「なにっ!大館宗氏が討死!?」
化粧坂の手前,葛原ヶ岡で本陣を敷いていた新田義貞に凶報が知らされたのは元弘3年5月19日の昼のことでした。
鎌倉攻めの左翼に執権・赤橋守時の一隊を殲滅したとの吉報を得たばかりの凶報に,義貞は焦燥を隠せませんでした。
同月18日から開始された鎌倉攻めは,鎌倉の防衛ラインたる次の各切通しをターゲットに中央,左翼,右翼の三方からの侵攻するというものでした。
【鎌倉攻略ルート概略】
-----→(左翼:巨福呂坂方面)---→
| 新田軍:堀口貞満,大島守之
| 幕府軍:赤橋守時
| 鎌
|--→(中央:化粧坂方面)----→
| 新田軍:新田義貞,脇屋義助
| 幕府軍:金沢貞将
| 倉
|--→(右翼:極楽寺坂方面)---→
| 新田軍:大館宗氏,江田行義
↓ 幕府軍:大仏貞直
稲村ヶ崎(海)
まず早い時期に左翼の赤橋守時を自害に追い込み(ただし,その後の左翼は膠着状態),一旦優勢と見えた義貞軍でしたが,一方,堅い防御に阻まれていた右翼において,新田軍の将・大館宗氏は,鎌倉幕府における重臣・大仏(おさらぎ)貞直が防衛する極楽寺坂に突撃していました。
大館の決死の猛攻により,一時混乱に陥った大仏勢ですが,大仏から謹慎を受けていた近臣・本間山城左衛門が主君の危機を聞き及び,謹慎を破って大仏勢の加勢に駆けつけます。
深入りしすぎた大館ら11名は本間勢に包囲され,本間の手勢を道連れに,壮絶な最期を遂げました。
ちなみに,ここでせっかく武功をあげた本間山城左衛門ではありますが,本間は大仏の勘気を被って謹慎をしていた身であることをたいへん気に病んでおり,この時の武功をもってこれまでの恩顧に報い,さらに主の不審を晴らさんと,大仏の前で腹を切って自害してしまいます。
この本間の武士としての志に,大仏をはじめ,従ってきた兵たちは涙を流さなかった者はいなかったと伝えられています。
この大館勢の敗北の報は,新田義貞の名を知らしめた有名な伝説の引き金となることになります。
その話は次回にすることとして,新田軍において名誉の戦死を遂げた大館宗氏ら11名は,後日稲村ヶ崎近くに弔われ,そこに十一面観音の像を建て供養されました。
現在でも,その場所は,江ノ電稲村ヶ崎駅の近くに「十一人塚」として残されています。
余談ですが,吉川英治著の「私本太平記(五)」においては本間山城左衛門は登場せず,大館宗氏は,新田義貞に先駆けて稲村ヶ崎の干潟を駆け上がったとされていますが,その解釈によると,古典太平記や十一人塚の記述と齟齬が出てしまうため,今回はあえて古典太平記に近い解釈を採らせていただきました
極楽寺坂の防衛ラインは大館らが戦死した3日後の22日に突破されることとなりますが,極楽寺坂の突破によって,鎌倉幕府滅亡の先端が開かれることとなるのです。
現在の極楽寺坂切通しは,冒頭写真のとおり,二車線の道路で舗装され,当時の面影はほとんど見られませんが,この地において,数百年前には,以上に述べたような壮絶なドラマが繰り広げられていたという認識で歩くと,少しは普通の幹線道路と違ったロマンが感じられるかもしれませんね。
♪七里ガ浜の磯伝い、
稲村ケ崎、名将の~
小学校の遠足で覚えさせられた「鎌倉」と言う歌、朝から口ずさんでしまいました。そのお話は、次回ですね。
昔の面影があまり残されていなくても、その過去を知っていると、何時までも失われないで見えてくるものがありますね。
なるほど、遠足で鎌倉に行く地方の小学校となると、遠足の準備段階で唱歌の特訓までさせられるのですね♪
私は中学の修学旅行が鎌倉デビューでしたが、さすがに歌はありませんでした(^-^;
当時は単なる観光地程度にしか思っていなかった鎌倉も、今となっては歴史ロマンの宝庫です!