をどうしても訪れたかったが、交通の便があまり良くない。
桜井駅にある桜井観光案内所で、巡り方のアドバイスを受け、パンフレットをもらう。
まず安倍文殊院に行き、そこから聖林寺まで歩き、帰りはバスで、というのがお奨めだそうだ。
桜井市としては、まずは安倍文殊院を奨めたいのだろう。
桜井駅から歩くこと15分、安倍文殊院に到着。
受付で拝観料を払うと、玄関を入ったすぐの座敷で待つように言われる。
待つこと暫し。

すると、抹茶と共に安倍晴明判紋に「安倍山」と象られたらくがんが出された。
その座敷にはほかにも若い女性の先客がおり、口々に
「キャー、どうしよう…。ドキドキしちゃう!」
「キャー、ホント、どうしていいかわからないよねー!」
などと話して、ずいぶん興奮している様子である。
もしかして、これから通される本堂の文殊菩薩騎獅像への期待で昂りを抑えられないのか?
そもそも安倍文殊院は、安倍氏発祥の地に安倍倉梯麻呂が創建した寺院で
遣唐使と共に唐に留学し、帰国を果たせず唐で客死した安倍仲麻呂や
陰陽師・安倍晴明の出生地であるとも言われ(晴明の出生地は現大阪市阿倍野区とも)
どうやら若い女性の晴明ファンがたくさん参詣しているようである。
抹茶をいただき、本堂へと向かう。

どわー!こ、こ、これは!
写真で見た時からかなりすごそうだとは感じていたが、実際に本堂で見ると衝撃の出会いだ。
大きさ(7m)もさることながら、向こうから文殊菩薩が獅子に乗り
4人のお供を連れてこちらにやってくるようだ。
この一群の諸像は、ひっくるめて渡海文殊菩薩群像として国宝に指定されている。
維摩居士(ゆいまこじ)と獅子は安土桃山時代の後補だが
本尊の文殊師利菩薩・善財童子・優填王(うてんおう)・須菩提(しゅぼだい)は
快慶により建仁3(1203)年に造立されたことが、本尊体内墨書銘により判明している。
善財童子の振り返る姿と、獅子が右下に首と視線を向けていることが
この群像により一層の動きを与えているようだ。
それに、文殊菩薩の若々しく理知的で、気品を漂わせている顔もたまらない。
知恵を授ける菩薩がバカ面であるわけはないが、この顔つきは崇高の極み。
しかもいやみが全くないのだ。
快慶、すごいな。
こうしてみると、12日に訪れた大報恩寺(千本釈迦堂)の十大弟子とは月とすっぽん
などといっては悪いが、そのくらいの差があるように感じてしまう。
快慶が仏師として一本立ちするまで、精神的に支えたのは東大寺の重源(ちょうげん)であった。
そして、ある記事によれば、快慶が遺した仏像を見ると
重源没後の作品は明かに精彩を欠いている、と某寺執事長が言っているそうな。
そうした観点から快慶の作品を見通したことがないので、そうなのかどうかはわからないが
仮にそうだとすれば、この渡海文殊菩薩群像が1203年造で
大報恩寺の十大弟子のうち阿難尊者に建保6、7(1218、19)年の銘があることから
重源が没した建永元(1206)年以前と以降の作品ということになる。
月とすっぽん説、かなり分がある説かもしれない。


安倍文殊院を後にし、歩いて聖林寺へと向かう。

聖林寺は、安倍文殊院から歩いて30分弱。
観音堂内はガラスで仕切られ、その向こうに国宝の十一面観音菩薩立像が安置されている。
明治時代にフェノロサがその美しさを愛し、厨子を寄進しているくらいである。
しかし、ガラス1枚の隔たりが、かえって仏としての存在を貶めているような気がしてならない。
この像は観音堂にあるからまだましだが、このガラスがあるのとないのでは大違いだ。
三十三間堂と室生寺と安倍文殊院で感じた衝撃は、ガラス1枚の差で消え失せるのだ。
桜井駅行きのバスは都合の良い時間になく、桜井駅までそんなことを考えながら歩いたのだった。

仏像写真は所蔵寺院パンフレットから転載しました。



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